近鉄大阪線、布施(ふせ)駅。大阪の東の玄関口とも呼ばれるこの街は、梅田や難波とは違う、独特の“地熱”を持っている。
高架下に連なるブランドーリふせ商店街。隣の鶴橋から流れてくるキムチと焼肉の香ばしい匂い。そして、昼間から自転車で走り回る、ヒョウ柄の戦闘服を纏ったオカンたち。
ここは、綺麗事の一切通用しない、商魂と人情が入り混じるディープ・イースト・オオサカだ。
「……負けた。完敗だ」
今日の商談は、惨憺たる結果に終わった。個人輸入した『フランス製のアンティーク・ボタン』を、地元の手芸用品店の女主人に持ち込んだのだが、相手が悪すぎた。
「兄ちゃん、こんな古いプラスチック、布施じゃ誰も買わへんで? 1個10円なら置いたるわ」
……ぐうの音も出ない。こっちはフランスの風を運んできたつもりだったが、彼女にとってはただの“古いプラスチック”だ。
1円単位の値下げ要求と、マシンガンのような大阪弁の弾幕。俺の提示したROI(投資対効果)という小洒落たナイフは、布施のオカンの“生活防衛本能”という分厚い盾の前では、爪楊枝ほどの役にも立たなかった。
俺はネクタイを緩め、逃げるように路地裏へ入った。
精神(メンタル)が削れている。商売人の街の強烈なエネルギーに当てられ、俺の心は天日干しされたスポンジのようにカラカラだ。
スマホを取り出し、AIアシスタントアプリ『Ichi』を起動する。
『分析:マスターのストレス値が危険水準です。推奨アクション:糖分の摂取、または……』
「……または?」
『生殖本能に基づく、精神的リセットです』
分かってるじゃないか、相棒。
俺が今求めているのは、あのオカンのような脂っこいエネルギーじゃない。もっと静かで、胃に優しい……“京風だしのお粥”のような、あどけない癒やしだ。
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俺が目をつけたのは、ネットの掲示板でなぜか酷評されている『ミク』というキャストだ。
『暗い』『サービスが悪い』『地雷』。だが、写真の中の彼女は、韓国アイドルのような白い肌と、アンバランスなほど発育の良い肢体。今にも泣き出しそうな儚げな瞳をしていた。
「これだよ、Ichi。布施の喧騒に疲れた男たちが求めているのは、この“静寂”なんだ」
『警告:その静寂は、深海の水圧(プレッシャー)である可能性があります。回避を推奨します』
「うるさい。俺の監査眼を信じろ」
俺は雑居ビルの2階にある店舗へ向かった。
ドアを開けると、受付には競馬新聞を広げた初老の男性スタッフが座っていた。歴戦の枯れた雰囲気を漂わせている。きっと彼がこの店の、店主に違いない。
「ミクさんをお願いしたい」
俺が告げた瞬間、店主の手が止まった。彼は眼鏡をずらし、俺の顔をまじまじと見て、低い声で言った。
「……お客さん。悪いことは言わへん、やめときなはれ」
指名拒否。商売の街・布施で、店が客を追い返そうとしている?
「あの子な、ちょっと……いや、かなり“重い”んでね。リピートも返ってこんし。他の子にしましょか?」
俺の心に火がついた。重い? それはつまり、真剣すぎるということだ。
適当に流す嬢が多い中で、客と真剣に向き合う姿勢を、素人たちは“重い”と誤解しているだけじゃないのか? 俺は食い下がった。
「……はぁ。しゃあないですね」
店主は諦めたように新聞を置き、信じられない提案をした。
「ほな、一番短いコースにしときなさい。それが兄ちゃんの為や」
俺は心の中でガッツポーズをした。「短いコースにしろ」という忠告。それはつまり、「彼女の美貌と奉仕は、もはや“劇薬”の域に達している」という店側の配慮に違いない。
『濃厚すぎるため、少量でお召し上がりください』という、高級珍味の注意書きと同じだ。これは楽しみだ。リトル・ゴローも、すでにナプキンを首に巻いてフォークを握りしめている。
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ホテルの一室。現れた彼女を見て、俺は勝利を確信した。
透き通るような白い肌、整った顔立ち。写真詐欺が横行するこの世界で、実物が写真を超えてくるという奇跡。これでスタイル抜群なのだから、掲示板の悪評などアンチの嫉妬に過ぎない。見たかIch! 俺の勝ちだ!
