孤独の風俗   作:M氏|夜の市場監査人

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第9話:東大阪市布施の『商魂と重力』と『呪いの千円札』

 近鉄大阪線、布施(ふせ)駅。大阪の東の玄関口とも呼ばれるこの街は、梅田や難波とは違う、独特の“地熱”を持っている。

 

 高架下に連なるブランドーリふせ商店街。隣の鶴橋から流れてくるキムチと焼肉の香ばしい匂い。そして、昼間から自転車で走り回る、ヒョウ柄の戦闘服を纏ったオカンたち。

 

 ここは、綺麗事の一切通用しない、商魂と人情が入り混じるディープ・イースト・オオサカだ。

 

「……負けた。完敗だ」

 

 今日の商談は、惨憺たる結果に終わった。個人輸入した『フランス製のアンティーク・ボタン』を、地元の手芸用品店の女主人に持ち込んだのだが、相手が悪すぎた。

 

「兄ちゃん、こんな古いプラスチック、布施じゃ誰も買わへんで? 1個10円なら置いたるわ」

 

 ……ぐうの音も出ない。こっちはフランスの風を運んできたつもりだったが、彼女にとってはただの“古いプラスチック”だ。

 

 1円単位の値下げ要求と、マシンガンのような大阪弁の弾幕。俺の提示したROI(投資対効果)という小洒落たナイフは、布施のオカンの“生活防衛本能”という分厚い盾の前では、爪楊枝ほどの役にも立たなかった。

 

 俺はネクタイを緩め、逃げるように路地裏へ入った。

 

 精神(メンタル)が削れている。商売人の街の強烈なエネルギーに当てられ、俺の心は天日干しされたスポンジのようにカラカラだ。

 

 スマホを取り出し、AIアシスタントアプリ『Ichi』を起動する。

 

『分析:マスターのストレス値が危険水準です。推奨アクション:糖分の摂取、または……』

 

「……または?」

 

『生殖本能に基づく、精神的リセットです』

 

 分かってるじゃないか、相棒。

 

 俺が今求めているのは、あのオカンのような脂っこいエネルギーじゃない。もっと静かで、胃に優しい……“京風だしのお粥”のような、あどけない癒やしだ。

 

――――――――――――――――――――

 

 俺が目をつけたのは、ネットの掲示板でなぜか酷評されている『ミク』というキャストだ。

 

 『暗い』『サービスが悪い』『地雷』。だが、写真の中の彼女は、韓国アイドルのような白い肌と、アンバランスなほど発育の良い肢体。今にも泣き出しそうな儚げな瞳をしていた。

 

「これだよ、Ichi。布施の喧騒に疲れた男たちが求めているのは、この“静寂”なんだ」

 

『警告:その静寂は、深海の水圧(プレッシャー)である可能性があります。回避を推奨します』

 

「うるさい。俺の監査眼を信じろ」

 

 俺は雑居ビルの2階にある店舗へ向かった。

 

 ドアを開けると、受付には競馬新聞を広げた初老の男性スタッフが座っていた。歴戦の枯れた雰囲気を漂わせている。きっと彼がこの店の、店主に違いない。

 

「ミクさんをお願いしたい」

 

 俺が告げた瞬間、店主の手が止まった。彼は眼鏡をずらし、俺の顔をまじまじと見て、低い声で言った。

 

「……お客さん。悪いことは言わへん、やめときなはれ」

 

 指名拒否。商売の街・布施で、店が客を追い返そうとしている?

 

「あの子な、ちょっと……いや、かなり“重い”んでね。リピートも返ってこんし。他の子にしましょか?」

 

 俺の心に火がついた。重い? それはつまり、真剣すぎるということだ。

 

 適当に流す嬢が多い中で、客と真剣に向き合う姿勢を、素人たちは“重い”と誤解しているだけじゃないのか? 俺は食い下がった。

 

「……はぁ。しゃあないですね」

 

 店主は諦めたように新聞を置き、信じられない提案をした。

 

「ほな、一番短いコースにしときなさい。それが兄ちゃんの為や」

 

 俺は心の中でガッツポーズをした。「短いコースにしろ」という忠告。それはつまり、「彼女の美貌と奉仕は、もはや“劇薬”の域に達している」という店側の配慮に違いない。

 

 『濃厚すぎるため、少量でお召し上がりください』という、高級珍味の注意書きと同じだ。これは楽しみだ。リトル・ゴローも、すでにナプキンを首に巻いてフォークを握りしめている。

 

――――――――――――――――――――

 

 ホテルの一室。現れた彼女を見て、俺は勝利を確信した。

 

 透き通るような白い肌、整った顔立ち。写真詐欺が横行するこの世界で、実物が写真を超えてくるという奇跡。これでスタイル抜群なのだから、掲示板の悪評などアンチの嫉妬に過ぎない。見たかIch! 俺の勝ちだ!

