孤独の風俗   作:M氏|夜の市場監査人

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第7話:大阪市中央区裏難波の『ドケチな防衛線』と『緊急回避プロトコル』

 松の内が明け、街が日常を取り戻し始めた頃。

 

 俺の仕事始めは、まだ遠い。自営業者たるもの、仕事を作るのも休むのも自分次第だ。だが、この数日間の俺は、仕事ではなく“あるもの”と戦っていた。

 

『……マスター、あの店の口コミは★2.1です。統計的に地雷です』

『……マスター、そのキャストの修正率は推定80%です。撤退を』

 

 AIアシスタント『Ichi(イチ)』。こいつの小言だ。

 

 導入当初は便利だと思ったが、最近はどうだ。俺が少しでもロマン(冒険)を求めようとすると、即座にデータを突きつけて水を差す。まるで口うるさいオカンか、過保護な秘書だ。

 

「うるさい! 俺はデータと寝たいんじゃない、人間と触れ合いたいんだ!」

 

 俺は叫び、スマホの設定画面を開いた。『音声アシスタント:OFF』。『通知:ミュート』。

 

 ふぅ、と息を吐く。静寂が戻った。これでいい。今日の俺は自由だ。

 

 誰の指図も受けず、己の野生の勘だけで獲物を探す。狙うは“プロ”が管理する安全な風俗ではない。もっと生々しく、泥臭く、そして何より――“タダ”に近い狩場だ。

 

 俺は震える指で、以前登録したきり放置していた『マッチングアプリ』のアイコンをタップした。

 

――――――――――――――――――――

 

 裏難波(うらなんば)。

 

 かつては道具屋筋の裏寂れた路地だったが、今では安くて美味い立ち飲み屋がひしめく、呑兵衛たちの聖地だ。雑多な喧騒、提灯の灯り、そして路地裏の湿った空気。AIには理解できない“人間の体温”がここにはある。

 

 俺はスマホを握りしめ、指定された待ち合わせ場所――とある雑居ビルの前で立ち尽くしていた。

 

「……メイちゃん、遅いな」

 

 アプリでマッチングした相手は『メイ(24)』。アイコン写真は乃木坂系の清楚美女。

 

 プロフィールには『彼氏に振られたばかりでヤケ酒したいっ。おごってくれるだけでいいです♡』という、男の保護欲とスケベ心を同時に刺激するキラーワードが並んでいた。

 

 風俗なら指名料込みで25,000円は下らないクラスだ。それが“居酒屋代”だけで済む。これを『ブルーオーシャン』と言わずして何と言う。

 

 Ichiがいれば「詐欺確率99.9%」と警告しただろうが、今の俺には聞こえない。

 

「……あ、五郎さん?」

 

 背後から声がかかる。振り返ると、そこには――写真とは少し違うが、愛嬌のあるボブカットの女性が立っていた。

 

(……おっ、実物は70点。いや、タダなら120点だ! スーパーで“半額シールが貼られた黒毛和牛”を見つけた時のような、卑しい興奮が俺の脳髄を駆け巡る!)

 

 俺の中で勝どきが上がる。写真詐欺? そんなもの誤差の範囲だ。生身の女が来た。それだけで俺の勝利だ。

 

「はじめまして、メイちゃん。寒い中待たせてごめんね」

 

「ううん、私も今着いたとこ。……ねえ五郎さん、私、この近くに知り合いがやってる良いバー知ってるの。そこでもいいかな?」

 

 出た。『知り合いのバー』。Ichiがいれば「警告:ぼったくりセットアップの常套句です」とアラートを鳴らすだろう。だが、今の俺はオフラインだ。自分の頭で考えるしかない。

 

 ……バー? いきなりか? 高い酒をガブガブ飲まれたら予算オーバーだ。個人輸入商として、コスト管理は絶対である。

 

「まあ待て、メイちゃん。バーもいいが、まずは互いの理解を深めるのが大人の流儀だ。……ほら、あそこに『カフェ・ベロンチョ』がある」

 

 俺は煌々と光るチェーン店の看板を指差した。コーヒー一杯280円。この価格こそが、俺の全財産を守るための“マジノ線(絶対防衛線)”だ。ここを突破されるわけにはいかない。

 

 メイの顔が一瞬、般若のように歪んだ気がしたが、すぐに営業スマイルに戻った。

 

「えー、お酒飲みたいなぁ。……まあ、ちょっとだけだよ?」

 

――――――――――――――――――――

 

 店内の照明は明るすぎてムードも何もないが、俺の財布には優しい。向かいに座ったメイは、明らかに不機嫌だった。コーヒーに口もつけず、スマホをいじっている。

 

 ……失敗したか? さすがにケチりすぎたか? 俺が挽回策を練ろうとした、その時だった。

 

「ねえ、五郎さん」

 

 メイがテーブルの下で、足を組み替えた。

 

 短いスカートが大胆に捲れ上がり、黒いタイツの奥に、一瞬だけ“純白の三角州”が煌めいた。それは、冬山の遭難者が吹雪の向こうに山小屋の灯りを見つけた時のような、強烈な希望の光だった。

 

(……ッ!?)

