その日は、朝から少し落ち着かなかった。
理由は分かっている。
バレンタインが近い。
それだけで胸の奥がそわそわして、机に向かっても、いつもより字が頭に入らない。
(小狼くんに、何か作りたい……)
思うのに、決まらない。
甘いのは好きかな。
でも甘すぎたら困るかな。
重たいのは? 軽いのは?
考えれば考えるほど、答えが遠くなる。
放課後。
さくらは、ともよと一緒にパン屋へ向かった。
今日は相談する相手がいる――というより、背中を押してくれる人が二人いる。
扉のベルが鳴り、いつもの香りが迎えてくれた。
「いらっしゃい」
藤丸さんが顔を上げ、続けてマシュさんが柔らかく微笑む。
「こんにちは。さくらさん、ともよさん」
「こんにちは……!」
さくらの声は、少しだけ小さい。
ともよがそっと肘をつつく。
「さくらちゃん、今日は“目的”がありますのよね?」
「う、うん……」
頬が熱くなる。
「……バレンタインで。小狼くんに、作りたくて」
口に出すと、さらに恥ずかしい。
でもマシュさんは驚くより先に、嬉しそうに頷いた。
「素敵だと思います。私でよければ、お手伝いしますよ」
「えっ、いいの?」
「はい。こういうイベントは……少しだけ慣れていますから」
どこか照れたような笑み。
その一言で、胸の奥のもやもやが少しほどけた。
「甘さは控えめにして、食べやすい形がいいと思います。小狼さんなら、きっと」
「うん……!」
「厨房、使っていいよ」
藤丸さんが軽い調子で言った。
「今日は仕込みも一段落してるし。手伝いはマシュに任せる。俺は表を見ておくから」
「はい、先輩」
そうして、さくらはパン屋の奥――厨房に入った。
粉の匂い、温度、道具の並び。
整えられた空間は落ち着くのに、いつもと違う場所に少しだけ緊張する。
マシュさんは手際が良かった。
計量のしかた、混ぜ方、火の入れ方。
一つ一つが丁寧で、でも焦らせない。
「大丈夫です。ゆっくりでいいですよ」
「うん……!」
その隣で、ともよが当然のようにカメラを構える。
「さくらちゃん、こちらを向いてくださいませ」
「えっ、今!?」
「今ですわ。とても良い表情ですもの」
「と、ともよちゃん……!」
シャッター音が、小さく何度も鳴る。
混ぜるたび、丸めるたび、焼き色が変わるたび。
恥ずかしいのに、なぜか笑ってしまう。
マシュさんも、少しだけ口元を緩めた。
「ともよさん、すごい集中力ですね」
「当然ですわ。大切な“記録”ですもの」
焼き上がった小さな焼き菓子は派手じゃない。
でも形が整っていて、香りがやさしい。
「……できた」
さくらが呟くと、マシュさんが頷く。
「とても上手です。きっと喜びますよ」
「うん……!」
その言葉が、背中を押してくれた。
――バレンタイン当日。
放課後の帰り道。
さくらは小狼を呼び止めた。
「……小狼くん」
「なに?」
紙袋を差し出す。
手が少し震える。
「これ……作ったの」
小狼は一瞬だけ目を瞬かせ、それから袋を受け取った。
「……ありがとう」
短い声。
でも、確かに柔らかい。
「……大事に食べる」
それだけで、胸の奥がふわっと軽くなった。
「えへへ……」
さくらが照れ笑いをした、その時。
「小狼さん」
ともよが名前で呼んで、鞄から薄い封筒を取り出す。
「こちらを」
「えっ? 俺に?」
「はい」
受け取って開くと、中には写真が入っていた。
パン屋の厨房で、粉をつけて真剣な顔をしているさくら。
丸めた生地をそっと並べる手。
焼き上がりを覗き込む横顔。
そして完成して、嬉しそうに笑った瞬間。
「……っ、待って、小狼くん!?」
さくらの顔が一気に赤くなる。
「こ、これ……!」
ともよが後ろで満足そうに頷いた。
「小狼さんに私からのバレンタインプレゼントですわ」
「と、ともよちゃん……!」
小狼は咳払いでごまかすように目を逸らしたけれど、耳まで少し赤い。
「……その、ありがとう」
「う、うう……恥ずかしいよ……!」
「……でも、似合ってる」
小狼の小さな一言で、さくらは余計に顔を覆った。
その横で、ともよは嬉しそうにカメラを構え直す。
「今の反応も、最高ですわ」
「と、ともよちゃん!」
笑いと恥ずかしさが混ざって、さくらは結局、泣きそうな顔で笑った。
甘い匂いは、今日も変わらない。
でもその甘さはきっと――
渡して、受け取って、少しずつ優しくなっていく。