フリーレンを愛したい魔族ちゃんがコロコロされる話 作:丹羽にわか
暖炉の火は消え、灰だけが残っていた。
冬の朝の冷気が、板張りの床を伝って容赦なくフリーレンの身体から熱を奪っていく。
フリーレンは身を守る様に、細い手足を胸元まで引き寄せ、胎児のように小さく体を丸めて横たわっていた。
その手は何かをぎゅうと、固く、固く握りしめている。
縋るように、引き止めるように、祈るように。
その指先は白く強張り、時折震えていた。
「──っ……」
細い吐息、微かな身動ぎと共に、長い睫毛が揺れる。
ゆっくりと瞼を持ち上げたフリーレンの視界は霞んでいた。頬には涙の痕が白く残っている。
ぱち、ぱちとゆっくり目を瞬く。霞の晴れた視界に映ったのは、見慣れた木組みの壁に見知った天井、窓から差し込む冬の冷ややかな朝陽、それだけだった。
フリーレンは強張った指をゆっくりと解き、星の涙を模した小さなペンダントを虚ろな翠緑の瞳で見つめる。
何日か前に行商人から買って、贈って──いや、自分に贈る相手なんかいない。故郷は滅び、師匠はもういない。なら、何で買ったんだろう。
それを考えると、じくりと胸の奥がかすかに痛んだ。
理由は分からない。けれど、見ていると少しだけ息が詰まる。
「……」
強張った身体を無理やり引き剥がすように、フリーレンはぎこちない動きで立ち上がった。
体の節々が軋む感じがする。ぎしり、と床が軋む音だけが静まり返ったダイニングに響いた。フリーレンはペンダントを握りしめたまま、何かに導かれるように出口へと歩を進める。
扉に手をかけ、開ける。いつもより重く感じた。
ばたん、と後ろ手に閉めてふぅと呼吸を一つ。白い吐息が宙に溶け、引き換えに鋭い冷気が肺をちくりと刺した。
この時期、朝には霧が出る。
村の喧騒も人々の営みも、すべてを隔て隠すような白い帳の中。庭の片隅に立っている星涙樹の足元にフリーレンはやってきて、足を止め見上げた。
数日前に咲いた花は、そのいくつかを魔法薬の材料に使った。残っていた花はすでに落ちていて、すっかり色褪せて地面に転がっている。
フリーレンはペンダントを掲げた。
ふらふらと揺れ動く鈍色の涙。朝陽が反射する。つい昨日まで右腕を覆っていた黄金の禍々しい煌めきとは異なる光にフリーレンは目を細めた。そこに彫刻された星涙樹の花言葉は感謝と懺悔。それが何処に向けたものなのか、フリーレンは分からない。
頬の突っ張った感触が鬱陶しいのに、何故かそれを拭い取る気が起きなかった。
どれだけの時間、そうして眺めていただろう。
生垣の向こうから、籠を抱えた近所の女性が声をかけようとした。
「あっ、フリーレンさ……ま……」
名前を呼びかけたところで言葉に詰まる。
星涙樹の下、ペンダントを眺めるフリーレンの横顔を見て、女性は戸惑うように視線を彷徨わせた。
涙を流している訳では無い。
けれど、何か大事なものを喪い、泣き腫らした後なのだということは伺えた。
ふと、気付く。
この隣人が、こんな朝早くに独りで外に出ることなどあっただろうか。その傍らにはいつも、ライラック色の髪を靡かせた彼女が居た筈で。
でも、あの夜から数日。その姿はどこにも無い。
手に持っているのは、床に伏せていた彼女に贈るのだと言っていたペンダントで。
それなら、まさか。
「……寒い、ですね」
結局、女性は当たり障りのない言葉を選んだ。翠緑の瞳と視線を合わせる事ができなかった。
「そうだね。もう冬だ」
フリーレンはそう答えた。声は淡々としていて、そこに感情の揺らぎはない。
それ以上言葉が続かなかった。
女性は小さく会釈をして、そのまま歩き去る。
