その日は、帰りが遅くなった。
理由は特別なものじゃない。
部活が少し長引いて、そのあとに寄り道が一つ増えただけだ。
それでも、制服の袖口に残る汗の感触が、今日が思ったより長かったことを教えてくる。
友枝町の通りは、もう人影が少ない。
閉まった店のシャッターが並び、風の音だけが目立つ。
街灯の下を歩きながら、桃矢はふと、見慣れた灯りに目を留めた。
「……まだ、やってんのか」
小さなパン屋。
夜にしては珍しく、店の灯りはまだ落とされていない。
最近、さくらがあの店の紙袋を持って帰ることがあった。
夕飯の前だったり、少し遅い時間だったり。
もう理由を詮索するようなことでもない、見慣れた光景だ。
だから今、この灯りを見ても、
足が自然に止まっただけだった。
扉を押すと、控えめなベルの音が鳴る。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうから、穏やかな声が返ってきた。
「……まだ大丈夫か?」
「うん。
ちょうど片付けに入るところだったから」
エプロン姿の店主は、そう言って軽く笑った。
棚に並んだパンは、もう数が少ない。
甘いパンはほとんど残っていない。
その代わり、揚げ色の濃いパンが、ひとつだけ置かれている。
「それ、なんだ」
「シエル特製スパイスカレーパンだよ」
少し間を置いてから、付け足す。
「……辛いよ」
「上等だ」
桃矢は即答した。
甘いものは別にいらない。
腹にたまって、ちゃんと力になるものがいい。
会計を済ませ、紙袋を受け取る。
ずしりとした重みが、妙に現実的だった。
「結構、来るのか」
「うん。夜は少ないけどね」
「……そうか」
それだけ言って、桃矢は店を出た。
外に出ると、夜の空気がひんやりしている。
歩きながら、紙袋の口をわずかに開けた。
立ちのぼる香りは、思っていたよりも強い。
一口かじる。
「……効くな」
しっかり辛い。
でも、不思議と嫌じゃない。
無駄に主張しない味。
眠気を吹き飛ばすほどじゃないが、体の芯がじんわり温まる。
(あいつ……これ食ってんのか)
さくらの顔が浮かぶ。
そして、そのまま――
辛そうに眉を下げたまま、パンを持つ姿まで思い浮かんでしまった。
『ほぇぇぇ……!
からいよー、これぇ……!』
泣きそうな声を上げながら、
それでももう一口かじってしまう様子。
「……ねえよな」
小さく呟いて、
桃矢は気づかないうちに、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
あれは、別のを選ぶだろう。
もう一口かじる。
スパイスの刺激が、身体の奥に残っていた疲れを押し戻す。
このパンを食べると
まだ少しだけ、頑張れそうな気がする。
食べ終えて、紙袋をたたむ。
足を止めて空を見上げると、夜はすっかり深くなっている。
「……悪くねえな」
独り言は、誰にも届かない。
それでも、次にここへ寄る理由としては、十分だった。