その日は、特別なことは何もなかった。
授業はつつがなく終わり、
部活でも大きな失敗はしていない。
空はまだ明るく、帰り道もいつもと同じ。
それなのに――
「……うーん」
さくらは歩きながら、小さく首を傾げた。
理由は分からない。
元気がないわけでも、落ち込んでいるわけでもないのに、
なぜか今日は、まっすぐ家に帰る気にならなかった。
「……寄っていこうかな」
気づけば、足が向きを変えている。
最近ではすっかり見慣れた、小さなパン屋の灯り。
扉を開けると、ふわっと甘い匂いが広がった。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうで、藤丸が顔を上げる。
マシュも、いつもの柔らかい笑顔で会釈してくれた。
さくらは軽く手を振ってから、棚に並んだパンを見回す。
いつもなら、もう決まっている。
迷うことなんて、ほとんどない。
(今日は……)
ウルクの朝焼きパンに、目は行く。
けれど、手は伸びなかった。
代わりに、少し奥。
淡い色のパンに、視線が止まる。
「……花の魔術師のミルクブレッド?」
思わず声に出すと、
マシュが少しだけ嬉しそうに頷いた。
「はい。
ミルクが多めで、とてもやさしい味なんです」
「花の、魔術師……」
名前だけで、なんだかふわふわする。
強そうでも、すごそうでもないのに、
なぜか気になった。
(今日は、これかも)
理由は説明できない。
でも、今日は――これがいい。
「じゃあ……これ、ください」
「はい」
藤丸は短く答えて、手際よく袋に入れてくれる。
余計なことは聞かれない。
それが、この店の好きなところだった。
会計を済ませ、パンを受け取る。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました。
気をつけて帰ってくださいね」
外に出ると、夕方の風が少しだけ涼しい。
袋の中から、ほのかな甘い匂いがした。
(家で食べよう)
そう決めて、さくらは歩き出す。
途中で、ふと足を止めた。
パン屋の袋を持つ手が、思ったより軽い。
ウルクの朝焼きパンは、
「がんばる日」のパンだ。
でも、今日は違う。
がんばるほどでもないし、
休むほどでもない。
ただ、普通の日。
「……普通の日にも、いいんだよね」
誰に言うでもなく、呟く。
家に着いて、部屋で袋を開けた。
ミルクブレッドは、ふんわりと柔らかい。
一口かじる。
甘い。
でも、主張しすぎない。
「……あ」
思わず、小さな声が出た。
元気が出る、というほどじゃない。
気合が入るわけでもない。
ただ、
胸の奥にあった小さな引っかかりが、
「まあ、いいか」に変わる。
(こういう日も、あるよね)
パンを食べながら、
さくらは窓の外を眺めた。
今日も、たぶん明日も、
いろいろある。
でも――
こうやって、選べる。
パンひとつ分くらいの、余裕を。
食べ終えたあと、
さくらは袋をたたんで、そっと置いた。
次に来るとき、
また同じものを選ぶかは分からない。
でも。
(今日は、これでよかった)
それだけは、はっきりしていた。