夜の店は、音が少ない。
昼間に満ちていた話し声や足音はすっかり消えて、
今はオーブンの余熱と、焼き上げたパンの香りだけが、
静かに店の中に残っている。
棚の籠は半分以上が空で、
今日という一日が、きちんと終わりに近づいていることを教えていた。
「行きましたね」
マシュが、入口の扉の方を見て言った。
鈴の音を残して出ていった二人の背中は、
もう通りの向こうに消えている。
「そうだね」
藤丸は、カウンターを拭きながら頷いた。
並んで立って、
同じ紙袋を受け取って、
少しだけ歩幅を合わせるようにして帰っていく姿。
特別なことは、何もない。
ただの帰り道。
「仲が、よろしいですね」
マシュの声は、いつもより少し柔らかい。
「うん。
見てると、ほっとする」
それ以上は言わなかった。
ああいう空気は、
言葉にしすぎると壊れてしまう。
藤丸は、ふと棚の一角に目を向ける。
夜用に焼いた、
少し色の濃いパンが並んでいる。
「灯りの窯焼きパン、まだあったよね」
「はい。
今日の分は、まだ残っています」
「じゃあ、二つ出そうか」
「……よろしいのですか?」
「一日の終わりだし。
一緒に食べよう」
マシュは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせてから、
小さく微笑んだ。
「……はい。
ありがとうございます」
紙袋から出したパンは、
まだほんのりと温かい。
甘さは控えめで、
香りも強くない。
ただ、
一日の終わりに食べるための味。
噛むたびに、
「今日はここまででいい」と思えるような、
静かな焼き加減。
「さっきの子、どう思いましたか?」
マシュが、パンを半分にしながら聞いた。
「うーん……」
藤丸は少し考えてから答える。
「……ちょっと、気が張りすぎてる気がするかな」
「そう、ですね……」
マシュは一拍置いてから、続けた。
「でも、選べていましたね」
「うん。
自分で決めてた」
それだけで、十分だった。
誰かに勧められたわけでも、
無理に背中を押されたわけでもない。
自分で選んで、
自分で受け取って、
自分の足で帰っていく。
それは、とても大事なことだ。
マシュは一口かじって、
少しだけ目を細めた。
「……落ち着きます」
「そうだね」
藤丸は、店の灯りをほんの少し落とす。
外は、もうすっかり夜だった。
この店は、
何かを始めるための場所じゃなくてもいい。
戦うための場所でも、
決意を固める場所でもなくていい。
ただ、
一日の終わりに立ち寄れて、
静かに息をつける場所であれば。
「明日も、焼こうか」
「はい。
きっと、誰かが来てくれます」
パン屋の灯りは、
今夜も消えずに、
やさしく残っていた。