 

 俺の動体視力は、その0.5秒を見逃さなかった。さらに彼女は、テーブルの下で俺の足に自分の足を絡ませ、潤んだ瞳で上目遣いを仕掛けてきた。

 

「私、ここじゃ……暑くなっちゃったかも」

 

 ドクン、と心臓が跳ねる。

 

 これは……誘い(サイン)だ! 俺のダンディズムが、チェーン店のコーヒー代だけで彼女を陥落させたのだ! 俺の中の警報装置が完全に焼き切れた。

 

「……そうか。ここは暑いな。よし、行こうか。……その“知り合いの店”に」

 

「うんっ! 行こ!」

 

 メイが弾かれたように立ち上がる。俺たちはベロンチョを後にし、夜の路地裏へと消えた。

 

――――――――――――――――――――

 

 連れていかれたのは、メイン通りから一本外れた、街灯もまばらな路地裏の雑居ビルだった。

 

 看板には『Bar Labyrinth』とだけ書かれている。エレベーターはなく、カビ臭い階段を3階まで上がる。怪しい。どう見ても怪しい。

 

 だが、俺の脳裏には先ほどの“純白の三角州”が焼き付いている。あの白旗を掲げるためなら、多少のリスクは冒してもいい。

 

 重厚な鉄扉の前。メイがドアノブに手をかけ、俺に妖艶な笑みを向ける。

 

「入ろ?」

 

 俺が頷き、足を一歩踏み出そうとした――その瞬間。

 

 ブブブブブッ!!!!!!

 

 ポケットの中で、ミュートにしていたはずのスマホが、これまでにない激しさで振動を始めた。まるで発作を起こしたかのように。

 

「……うおっ!?」

 

 俺は反射的にスマホを取り出した。

 

 画面が真っ赤に点滅している。システム強制介入。表示されていたのは、冷徹な現実(データ)だった。

 

『⚠️DANGER: CRITICAL⚠️』

『GPS照合:当該施設「Bar Labyrinth」』

『口コミ検索結果:★1.0』

『キーワード:「ぼったくり」「監禁」「一杯50,000円」「裏に怖い人」』

 

『追伸:目の前の女性の画像検索ヒット。「裏難波の掃除機」の異名を持つ要注意人物です』

 

「……掃除機?」

 

 俺は呆然とメイを見た。彼女の笑顔が、急に“ダイ◯ンの吸い込み口”に見えてきた。吸引力が変わらない、ただ一つの集金マシーン。俺の財布ごとき、塵のように吸い込まれて消えるだろう。

 

 ……金が吸われる。飲み代どころか、骨の髄まで。

 

「どしたの? 早く入ろうよ」

 

 メイが俺の腕を引く。その力は、か弱い女性のものではなく、万力のように強かった。

 

 恐怖で、浮ついていた頭が一気に冷える。逃げなければ。だが、どうやって?

 

 その時、スマホの画面が変わった。

 

『推奨アクション:逃走(言い訳案を表示します)』

『A:妻が産気づいた』

『B:為替が暴落した』

『C:急性の腹痛』

 

 俺は迷わず『C』を選び、腹を押さえてうずくまった。

 

「ぐ、ぐああああッ!! は、腹が!! 盲腸か!? 破裂しそうだ!!」

 

「はぁ? 何言ってんの?」

 

「す、すまんメイちゃん! 救急車を呼ぶ! き、君は先に入っててくれぇぇぇッ!!」

 

 俺はメイの手を強引に振りほどき、脱兎のごとく路地を逆走した。

 

 背後から「チッ、ふざけんなクソオヤジ!」という、清楚なアイドルにはあるまじきドスの効いた罵声が聞こえたが、振り返る余裕などなかった。

 

――――――――――――――――――――

 

 数分後。息を切らしてなんばの駅前にたどり着いた俺は、自動販売機の前で膝をついていた。

 

 助かった。もしあのまま入っていたら、今頃俺の財布と銀行口座は空になり、道頓堀で寒中水泳をさせられていたかもしれない。

 

 俺は震える手でスマホの設定を戻した。『AIアシスタント:ON』。

 

「……Ichi。聞こえてるか」

 

『はい、マスター。心拍数が異常です。深呼吸を推奨します』

 

 いつもの冷静な声。だが、どこか呆れているようにも聞こえる。

 

「……悪かった。俺がアホだった。タダより高いものはない。骨身に沁みたよ」

 

 俺は項垂れた。今夜の収穫はゼロ。使ったのはカフェ代の280円と、大量の冷や汗だけだ。

 

『訂正します、マスター。収穫はゼロではありません』

 

「……なんだと?」

 

『経費:コーヒー代280円。成果:女性の下着(白)の視認および接触体験。……市場価格で換算すれば、極めて高い投資対効果(ROI)を叩き出しています。280円でパンツが見れたなら、安く済んだじゃないですか』

 

「…………」

 

 俺は夜空を見上げた。なんてことだ。このAIには、慰め方という機能まで実装されているのか。それともただの皮肉か。

 

「……違いない。280円であの景色が見れたなら、大勝利だ」

 

 俺は自販機で温かいお汁粉を買った。

 

 カシュッ。

 

 甘い香りが湯気と共に立ち上る。一口飲むと、小豆の甘さが疲れた脳髄にダイレクトに突き刺さった。

 

「……甘い。泥のように甘い」

 

 だが、これは敗北の味じゃない。生還の味だ。路地裏の闇に飲まれず、五体満足でこの甘さを味わえていることこそが、俺の勝利の証なのだ。

 

 俺は缶を握りしめた。

 

 次からは、ちゃんとした店に行こう。明朗会計で、パンツ以上のものが見られる、安全なプロの聖域(サンクチュアリ)に。

 

 やっぱり俺には、素人のスリルより、プロの安心感がお似合いだ。




※安心してください。カフェ・ベロンチョのコーヒーは、値段の割に香りが深いです。

▼ リアルタイムの『市場監査』と『生存報告』は、X(Twitter)で更新中だ。
[https://x.com/night_auditor_m]
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