梅田の東通り商店街を抜けた先。かつては怪しい客引きと酔客が入り乱れる“欲望の迷宮”だった堂山町も、最近はずいぶんと様変わりした。
韓国料理屋に若者が行列を作り、外国人観光客がカメラを構える。健全だ。健全すぎて、俺のような怪物が息をする場所がない。迷路のように入り組んだ路地から、俺は重い足取りで抜け出した。
今日の商談は、惨敗だった。個人輸入した『イタリア製のヴィンテージ・パイプ』を若手オーナーの雑貨屋に持ち込んだのだが、反応は冷ややか。
「今のトレンドは電子タバコっすねぇ」「もっとインスタ映えするのないすか?」だと? ……嘆かわしい。紫煙(しえん)をくゆらせる時間の豊かさを知らず、ただ効率と見栄えだけを求める。現代人は、プロセスを楽しむという回路が焼き切れているのか。
俺はネクタイを少し緩め、雑多な人波の中で立ち止まった。虚しい。ヴィンテージの革のような味わい深い俺の心が、安っぽいプラスチック製品のように扱われた気分だ。
(ポン、ポン、ポン……)
不意に、身体の奥底でティンパニが鳴った。
「……いかん。心が……渇いている」
酒ではない。水分でもない。俺が今、猛烈に欲しているのは……もっと動物的な、湿度のある“熱”だ。効率化されたデジタル社会で冷え切ったこの心を、昭和の溶鉱炉のような熱気で溶かしたい。
俺は野生の獣の目で、獲物を探した。
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『セクキャバ・CLUBラビット』『40分 6,000円(TAX込)』
ふと、雑居ビルのくすんだ看板に吸い寄せられた。セクキャバ。その響きには、甘美な昭和の残り香がある。
個室ヘルスのような閉塞感もなければ、キャバクラのような気取った駆け引きもない。「酒を飲みながら、女の子が積極的に密着してくる」。それは男にとって、最も原始的で、最も効率の良い楽園だったはずだ。
『……マスター。警告します。この店の業態は「ツーショットキャバクラ」として登録されています。かつてのセクキャバとは似て非なるものです』
ポケットの中で、AIアシスタント『Ichi』が小言を垂れる。
「うるさい。名前が変わっただけで中身は同じだろ? 酒と女と密着。男の求める三大栄養素がそこにあるんだ」
『反論:現代のコンプライアンス基準では、過度な接触は排除されています。貴方が求めているのは“昭和のジャングル”ですが、そこに待っているのは“令和の養鶏場”である可能性が高いです』
「養鶏場だと? 失礼な奴だ。俺の勘を信じろ。あの看板のフォント、あれは昭和の生き残りだ! あの文字の擦れ具合に、老舗のプライドを感じるんだよ」
俺はスマホの音量を切り、エレベーターに乗り込んだ。
そうだ、俺が求めているのは、洗練されたサービスじゃない。もっとこう、ガツンとくるパンチの効いた……ニンニクたっぷりの餃子のような濃厚な接客だ。
――しかし。ドアが開いた瞬間、俺は言葉を失った。
「いらっしゃいませー! 指名なし1名様、ご案内ー!」
……明るい。あまりにも、明るすぎる。そこは、まるで“深夜のコンビニ”か“学校の体育館”のようだった。
天井の蛍光灯が煌々とフロアを照らし、壁には巨大なモニターでK-POPのMVが流れている。衝立(ついたて)もなければ、薄暗いムーディーな照明もない。あるのは、整然と並べられたテーブルと、そこで淡々と会話をするサラリーマンたち。
(……Ichiの言った通りだ。ここは“水耕栽培の野菜工場”か?)
俺の記憶の中のセクキャバはこうじゃない。かつては、ドアを開ければそこは無法地帯だった。
紫煙と香水の匂いが混じり合い、あちこちで「キャー!」という嬌声が飛び交い、隣の席では部長風の男が女の子の上に跨っていたり、跨がれていたりした。あの“熱気”が、どこにもない。
あるのは『透明性(クリアランス)』という名の、無味乾燥な景色だけだった。
「こちらへどうぞー。システムは40分ワンセットですー」
通された席に着くと、すぐに女の子がやってきた。
リョウ(21)。金髪に濃いメイク。見た目は華やかなギャルだが、その目はショーケースに並んだマネキンのように生気がない。
「お願いしまーす。ドリンクどうします?」
彼女は俺の顔も見ず、手元のタブレット端末を高速でタップし始めた。その指先には、躊躇いも感情もない。まるで工場のライン作業だ。
「あ、ああ……ハイボールで」
「はーい。……で、ここ初めてですか? アプリ登録すると500円オフっすよ」
アプリ? 風俗に来てまでDX(デジタルトランスフォーメーション)か?
俺は困惑しつつも、とりあえず乾杯をする。だが、リョウとの距離は遠い。物理的にも、心理的にも。テーブルを挟んで向かい合い、まるで面接のように淡々と会話が進む。
「お仕事何されてるんですかー?」
「休みの日なにしてますー?」
「最近Netflixで何見ましたー?」
……違う。俺が求めているのはこれじゃない。俺の時代のセクキャバは、座った瞬間に太ももに手を置かれ、「お兄さんガッチリしてるぅ〜♡」と体を密着させてくる、もっとこう……“土着的なエネルギーのぶつかり合い”だったはずだ。
それがなんだ、このドライな距離感は。ガールズバー……いや、ただの“相席居酒屋”じゃないか。
(……“炭酸の抜けたコーラ”だ。甘いだけで、何の刺激もない)
俺は迷った。周りを見渡しても、誰もイチャついていない。ただ真面目に会話をしている。もし俺が手を伸ばせば、それはこの“清潔な無菌室”を汚す異物として排除されるのではないか?