フリーレンはその背を見送り、目元を拭ってから家の中に戻った。
旅の準備は粛々と、淡々と進んだ。
必要なものと不要なものを分ける。
使い古した鍋。欠けた食器。二人分あった寝具。
ふと、手が止まる物も時折あった。けれど、その理由はわからない。
「……まあ、いっか」
この家は元々空き家だった。前の住人が残したものか、自分が間違えて買ったりしたんだろう。
そう納得して、フリーレンは作業を進めた。
旅立ちの日の朝。誰もフリーレンを引き止めなかった。
見送る人々はいた。祝福の言葉を、感謝の言葉を、幸運の祈りを、様々なものをフリーレンに捧げた。
「時々顔を出すよ。半世紀に一度くらい」
「そう…ですか。では、長生きしないとですね」
誰も、問いただすことはしなかった。
フリーレンは何も語ろうとしなかったから。
まるで居ないもののように、心を押し殺すように振る舞っていたから。
そういう空気だったから。
だから、誰も口にしなかった。
人類と共に時を刻んだ魔族の名を。
だから、残らなかった。
フリーレンは街道を歩く。向かう先は南、中央諸国。
北に向かい魔族を殺そうという気持ちは薄れていた。マハトという化け物じみた魔族が居る。今の自分に敵う相手ではない。憎悪に身を任せて杖を向けても犬死にするだけだろう、と。
右腕を覆っていた黄金は無い。
今のフリーレンは自由だった。行き先も、起きる時間も、どう過ごすのかも、何一つ縛られていない。
けれど、胸の奥に小さく空虚な孔がぽっかりと残っている。
百年。それはエルフの一生からすれば瞬きのようなものだが、フリーレンのこれまでの人生においてはそれなりの時間だ。それだけ過ごした場所を後にするのだから当然、喪失感もあるだろう。
フリーレンはそう自分を納得させ、振り返ること無く歩みを進める。
けれど、その手は首から下がるペンダントを握りしめていた。
胸の孔に埋めこむように。
❅
あの村を出て、魔族と戦うことを避けるようになって百年近くが経っていた。
半世紀に一度は顔を出す。そう約束をしたことはちゃんと覚えている。
ただ、面白い魔法を見つけたり、出立しようとしたら悪天候で延期したりと、色々あって先延ばしにしていたら少し──ほんの少しだけ、遅れてしまった。
「……呆れられる、かな」
山道を歩くフリーレンは誰にともなく呟く。
もう見知った人間は誰も居ないだろうけど、あの家で待つ彼女はきっと、ため息を付きながら出迎えてくれる筈で──。
「──いや、そんな相手はいないか」
頭を振ってその思考を追い出した。動きにつられてペンダントが揺れる。
あの村を訪れた時からだと二〇〇年が経っている。宿屋の看板娘のミーアやその妹のフレイなど、親しくしていた人間もいるが、皆天寿を全うした。
自分はエルフで、同胞の殆どは魔族の襲撃で死に絶えた。
生きる時が違うのだ。エルフとその他では。
「──あれ?」
フリーレンは足を止めた。
山道の隅の大岩、あそこを越えれば村が見えてくる。
そこまで村に近づいているのに、あのこぉーん、こぉーんと木に斧を叩きつける音が聞こえてこない。あの音が途切れるときなど、真冬の豪雪の時くらいのものだったのに。
ぞわり。
背筋に冷たいものを感じて、フリーレンは足を早める。
大岩の脇を通り抜け、立ち止まった。
村は、ある。記憶にある通りの姿で。森の中に埋もれるように。
安堵して一息つき、歩みを進める。
そして、村を守る門の前まで来て、立ち尽くす。
「──えっ……」
翠緑の瞳が見開かれ、揺れた。
門は開け放たれ、そこを守るものはおらず、見張り櫓は梯子が崩れ落ちている。
木製の塀は所々苔むし、腐り落ちている所すらある。
