ベーカリー・カルデアのある街で   作:テトマト

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第9話 シエル特製スパイスカレーパン

その日は、帰りが遅くなった。

 

 理由は特別なものじゃない。

 部活が少し長引いて、そのあとに寄り道が一つ増えただけだ。

 それでも、制服の袖口に残る汗の感触が、今日が思ったより長かったことを教えてくる。

 

 友枝町の通りは、もう人影が少ない。

 閉まった店のシャッターが並び、風の音だけが目立つ。

 街灯の下を歩きながら、桃矢はふと、見慣れた灯りに目を留めた。

 

「……まだ、やってんのか」

 

 小さなパン屋。

 夜にしては珍しく、店の灯りはまだ落とされていない。

 

 最近、さくらがあの店の紙袋を持って帰ることがあった。

 夕飯の前だったり、少し遅い時間だったり。

 もう理由を詮索するようなことでもない、見慣れた光景だ。

 

 だから今、この灯りを見ても、

 足が自然に止まっただけだった。

 

 扉を押すと、控えめなベルの音が鳴る。

 

「いらっしゃい」

 

 カウンターの向こうから、穏やかな声が返ってきた。

 

「……まだ大丈夫か?」

 

「うん。

 ちょうど片付けに入るところだったから」

 

 エプロン姿の店主は、そう言って軽く笑った。

 棚に並んだパンは、もう数が少ない。

 

 甘いパンはほとんど残っていない。

 その代わり、揚げ色の濃いパンが、ひとつだけ置かれている。

 

「それ、なんだ」

 

「シエル特製スパイスカレーパンだよ」

 

 少し間を置いてから、付け足す。

 

「……辛いよ」

 

「上等だ」

 

 桃矢は即答した。

 甘いものは別にいらない。

 腹にたまって、ちゃんと力になるものがいい。

 

 会計を済ませ、紙袋を受け取る。

 ずしりとした重みが、妙に現実的だった。

 

「結構、来るのか」

 

「うん。夜は少ないけどね」

 

「……そうか」

 

 それだけ言って、桃矢は店を出た。

 

 外に出ると、夜の空気がひんやりしている。

 歩きながら、紙袋の口をわずかに開けた。

 立ちのぼる香りは、思っていたよりも強い。

 

 一口かじる。

 

「……効くな」

 

 しっかり辛い。

 でも、不思議と嫌じゃない。

 

 無駄に主張しない味。

 眠気を吹き飛ばすほどじゃないが、体の芯がじんわり温まる。

 

(あいつ……これ食ってんのか)

 

 さくらの顔が浮かぶ。

 そして、そのまま――

 辛そうに眉を下げたまま、パンを持つ姿まで思い浮かんでしまった。

 

『ほぇぇぇ……!

 からいよー、これぇ……!』

 

 泣きそうな声を上げながら、

 それでももう一口かじってしまう様子。

 

「……ねえよな」

 

 小さく呟いて、

 桃矢は気づかないうちに、ほんの少しだけ口元を緩めていた。

 

 あれは、別のを選ぶだろう。

 

 もう一口かじる。

 スパイスの刺激が、身体の奥に残っていた疲れを押し戻す。

 

 このパンを食べると

 まだ少しだけ、頑張れそうな気がする。

 

 食べ終えて、紙袋をたたむ。

 足を止めて空を見上げると、夜はすっかり深くなっている。

 

「……悪くねえな」

 

 独り言は、誰にも届かない。

 それでも、次にここへ寄る理由としては、十分だった。

 

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