リョウの顔が、タブレットの青白い光に照らされて不気味に浮かび上がる。まるで“2001年宇宙の旅のモノリス”のように、その板が俺たちの時間を支配している。
『残り時間 10:00』
……カウントダウンだ。俺の青春が、デジタル数字と共に削られていく。
(……もういい。帰ろう。今のセクキャバはこんなものか。俺の時代は終わったんだ)
『残り時間 05:00』
俺は諦めのため息をつき、最後の一杯を煽った。チェックを頼もうとした、その時だ。
――世界が、反転した。
「……ねえ」
リョウが突然、俺の太ももの内側に手を滑り込ませた。ビクリ、と体が跳ねる。
驚いて顔を上げると、さっきまでの死んだ魚の目はどこへやら、とろけるような潤んだ瞳が俺を見つめていた。
「お兄さん……意外と筋肉質だね。……そういうの、好きかも」
彼女は椅子を引き寄せ、俺の耳元に吐息がかかる距離まで密着した。
香水の甘い匂いが鼻孔をくすぐる。豊満な胸の谷間が、俺の二の腕に、ぐにゅりと押し付けられる。
「……ッ!?」
なんだこの急激な沸点は! さっきまでのドライな女はどこへ行った!? これだ! 俺が求めていたのは、この体温だ! まるで“砂漠に降ったスコール”のように、俺の渇きを一瞬で潤していく!
「……もっと、触っていいよ?」
リョウが俺の手を取り、自分の腰へと導く。柔らかい。温かい。俺の脳内で、理性の堤防が決壊する音が聞こえた。
残り5分。たった5分だが、ここからが本番だ。今までの35分は、このメインディッシュを味わうための長い前菜だったのだ!
俺が彼女の腰に手を回し、さらなる深みへ踏み込もうとした瞬間。
ピピピピピピ……。
無機質なアラーム音が鳴り響いた。タブレットの画面が赤く点滅している。
『TIME UP』。
「あ……」
リョウが残念そうに身を引く。その表情は、「もっと一緒にいたいのに」と雄弁に語っていた。
「……時間、きちゃったね。……楽しかったな。もっとイイこと、したかったのに」
彼女は俺の目を見つめ、上目遣いで囁いた。
「……ねえ。延長、してくれるよね?」
ドクン。俺の心臓……いや、俺のリトル・ゴローが答えた。ここで終わってたまるか。寸止めされたまま帰れるわけがない。俺は男だ。目の前の美女が俺を求めているのだ。これは商談成立だ!
「……ああ。延長で」
俺がそう告げた、0.1秒後。
「あざーす! 延長はいりまーす! ドリンク飲んでいいっすかー?」
リョウは弾かれたように離れ、タブレットの『延長確定』ボタン(やたらデカい)をノールックで連打した。その顔は、再びあの“死んだ魚”に戻っていた。
「……え?」
「カンパーイ! ……で、さっきの話の続きなんすけどー」
彼女は氷をカランと鳴らし、またNetflixの話を始めた。
密着はない。吐息もない。あるのは、リセットされた『残り時間 40:00』というデジタルの絶望だけ。
(……騙された)
俺は悟った。あのラスト5分の情熱は、俺への好意ではない。あれはスーパーの試食コーナーだ。『延長』という名の本商品を買わせるための、精巧な撒き餌だったのだ。
俺はハイボールを飲み干した。苦い。とてつもなく苦い味がした。
(……Ichi。お前の勝ちだ。データは嘘をつかないな)
――――――――――――――――――――
俺は2倍に膨れ上がった伝票を見つめ、堂山の空を見上げた。
明るすぎるネオンが目に染みる。この街には、俺の求める夢もロマンもない。あるのは、高度にシステム化された“集金アルゴリズム”だけだ。
スマホを取り出すと、通知が表示されていた。
『分析完了:現代のツーショットキャバクラにおける延長率は、ラスト5分の接触頻度と正の相関があります。……見事な“営業”でしたね』
「……うるせぇよ」
俺はため息をついた。
「わかってるさ。俺は時代遅れの化石だ。“ジャングル”だと思って飛び込んだら、そこはただの“動物園”ですらなかった」
『提案:この近くに、昭和45年創業の純喫茶があります。今のマスターに必要なのは、デジタルの光ではなく、使い込まれたベロアのソファと、苦いコーヒーでしょう』
「……悪くない。行こう、Ichi。今日のところは、俺の負けにしておいてやる」
俺は襟を立てて歩き出した。
ハイボールは苦かったが、ネルドリップで時間をかけて落としたコーヒーの苦味なら、今の俺にはちょうどいい薬になるだろう。
俺は、効率化とは無縁の、泥のように濃くて黒い液体を求めて、夜の街へと消えた。
※安心してください。俺の指は、二度とあの巨大な『延長確定ボタン』を押しません。
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