切り出された針葉樹の、あのむせ返るような鋭い香りは無く、ただ柔らかな緑の匂いがフリーレンの鼻腔を満たしていた。
「……」
足を踏み入れる。
屋根の落ちた家屋。崩れた石垣。風に揺れるだけの看板。
かつての人々の暮らしの残骸がそこにあった。
戦争が激化した、といつかどこかで聞いた気がする。村人たちは戦火から逃れるために村を棄てたのかも知れない。死体や争いの気配が無いことは救いだった。
フリーレンは人気のない道をゆっくりと歩いた。
見知った場所。そのはずだ。
あれは宿屋、一度しか泊まらなかった。あれは商店、結局魔導書とかは置いてくれなかった。あれは教会、子供たちにはナメられていた。
知っている。覚えている。なのに、違和感が拭えない。
「……これ──」
広場に立っている石像の前に来た。誰も由来を知らない忘れられた英雄。
地中から掘り出して、ここまで運んで、掃除して。
これで寂しくないだろう、と依頼人は笑って、石像の周りには人集りがあって。
でも今はまた、ここに独り。
「文句、言われてるのかな」
それに答える者はいない。
かつて暮らしていた家の前まで来た。
庭先に植わっている星涙樹は幹が随分と太くなった。けれど、枝には葉が茂るばかりで蕾はつけていない。
それはそうだ。星の並びも何も条件が合っていないのだから。
「──これは……」
フリーレンは家の中から魔力を感じた。
何故か心臓が跳ねる。
早足で扉の前に歩み寄りノックする。
あの時のように
パタパタと足音がして、扉の向こうで止まった。
扉が開く。口がひとりでに動く。
「ただい──」
「おかあさん?」
子供だ。ふわふわしたブロンドの髪に、つぶらな碧眼。
魔族だ。額から鋭い角が伸びている。
「────」
殺した。“これ”は違う。
フリーレンは、魔族が塵となって消えてからも何をするでもなく、その場に佇んでいた。
理由はわからない。
誰かの名を呼ぼうとしたが、口にすべき名前が出てこない。
やがて、名を呼ぼうとしたことすら忘れ、魔族を殺したという事実だけを記憶してその場を立ち去る。
ただ、胸のペンダントがやけに冷たく感じて、痛かった。
❅
勇者ヒンメルの死から二八年後。
吹雪く山道を進む三つの人影があった。
「フリーレン様、この道で本当に合っているのですか?」
シュタルクを担いだフェルンが不安を滲ませながら尋ねる。
「大丈夫だよ。五〇年前も通ったから」
フリーレンは淡々と返した。白銀の髪に白いコート、その色彩は吹雪の中に紛れて消えてしまいそうだ。
「昔じゃないですか」
「つい最近だよ、私にとってはね」
やがて、フリーレン達は森に飲み込まれつつある廃村に辿り着いた。
フェルンが青ざめた顔で悠久の時を生きるエルフを見る。
「どう見ても廃墟、いえ、遺跡なのですが……」
「そうだね」
「ひ、引き返しましょう。日が落ちるまでにどこか壁と屋根がある所を──」
「大丈夫。こっちだよ」
フリーレンはそう言って奥へと進んでいってしまう。フェルンは逡巡し、シュタルクを引きずりながら師の小さな背中を追いかけた。
辿り着いたのは一軒の民家だった。周りの家屋に比べて風化や破損がかなり少ない。少なくとも、隙間風に悩まされることは無さそうだ。
「人の気配がしますが……先客がいるのでしょうか?」
「不法侵入だね。文句言わないと」
「え」
扉を開ける。
「ふんッ!!」「ふんッ!!」「ふんッ!!」「漲ってきたぁ!!」「おおおおおおッ!!」
エルフの男が上半身裸でスクワットをしていた。
男からは汗が飛び散り、むわぁっ、とした熱気が室内を満たしている。
フリーレンはそれに動じること無く足を踏み入れる。
