朝の空気は、少しだけ張りつめている。
通学路を歩きながら、小狼は無意識に背筋を伸ばしていた。
誰に見られているわけでもないが、朝という時間帯は、それだけで気が引き締まる。
一人暮らしの朝は静かだ。
その静けさに慣れてしまえば、誰かと顔を合わせないことも苦にはならない。
ただ――食事だけは、きちんと取る。
それは昔から決めていることだった。
いつもより少し早く家を出た理由は、それだけだ。
通学路の途中にある、あの小さなパン屋。
朝の時間帯に開いているのを見たのは、初めてだった。
ガラス越しに見える店内は明るく、焼き上がったパンがきれいに並んでいる。
扉を押すと、控えめなベルが鳴った。
「おはよう。学校前?」
カウンターの向こうから、藤丸の声が飛んでくる。
夜や夕方と違って、少しだけ張りのある声だった。
「……はい」
「やっぱり。制服だと分かりやすいね」
藤丸はそう言って軽く笑い、自然にカウンターから一歩出てきた。
距離は近いが、詰めすぎない。
ただ、話しかけることをためらわない。
それが、この店の空気だった。
「朝はあんまり種類多くないけど、ちゃんと食べる人向けのはあるよ」
棚を示され、小狼は視線を向ける。
油っこすぎないもの。
甘さが残りすぎないもの。
短い時間でも食べやすいもの。
「……これを」
「ローマの暁ミルクパンだね」
即座に名前が返ってくる。
「朝用に焼き方を少し変えてる。柔らかめで、甘さも控えめ。急いでる人向け」
「……助かります」
「でしょ。朝って、意外と余裕ないもんね」
藤丸はそう言いながら、手早く紙袋にパンを入れる。
作業の合間にも、自然に会話が続く。
「一人暮らし?」
唐突だが、詮索する響きはない。
「……はい」
「そっか。じゃあ朝は特に大事だ」
会計を済ませると、マシュが小さく頭を下げた。
「いってらっしゃい。良い一日を」
「……いってきます」
店を出て、少し歩いた先で足を止める。
歩きながら食べるのは、どうにも落ち着かない。
行儀が悪い気もして、小狼はベンチに腰を下ろした。
袋を開け、パンを手に取る。
一口かじると、歯を立てた感触がやさしい。
中はふんわりしていて、甘さは後を引かない。
「……ちょうどいい」
思わず、そう呟いた。
朝にちょうどいい。
重すぎず、軽すぎず。
ちゃんと一日を始められる味だ。
急がず、残さず、最後まで食べる。
それだけで、体の奥が静かに整っていく。
立ち上がり、紙袋を畳んで鞄にしまう。
校舎はもうすぐそこだ。
ふと、小狼はパン屋の方角を思い出す。
朝でも、あの店は変わらなかった。
話しかけてきて、必要なことをくれて、深入りしない。
――またパンを食べに寄ろう。
そう思いながら、通学路を歩き出した。
今日も、ちゃんと始められそうだった。