この店に来るのは、二度目になる。
前に来たのは、桃矢に連れられてだった。
放課後の帰り道、気まぐれのように立ち寄っただけで、あの時は店の奥まで目を向ける余裕もなかった。
パンの名前が少し変わっている、落ち着いた店だ――それくらいの印象しか残っていなかったはずなのに。
今日は、ひとりだ。
扉を開けると、ふわりと甘い匂いが鼻先をくすぐる。
夕方から夜へ移る時間帯。
外の通りは静かで、店内の灯りも控えめだった。
まるで、昼と夜のあいだに挟まれた場所みたいだ、と雪兎は思う。
カウンターの向こうで、藤丸が顔を上げた。
「いらっしゃい」
それだけの声かけ。
必要以上に踏み込まない距離感が、この店らしい。
雪兎は軽く会釈をして、棚に並んだパンを眺めた。
名前はどれも少し不思議で、どこか物語めいている。
それでも気取った感じがしないのは、たぶん、この店が無理に語ろうとしないからだ。
視線が、淡い焼き色のパンで止まる。
「……これ、ください」
自然と、そう口にしていた。
「アヴァロンの蜜焼きパンですね」
「はい」
「いくつにします?」
一瞬だけ迷ってから、雪兎は答える。
「四つでお願いします」
自分でも、少し多いかなと思った。
けれど、否定する理由もなかった。
藤丸は驚いた様子も見せず、静かに頷く。
紙袋にパンを入れる手つきが、やけに丁寧だった。
会計を済ませ、ひとつだけ取り分けてもらう。
カウンター脇にある、小さな飲食スペースに腰を下ろした。
割った瞬間、ほのかな甘さが立ち上る。
ひと口かじると、蜜の味がゆっくりと広がった。
甘い。
でも、強くない。
口の中で主張しすぎず、
噛むたびに、少しずつ染みてくる。
(……優しい味だな)
理由を探すほどのことでもない。
ただ、そう感じた。
肩の力が、気づかないうちに抜けていた。
甘さの余韻が残る中、
藤丸が何も言わずに、横からカップを差し出してくる。
「……コーヒー?」
「うん。巌窟王のコーヒー」
冗談なのか本気なのか、分からない名前だ。
でも、この店では、それも自然に思えた。
「……いいんですか?
ありがとうございます」
受け取ったカップは、思ったより温かい。
一口飲むと、苦味が甘さをすっと引いてくれる。
静かな時間が流れる。
言葉を交わさなくても、気まずくならない空気。
(……さくらちゃん)
ふと、その名前が頭をよぎる。
最近、彼女がこの店に寄っている理由が、
少しだけ分かった気がした。
無理に元気を出させるわけじゃない。
でも、立ち止まったあと、ちゃんと前を向ける。
そんな味。
雪兎は残りのパンを袋に戻し、カップを置いた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました。
また、いつでも」
外に出ると、夜の空気がひんやりとしている。
手の中の紙袋は、まだほんのり温かかった。
確かめるように持ち直してから、
雪兎は静かな帰り道を歩き出す。
このパンは、
誰かを支えるための味だ。
そう思いながら。