ベーカリー・カルデアのある街で   作:テトマト

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第10話 アヴァロンの蜜焼きパン

 

 この店に来るのは、二度目になる。

 

 前に来たのは、桃矢に連れられてだった。

 放課後の帰り道、気まぐれのように立ち寄っただけで、あの時は店の奥まで目を向ける余裕もなかった。

 パンの名前が少し変わっている、落ち着いた店だ――それくらいの印象しか残っていなかったはずなのに。

 

 今日は、ひとりだ。

 

 扉を開けると、ふわりと甘い匂いが鼻先をくすぐる。

 夕方から夜へ移る時間帯。

 外の通りは静かで、店内の灯りも控えめだった。

 まるで、昼と夜のあいだに挟まれた場所みたいだ、と雪兎は思う。

 

 カウンターの向こうで、藤丸が顔を上げた。

 

「いらっしゃい」

 

 それだけの声かけ。

 必要以上に踏み込まない距離感が、この店らしい。

 

 雪兎は軽く会釈をして、棚に並んだパンを眺めた。

 名前はどれも少し不思議で、どこか物語めいている。

 それでも気取った感じがしないのは、たぶん、この店が無理に語ろうとしないからだ。

 

 視線が、淡い焼き色のパンで止まる。

 

「……これ、ください」

 

 自然と、そう口にしていた。

 

「アヴァロンの蜜焼きパンですね」

 

「はい」

 

「いくつにします?」

 

 一瞬だけ迷ってから、雪兎は答える。

 

「四つでお願いします」

 

 自分でも、少し多いかなと思った。

 けれど、否定する理由もなかった。

 

 藤丸は驚いた様子も見せず、静かに頷く。

 紙袋にパンを入れる手つきが、やけに丁寧だった。

 

 会計を済ませ、ひとつだけ取り分けてもらう。

 カウンター脇にある、小さな飲食スペースに腰を下ろした。

 

 割った瞬間、ほのかな甘さが立ち上る。

 ひと口かじると、蜜の味がゆっくりと広がった。

 

 甘い。

 でも、強くない。

 

 口の中で主張しすぎず、

 噛むたびに、少しずつ染みてくる。

 

(……優しい味だな)

 

 理由を探すほどのことでもない。

 ただ、そう感じた。

 

 肩の力が、気づかないうちに抜けていた。

 

 甘さの余韻が残る中、

 藤丸が何も言わずに、横からカップを差し出してくる。

 

「……コーヒー?」

 

「うん。巌窟王のコーヒー」

 

 冗談なのか本気なのか、分からない名前だ。

 でも、この店では、それも自然に思えた。

 

「……いいんですか?

 ありがとうございます」

 

 受け取ったカップは、思ったより温かい。

 一口飲むと、苦味が甘さをすっと引いてくれる。

 

 静かな時間が流れる。

 言葉を交わさなくても、気まずくならない空気。

 

(……さくらちゃん)

 

 ふと、その名前が頭をよぎる。

 

 最近、彼女がこの店に寄っている理由が、

 少しだけ分かった気がした。

 

 無理に元気を出させるわけじゃない。

 でも、立ち止まったあと、ちゃんと前を向ける。

 

 そんな味。

 

 雪兎は残りのパンを袋に戻し、カップを置いた。

 

「ごちそうさまでした」

 

「ありがとうございました。

 また、いつでも」

 

 外に出ると、夜の空気がひんやりとしている。

 手の中の紙袋は、まだほんのり温かかった。

 

 確かめるように持ち直してから、

 雪兎は静かな帰り道を歩き出す。

 

 このパンは、

 誰かを支えるための味だ。

 

 そう思いながら。

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