朝の通学路は冷たい風が吹いていて、ポケットに入れていても指がかじかんだ。
...朝からこういうことを思っていてはいけない。通学路を歩きながら、ポケットに入れた小さな包みを時々指先で確かめていた。リスの形をしたソレは寒気の保護を受け、溶けてしまう心配はなさそうだった。
チョコレート。
2/14に渡すものといえば、やはりこれであろうと光沙は思う。
先週の家庭科の授業で、テンパリングに失敗した班やら分量を間違えた班やらが続出した。余った材料はありがたいことに光沙に押し付けられた。そんなの悪いですよ、と作法として一度は遠慮したが、材料費の問題は解決されたな、と思った。
渡す相手に続き、渡したいものも決まった。先生の許可をとり、家庭科室で溶かし直して、小さなリスの形に成型した。我ながら良い出来だ。量産品として店頭に並んでいてもおかしくない。
けれど——渡すものがこれでいいのか、と思ってしまう。所詮は余りもの。
お金がない。それが大切な人への言い訳になるのか?身を切る思いをしてこそ、相手に思いが伝わるのではなかろうか。百貨店の袋に入ったブランドチョコでもない。家庭科室から救出された、出自のさもしいカカオの塊。こんなものを渡してーーー
「……やっぱり、やめようかな」
それで、彼女との関係が終わるわけではないだろうし。
考えているうちに足は勝手に学校へ向かっていて、気がつけば昇降口の前に立っていた。
下駄箱に手を伸ばした、そのとき。
「——あ」
隣から、見覚えのある顔がひょこっと顔を出した。どこか陰のある、青く繊細な癖毛と、金魚鉢のような瞳。儚げな雰囲気を漂わせる彼女は、こちらの瞳を捉えるなり、パッと花開いた。
「おぁ、お、おはよう、ございます!」
まるで邪心、打算、そういうものが全く認められない眩しい笑顔。頬の曲線、たぬきを思わせる眉。光沙は反射的に視線を逸らした。
ずるいなあ、と思った。光沙がこれまで多少取り繕ってきた理性を溶かしてしまう温かさが、その笑顔にはある。
彼女は一度心を許した人間にはこうだ。
「……おはようございます」
視線を逸らしたまま上履きに履き替える。彼女、青井さんも不器用な動きで履き替える。ここで「じゃあ」と言って青井さんに下駄箱のスノコの端に寄ってもらい、廊下を別方向に歩けば、それで終わる。チョコはポケットの中で溶けて、家に帰ったら自分で食べればいい。それでいいじゃないか。
なのに、青井さんが動かない。
相変わらずとろいなあ、と光沙がちらりと横を見ると、青井はなぜかこちらを見ていた。いつもは視線が合えばすぐに俯くくせに、今日に限って、じっとこちらの顔を覗き込んでいる。
その子リスのような不安げな顔を見て、心臓が一際強く脈打つのを感じた。
「——ちょっと、来て」
自分にこんなことができるんだ、と光沙は驚いた。
「え、あの、金子さん——」
「いいから」
光沙は青井さんの袖を掴み、半ば引きずるようにして廊下を歩き出した。
渡り廊下を抜け、非常口を押し開け、校舎の裏手に出る。日当たりの悪い、誰も来ない場所。花壇の枯れたパンジーが寒風に揺れている。
二人の頭上で、朝礼のチャイムが鳴った。
光沙はポケットの中の包みを握りしめたまま、口を開こうとした。声が出ない。喉の奥に言葉がつっかえている。あの、とか、その、とか、意味のない音だけが漏れて消えた。
校舎の白い壁に反射した風の音だけが妙に大きく聞こえた。
口を開いたのは青井さんだった。
「わ、わかってますよ」
「……え?」
青井さんは目を泳がせながら、光沙の方をまっすぐ見ないようにして言った。
「バレンタインっ、ですよね。——ど、どう渡そうかな、って。相談でしょう?わ、私でよければ、その……聞きますから」
光沙は一瞬、ぽかんとした。
「金子さん、のことは、私も好きですから...金子さんが好きになった人なら私も、応援します!」
それから、笑いが込み上げてきた。——ああ、そうか。この人は、こういう人だった。自分が選ばれる可能性を、最初から計算に入れていない。私が一人であれこれと思い悩んでいる間、この人は私と、いもしない誰かさんとの恋路を考えていたのだ。
なんだか、急に楽になった。こんにゃろう、とも思った。
余りもののチョコだとか、さもしいだとか、そんなことはもうどうでもよかった。
5分前までの悩みがなぜかずっと過去のことに思えた。
「——はい、これ」
光沙は口を開けて笑った。ポケットから包みを取り出して、青井の胸元に押しつける。
「バレンタイン。青井さんに」
「…………は?」
「お金ないから、家庭科の授業で余ったチョコで作った。リスのつもりです。耳がちょっと変だけど」
青井さんは押しつけられた包みを両手で受け止めたまま、ゆっくりと包装紙を開いた。中から、少し不格好なリスが顔を覗かせる。片耳がやや垂れていて、目はチョコペンで描いたらしく、左右の大きさが微妙に違う。
「ああ、本命ですから」
言いすぎた、と悟った時にはもう遅い。
自分でも顔が見る間に赤くなっていくのがわかった。
光沙は180度回転して、教室へ急発進......する直前に、裾をぐい、と掴まれた。ついで肩。意外と強いその力に少しどきりとする。
青井さんがずい、と顔を近づけてきた。癖っ毛の先の方が金子の頬をくすぐる。他の子なら何もわからず、不審に思うかもしれない。
けど、それなりに付き合いがあるのだ。彼女の顔色が、首筋から耳の先まで、やかんが突沸したみたいに一気に赤が駆け上がっていくのがわかった。ぷるんとした唇が震えて、何か言おうとしていた。
「あ——あの、金子、さん」
「……なんですか」
「私も、その、手袋なんですけど、編んだやつです、あ、私、元々編み物をして、あ、知ってましたっけ...ええと、そう、渡そうと、思ってて...つまり、ええと...」
青井さんの言いたいことはなんとなく伝わった。
小さな紙袋を取り出す手は震えていた。
「ああ、そうです、今朝、起きて......こんなもの渡す資格が、あるのかなって。それで、下駄箱のところでずっと、迷ってて」
紙袋の中身は、手袋だった。
黄色の毛糸で、きっちりと編まれている。編み目の一つひとつが均等で、指先の部分だけ少し色が違うのは、途中で糸が足りなくなって買い足したからだろう。几帳面で、けれどどこか抜けている青井さんの性格がよく現れていた。
光沙はそれを受け取って、指に通す。
その途端にじんわりとした熱に包まれて行った。
「……あったかい」
「あ、サイズ、合ってましたか——よかった、あの、目測だったので」
「サイズくらい、言ってくれれば教えてましたよ...」
二人の間に、また沈黙が落ちた。
でも、さっきまでとは違う沈黙だった。永遠に居られるような、心地よい時間。でもそういうわけにはいかない、若人の青春は短いのだ。
光沙はリスのチョコを大事そうに持つ青井さんの手と、己の手にはまった黄色の手袋を見比べた。
青井さんはそういえば皆勤賞だっけ?ああでも、先週風邪で休んでしまっていたなぁ。
「青井さん」
「はい」
「もうちょっと、この手袋をつけていたいんです。しばらく、付き合ってもらえますか?」
青井さんはポケットから、裏返しになった紺色の手袋を取り出した。
二人の背中、一時間目のチャイムが遠くで鳴っていた。