ベーカリー・カルデアのある街で   作:テトマト

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第11話 花の魔術師のミルクブレッド

 

 その日は、特別なことは何もなかった。

 

 授業はつつがなく終わり、

 部活でも大きな失敗はしていない。

 空はまだ明るく、帰り道もいつもと同じ。

 

 それなのに――

 

「……うーん」

 

 さくらは歩きながら、小さく首を傾げた。

 理由は分からない。

 元気がないわけでも、落ち込んでいるわけでもないのに、

 なぜか今日は、まっすぐ家に帰る気にならなかった。

 

「……寄っていこうかな」

 

 気づけば、足が向きを変えている。

 最近ではすっかり見慣れた、小さなパン屋の灯り。

 

 扉を開けると、ふわっと甘い匂いが広がった。

 

「いらっしゃい」

 

 カウンターの向こうで、藤丸が顔を上げる。

 マシュも、いつもの柔らかい笑顔で会釈してくれた。

 

 さくらは軽く手を振ってから、棚に並んだパンを見回す。

 いつもなら、もう決まっている。

 迷うことなんて、ほとんどない。

 

(今日は……)

 

 ウルクの朝焼きパンに、目は行く。

 けれど、手は伸びなかった。

 

 代わりに、少し奥。

 淡い色のパンに、視線が止まる。

 

「……花の魔術師のミルクブレッド?」

 

 思わず声に出すと、

 マシュが少しだけ嬉しそうに頷いた。

 

「はい。

 ミルクが多めで、とてもやさしい味なんです」

 

「花の、魔術師……」

 

 名前だけで、なんだかふわふわする。

 強そうでも、すごそうでもないのに、

 なぜか気になった。

 

(今日は、これかも)

 

 理由は説明できない。

 でも、今日は――これがいい。

 

「じゃあ……これ、ください」

 

「はい」

 

 藤丸は短く答えて、手際よく袋に入れてくれる。

 余計なことは聞かれない。

 それが、この店の好きなところだった。

 

 会計を済ませ、パンを受け取る。

 

「ありがとうございました」

 

「ありがとうございました。

 気をつけて帰ってくださいね」

 

 外に出ると、夕方の風が少しだけ涼しい。

 袋の中から、ほのかな甘い匂いがした。

 

(家で食べよう)

 

 そう決めて、さくらは歩き出す。

 

 途中で、ふと足を止めた。

 パン屋の袋を持つ手が、思ったより軽い。

 

 ウルクの朝焼きパンは、

 「がんばる日」のパンだ。

 

 でも、今日は違う。

 

 がんばるほどでもないし、

 休むほどでもない。

 

 ただ、普通の日。

 

「……普通の日にも、いいんだよね」

 

 誰に言うでもなく、呟く。

 

 家に着いて、部屋で袋を開けた。

 ミルクブレッドは、ふんわりと柔らかい。

 

 一口かじる。

 

 甘い。

 でも、主張しすぎない。

 

「……あ」

 

 思わず、小さな声が出た。

 

 元気が出る、というほどじゃない。

 気合が入るわけでもない。

 

 ただ、

 胸の奥にあった小さな引っかかりが、

 「まあ、いいか」に変わる。

 

(こういう日も、あるよね)

 

 パンを食べながら、

 さくらは窓の外を眺めた。

 

 今日も、たぶん明日も、

 いろいろある。

 

 でも――

 

 こうやって、選べる。

 

 パンひとつ分くらいの、余裕を。

 

 食べ終えたあと、

 さくらは袋をたたんで、そっと置いた。

 

 次に来るとき、

 また同じものを選ぶかは分からない。

 

 でも。

 

(今日は、これでよかった)

 

 それだけは、はっきりしていた。

 

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