「ちょっと、ここは私の──」
文句を言おうとしたフリーレンのコートの襟首を掴み、フェルンは外に連れ出す。
「変態がいます。フリーレン様、他を探しましょう」
「ここしか無事な家は無いけど」
「探しましょう。諦めたらそこで終わりです」
「えー」
「──変態とは心外だな。 ……ん? お前、エルフか?」
エルフの
クラフトが曳いていた荷車の凍りついた食材を解凍して食いつなぐ日々。
各々鍛錬をしたり、魔導書や聖典を読んだりと好きに過ごしている。
「なあフリーレン」
「なに、シュタルク」
「時々さ、外に出て庭のデケえ木を眺めてるけど、何か思い入れでもあるのか?」
「いや、別に」
フリーレンは寝転んだまま読む魔導書から目を離さないで答える。
「あの木、星涙樹って言うんだけど…蕾がついてたでしょ?」
「んー? ああ、あの垂れ下がってる涙みたいな形のか」
「あれがそろそろ咲くんだよ。そして、その花は強力な治癒の魔法薬になるんだ」
「なるほどな。納得だわ」
「ほう、星涙樹が咲くのか。それは運が良かったな」
腕立て伏せをしていたクラフトが話に混ざってくる。
「知ってんのか、クラフト」
「ああ、数十年に一度、特殊な星の巡りの新月の夜に咲く花でな。木自体が珍しいし、俺も見たのは数度だけなんだ」
「エルフなのにか?」
「エルフだからだよ。たった数十年だ、花を見ようと思えば待てばいい。そうすればいつだって見れる。だからこそ、旅の合間に偶然咲く瞬間に居合わせることが大事なんだ」
「スケールが違うな……」
「私も見るのはこれで二度目かな。一度目は大体五〇〇年前だよ」
「……」
「今何を考えた?」
「な、何も思ってねーけど!?」
「その花が咲くのはいつなんです?」
暖炉の前で魔力の鍛錬をしながら聞き耳を立てていたフェルンが訊ねてくる。フリーレンは顎に手を当ててうーんと考え込み、ポンと手を打った。
「今夜だね」
「そういうのは早く言ってください……」
深夜。奇跡的に吹雪はやんでいた。
雲一つない夜空を星星が埋め尽くしている。
その下で、星涙樹は静かに、ひっそりとその花を開いていた。
枝先から垂れる淡い光。
星のような花弁が夜風に吹かれ、揺れている。
「おお……綺麗だな」
「星の海に星が咲いていて、幻想的です……」
「ああ、やっぱり、いいものだな」
シュタルク、フェルン、クラフト。各々感嘆の声を上げる。
「……」
けれど、フリーレンは声の一つも漏らさずに見上げていた。
懐かしいわけではない。悲しいわけでも、嬉しいわけでもない。ただ、何かが足りない。釈然としない。
無意識のうちに、フリーレンの手は胸元に伸びていた。
安物で、何の思い入れもないはずなのに、ずっとそこに在る小さなペンダント。
それを握りしめた瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。
「──っ」
息が詰まる。
目元がかぁっと熱くなり、その熱が雫となってあふれ、零れる。
涙が流れている。どうしてなのか、フリーレンは分からなかった。
何かを思い出したわけでもない。
誰かの名が浮かんだわけでもない。
それでも。
頬を伝い落ちる雫が、星涙樹の花と星星の光を受ける。
「……綺麗、だよ」
語りかけるように言って、フリーレンは笑おうとした。
けれど、うまく形にならない。
フリーレンはその場に立ち尽くし、ペンダントを強く抱いたまま、声を押し殺して涙を流し続けた。
理由も、意味も、何も思い出せないまま。
何か、かけがえのない、とても大切なものが、此処に在ったのだと。
それだけを、心が覚えている。
これは、分かりきった