その日は、いつもより遅い時間だった。
カード戦が終わり、
緊張の名残がまだ体の奥に残っている帰り道。
友枝町の空は、すっかり夜の色を帯びている。
「ふぅ……」
さくらが、ひとつ息を吐いた。
次の瞬間、
ぱっと表情を切り替える。
「ね、小狼くん」
くるりと振り返って、
そのまま小狼の手を取った。
「寄っていこう」
「え?」
「ほら、あそこ!」
引かれるまま視線を向けると、
白い扉のパン屋に、あたたかな灯りがともっている。
さくらの足取りは軽い。
「大丈夫だよ。
もう終わったから」
その言葉に、
小狼は短く息を吐いた。
「……ああ」
答えながら、
無意識に周囲へ目を走らせる。
何もないはずの場所でも、
体が先に反応してしまう。
(……癖、か)
それでも、
さくらに引かれる手は、離れなかった。
扉を開けると、
控えめな鈴の音が鳴る。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、藤丸が顔を上げる。
「こんばんは」
マシュも、柔らかく微笑んで一礼した。
「こんばんは。
遅い時間に、ありがとうございます」
昼間よりも静かな店内。
パンの香りが、穏やかに残っている。
その空気に、
小狼の肩が、少しだけ下がった。
「今日はどうする?」
藤丸の声は、低く落ち着いている。
「ウルクの朝焼きパン、くださーい」
さくらは即答だった。
「はい」
藤丸が動き出す。
「小狼くんは?」
そう聞かれて、
小狼は棚に目を向けた。
前は、同じものを選んだ。
それで、十分だった。
でも今日は――
並ぶパンの名前を、
ひとつずつ目で追う。
知らない土地。
知らない名前。
その中で、
不思議と目が止まったものがあった。
「……これで」
指さした先には、
飾り気のない、少し硬そうなパン。
「ローマの堅焼きミルクパンですね」
マシュが、やさしく説明する。
「噛むほど、味が出るパンです」
藤丸は小狼を見て、
少しだけ表情を緩めた。
「いい選択だと思うよ」
言い切りではなく、
押しつけでもない声。
それだけで、
胸の奥が、少し軽くなる。
「一緒じゃないんだね」
さくらが言って、楽しそうに笑う。
「……うん」
違うパン。
違う選択。
それでも、
並んでいることは変わらない。
紙袋が二つ、並んで渡される。
店を出ると、
夜風が心地よく頬をなでた。
「どう?」
さくらが聞く。
小狼は袋を見下ろしてから、答える。
「……落ち着く」
それは、
戦いのあとに欲しかった感覚だった。
構えなくていい。
正解を探さなくていい。
ただ、選んで、受け取る。
「また来ようね」
さくらの声は、明るい。
「ああ」
ふたりは並んで歩き出す。
夜の友枝町は静かで、
何事もなかったように、やさしかった。