 

「……私ね、刺繍(ししゅう)が好きなの」

 

 ソファに座ると、彼女は唐突に語り始めた。

 

「一針、一針、布に針を刺していくの。……ブスッ、ブスッて。そうするとね、心が落ち着くの」

 

 ……擬音が怖い。彼女の美しい瞳には、光がなかった。底のない井戸のような暗闇。

 

 そして、シャワー室でのトラブルが決定打となった。コックを捻っても、水が出ないのだ。古い設備の故障。

 

「……あら。壊れてるのね。こういうところ、私に似てるわ」

 

 彼女はクスリと笑った。

 

「……建物も泣いてるのね。私みたいに」

 

 その言い方が、冗談なのか本気なのか、俺には判断できなかった。ゾクリ、と背筋が凍る。

 

 俺たちは濡れたタオルで身体を拭き合ったが、それは“肌の触れ合い”というより、“遺体の湯灌(ゆかん)”のような厳粛で冷たい儀式だった。息子もすっかり震え上がっている。

 

――――――――――――――――――――

 

 ベッドの上。そこは快楽の園ではなく、精神の実験場だった。

 

「……あれ、キスは?」「汚れるから無理よ」

 

 ……即答拒否。物理的な接触を極限まで拒むスタイル。これが令和の流行りなのだろうか?

 

 だが、彼女は俺の身体に馬乗りになり、耳元で低い声で囁いた。

 

「ねえ、私のこと、好き?」

 

 嘘だろ!? まだ始まって5分だ。好きも嫌いもない。商談の挨拶も終わっていない段階だ。

 

 だが、彼女の腕が俺の首に回される。強い。愛撫ではない。これは“ブラジリアン柔術”だ!

 

「前の人はね、嘘つきだったの。……貴方は、嘘つかないよね?」

 

 俺は“客”として扱われていなかった。

 

 彼女は俺を見ているようで、その実、俺の背後にある“理想の救世主”という幻影を見ている。刺繍の針を刺すように、俺という人間に執着の糸を縫い付けようとしている。

 

 身体を重ねているはずなのに、感じるのは温もりではなく、得体の知れない“重力”だった。

 

 彼女の孤独、執着、重い愛。それらが物理的な質量となって、俺の胸郭を圧迫する。息ができない。

 

(店主が言っていたのは、これか……!)

 

 60分で十分だと言ったのは、快楽の密度ではない。人間のSAN値(正気度)が耐えられる限界時間が、60分だったのだ。

 

 俺は必死の思いで“作業”を終わらせた。快感などない。ただ、「生きてここを出たい」という生存本能だけが俺を動かしていた。

 

――――――――――――――――――――

 

 事後。俺は逃げる準備を始めた。だが、彼女の“浸食”は止まらない。

 

「次はいつ会える? 来週? 再来週?」

「私、貴方のこと全部知りたいの。住所教えて?」

「刺繍したハンカチ、プレゼントしたいな。……髪の毛、一本もらっていい?」

 

 ……ホラーだ。完全にホラーだ。物理的な拘束が解けても、精神的な鎖が絡みついてくる。

 

 俺は恐怖に駆られ、財布からピン札の千円札を取り出した。新紙幣の肖像画が、俺を嘲笑っているように見える。チップだ。いや、手切れ金だ。これで機嫌を直して、俺を解放してくれ。

 

「これ、あげるよ。……今日はありがとう」

 

 彼女は、その紙切れを受け取った。そして、うっとりと頬ずりをした。

 

「……嬉しい」

 

 彼女は満面の笑みで、俺にトドメを刺した。

 

「これ、絶対使わない。額に入れて、部屋の一番高いところに飾る。毎日拝むわ」

 

 ヒィッ、と喉の奥で悲鳴が漏れた。ただの日本銀行券が、一瞬にして“特級呪物”へと変貌した。

 

 俺と彼女の魂を繋ぐ、永続的な契約書。今後、千円札を見るたびに、彼女のあの重い瞳と、針を刺す音が脳裏にフラッシュバックする呪い。

 

――――――――――――――――――――

 

 俺はホテルから転がり出た。布施の雑多な空気が、これほど美味く感じたことはない。生きている。俺は生還したのだ。

 

『分析完了:お店からの忠告を無視した結果、マスターの精神的疲労度は通常の3.5倍を記録しました』

 

「……うるせぇ」

 

 俺はふらつく足で、商店街にある精肉店へ向かった。有名なコロッケ屋だ。

 

 揚げたてを一つ買う。布施のソウルフードだ。紙袋越しにも伝わる熱気。俺は路上で、行儀悪くかぶりついた。

 

 サクッ……。ハフッ、ハフッ……。

 

「……熱い。そして、甘い」

 

 衣の軽快なリズムのあとから、ジャガイモの素朴な甘さと、ラードの濃厚な香りが波のように押し寄せてくる。うん、これだ。こういうのでいいんだよ。

 

 小洒落たフレンチのボタンなんかじゃない。この茶色くて、安くて、飾らない熱さ。この安っぽくて温かい現実だけが、あの部屋の重力で冷え切った俺の五臓六腑に、じんわりと染み渡っていく。

 

 70円の救済。今の俺には、どんな高級ステーキよりも、この楕円形の揚げ物がご馳走だ。

 

 俺は誓った。次は、店側の言うことを聞こう。そして二度と、軽はずみに千円札を渡したりしない。それは時として、人の魂を縛る鎖になるのだから。

 

 俺はコロッケの包み紙を握りしめ、逃げるように準急電車へと飛び乗った。




※安心してください。布施のコロッケは、ラードの甘みが絶品ですが、食べた後に「重い愛(胃もたれ)」が残ることはありません。

▼ リアルタイムの『市場監査』と『生存報告』は、X(Twitter)で更新中だ。
[https://x.com/night_auditor_m]
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