「……私ね、刺繍(ししゅう)が好きなの」
ソファに座ると、彼女は唐突に語り始めた。
「一針、一針、布に針を刺していくの。……ブスッ、ブスッて。そうするとね、心が落ち着くの」
……擬音が怖い。彼女の美しい瞳には、光がなかった。底のない井戸のような暗闇。
そして、シャワー室でのトラブルが決定打となった。コックを捻っても、水が出ないのだ。古い設備の故障。
「……あら。壊れてるのね。こういうところ、私に似てるわ」
彼女はクスリと笑った。
「……建物も泣いてるのね。私みたいに」
その言い方が、冗談なのか本気なのか、俺には判断できなかった。ゾクリ、と背筋が凍る。
俺たちは濡れたタオルで身体を拭き合ったが、それは“肌の触れ合い”というより、“遺体の湯灌(ゆかん)”のような厳粛で冷たい儀式だった。息子もすっかり震え上がっている。
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ベッドの上。そこは快楽の園ではなく、精神の実験場だった。
「……あれ、キスは?」「汚れるから無理よ」
……即答拒否。物理的な接触を極限まで拒むスタイル。これが令和の流行りなのだろうか?
だが、彼女は俺の身体に馬乗りになり、耳元で低い声で囁いた。
「ねえ、私のこと、好き?」
嘘だろ!? まだ始まって5分だ。好きも嫌いもない。商談の挨拶も終わっていない段階だ。
だが、彼女の腕が俺の首に回される。強い。愛撫ではない。これは“ブラジリアン柔術”だ!
「前の人はね、嘘つきだったの。……貴方は、嘘つかないよね?」
俺は“客”として扱われていなかった。
彼女は俺を見ているようで、その実、俺の背後にある“理想の救世主”という幻影を見ている。刺繍の針を刺すように、俺という人間に執着の糸を縫い付けようとしている。
身体を重ねているはずなのに、感じるのは温もりではなく、得体の知れない“重力”だった。
彼女の孤独、執着、重い愛。それらが物理的な質量となって、俺の胸郭を圧迫する。息ができない。
(店主が言っていたのは、これか……!)
60分で十分だと言ったのは、快楽の密度ではない。人間のSAN値(正気度)が耐えられる限界時間が、60分だったのだ。
俺は必死の思いで“作業”を終わらせた。快感などない。ただ、「生きてここを出たい」という生存本能だけが俺を動かしていた。
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事後。俺は逃げる準備を始めた。だが、彼女の“浸食”は止まらない。
「次はいつ会える? 来週? 再来週?」
「私、貴方のこと全部知りたいの。住所教えて?」
「刺繍したハンカチ、プレゼントしたいな。……髪の毛、一本もらっていい?」
……ホラーだ。完全にホラーだ。物理的な拘束が解けても、精神的な鎖が絡みついてくる。
俺は恐怖に駆られ、財布からピン札の千円札を取り出した。新紙幣の肖像画が、俺を嘲笑っているように見える。チップだ。いや、手切れ金だ。これで機嫌を直して、俺を解放してくれ。
「これ、あげるよ。……今日はありがとう」
彼女は、その紙切れを受け取った。そして、うっとりと頬ずりをした。
「……嬉しい」
彼女は満面の笑みで、俺にトドメを刺した。
「これ、絶対使わない。額に入れて、部屋の一番高いところに飾る。毎日拝むわ」
ヒィッ、と喉の奥で悲鳴が漏れた。ただの日本銀行券が、一瞬にして“特級呪物”へと変貌した。
俺と彼女の魂を繋ぐ、永続的な契約書。今後、千円札を見るたびに、彼女のあの重い瞳と、針を刺す音が脳裏にフラッシュバックする呪い。
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俺はホテルから転がり出た。布施の雑多な空気が、これほど美味く感じたことはない。生きている。俺は生還したのだ。
『分析完了:お店からの忠告を無視した結果、マスターの精神的疲労度は通常の3.5倍を記録しました』
「……うるせぇ」
俺はふらつく足で、商店街にある精肉店へ向かった。有名なコロッケ屋だ。
揚げたてを一つ買う。布施のソウルフードだ。紙袋越しにも伝わる熱気。俺は路上で、行儀悪くかぶりついた。
サクッ……。ハフッ、ハフッ……。
「……熱い。そして、甘い」
衣の軽快なリズムのあとから、ジャガイモの素朴な甘さと、ラードの濃厚な香りが波のように押し寄せてくる。うん、これだ。こういうのでいいんだよ。
小洒落たフレンチのボタンなんかじゃない。この茶色くて、安くて、飾らない熱さ。この安っぽくて温かい現実だけが、あの部屋の重力で冷え切った俺の五臓六腑に、じんわりと染み渡っていく。
70円の救済。今の俺には、どんな高級ステーキよりも、この楕円形の揚げ物がご馳走だ。
俺は誓った。次は、店側の言うことを聞こう。そして二度と、軽はずみに千円札を渡したりしない。それは時として、人の魂を縛る鎖になるのだから。
俺はコロッケの包み紙を握りしめ、逃げるように準急電車へと飛び乗った。
※安心してください。布施のコロッケは、ラードの甘みが絶品ですが、食べた後に「重い愛(胃もたれ)」が残ることはありません。
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