聖園ミカに舌打ちされたい 作:性癖多面体
「そういえば、最近キヴォトスに先生が来たんだって」
私はノートにシャーペンを走らせながら、ふと思い付いた話題を口に出した。
もうすぐ定期試験がある。さして成績が危ういわけでもないけど、全く勉強しなくても良いというほどの自信もないので、今日はヒフミと勉強会をしていた。
二人で教え合うのも十分助けになるけれど、何を聞いても質問に答えてくれるような博識な大人とか、試験前にまとめプリントを作ってくれる大人がいたらもっと捗るだろうな、と思って出てきたのが先程の言葉である。
生まれてこの方、先生なんて見たこともないのにどうしてそんな発想が出てきたのか、自分でもよく分からない。
「この前ハスミ先輩に会った時の話だと、頼りになる大人らしいよ」
「うーん、そうですね。悪い人ではなかったと思います」
私は思わず机から顔を上げて友人の方を見た。
友人は素知らぬ顔でノートに目を落として、ペロロの落書きなどしている。恐らく、落書きに気を取られるあまり上の空で返事をしたのだろう。自分が今何を言ったのかも分かっていなさそうだった。
今SNSで話題沸騰の大人と直接の面識があるってこと? 少なくとも未だトリニティを訪れたことはないはずの大人と?
「ヒフミ、先生会ったことがあるの?」
「はい、つい先日ブラックマーケットで……あっ」
ハッと動きを止めたヒフミと目が合う。
動揺からか、彼女はペロロの目を描いている途中でペンを滑らせた。おかげで彼女のノートに誕生しかけていた気持ちの悪いトリは、ちょうど目から血を流しているようにしか見えない仕上がりである。怖い。
ヒフミは手元のペロロ(血涙エディション)にも気が付かず目を泳がせた。
「うん、ブラックマーケットで?」
「あうう……き、聞かなかったことに……!」
ならないよ。
どうしてそんな危ないところに行ったのか、なんて聞くまでもない。ある一点を除けば常識人である彼女がブラックマーケットなんて無法地帯に行くことがあるとすれば、それは間違いなくモモフレ絡みである。
「例えば……モモフレグッズがブラックマーケットで取引されていたとか? それで変な奴らに絡まれたところを先生に助けられたとか」
「ええっ! どっ、どうして分かったんですか!?」
「ヒフミは本当に予想を裏切らないよね」
どうしてこれで当たってしまっているのか私が聞きたいくらいだった。
この友人はいつかモモフレのために致命的な失敗を犯すのではないだろうか。今回だって先生と出会えていなかったらどんな目に遭っていたか分からない。あの都市規模の闇市はキヴォトスでも有名な犯罪の温床である。指名手配犯が頻繁に出入りしているとか、大企業による人身売買が平然とまかり通っているだとか、悪い噂はいくらでも聞く。
けれどこの友人は行くなと言っても、たとえその場で聞き分けよく頷いたとしても、行くとなれば行ってしまうのだろう。手の付けようがない。
「……今度また行くことがあるなら、私に声を掛けてね。これでも護身程度ならちょっと自信あるんだから」
「あ、あはは……気を付けます」
はっきりと返事をしない彼女に呆れながら、私は話を戻した。
「それで、先生ってどんな人だった?」
「先生は……変な人です。優しくて頼りになる大人ですけど、それ以上に変な人だと思います」
ヒフミは強い口調で断言する。何かを思い出すかのように真っすぐ部屋の壁を見据えた瞳は、揺らぐことなく彼女の確信具合を物語っていた。
SNSでは眉唾物の話*1から多少の信憑性がある話*2まで溢れ返っているけど、実際に会った人から体験談を聞けるなら、それ以上のことはない。人並みには流行りものを追いかける趣味のある私はやや身を乗り出した。
「へ、変人なの? どんなところが?」
「生徒のためなら、でやることに限界がなさそうなところです。これは例え話ですけど、たぶん多少の犯罪行為まではやっちゃう人だと思います」
「ダメでしょそれは。……あの、一応確認したいんだけど先生の話だよね?」
「はい」
じゃあ犯罪行為はダメでしょ。私は真顔で繰り返した。
生徒のためだったら無敵の人になっちゃう人はむしろ生徒の教育によろしくないと思う。だってヒフミは例え話って言ったけど、あの顔はもう “目撃者” の顔だった。先生が
どういう経緯があったのか知るまでははっきりと悪いことだとは言えないけど……でも教職者として超えちゃいけないラインを着任早々よーいどんでスタートラインみたいに飛び越えていくのはどうなんだろう。
会ったこともない人に対してここまでの不信感を抱くのは初めてのことだった。
「その、ヒフミから見てどうなの? 仮に先生がトリニティに来て仕事をするってなったら信頼できそうな大人だった?」
「それはもちろんです! 色々言いましたけど、大事なことは間違えない人だと思います」
……話を聞く前よりも先生のことが分からなくなった気がする。
◆
高等部一年生の頃。
浦和ハナコにとって、日向イリヤは唯一無二の友人であった。他の誰にも代え難いと、心から信じて疑わなかった。自分の近くにイリヤさえいてくれるのなら、他に誰もいなくて良いとすら思った。
故に。ハナコからしてみればイリヤと出会うまでの学園生活は、どこまでも虚構を虚飾で塗り立てたものに過ぎなかった。
この身には過ぎた賛辞。
『浦和さんは流石ですね! このような難問も解いてしまわれるなんて』
『ハナコさんは本当に何でもご存知なんですね。芸術分野においても深い見識をお持ちとは、感服しました』
『試験の全ての科目で満点を取ったとお聞きしました!』
『浦和さんは優しくて、いつも勉強を教えてくださって――』
『ハナコ様であればきっと――』
欺瞞に満ちた人間関係。
『浦和様、私共の派閥にはあなたが必要なんです。もし入っていただけるのでしたら、すぐに上の立場まで取り立てると――』
『シスターフッドに入るおつもりはございませんか? 昨今はティーパーティーが増長しているようで――』
『次のティーパーティーの席はあなたで決まったようなものです。今のうちから準備を始めておく方がよろしいかと――』
自分は、そのような優れた人間ではないのに。
ハナコにとって周囲の期待は自らに押し付けられて剥がすことのできなくなった仮面であり、周囲から宛てがわれる地位や立場はどれを選ぼうとも必ず誰かの恨みを買うようなジレンマが幾重にも重なっていた。そのどれもが、私には要らないものなのに。
本当の自分をさらけ出すこともできないまま、いつの間にか本当の自分とは何だったかすらも見失ってしまう、その間際。
「私ね、ミカ先輩に舌打ちされたいんだ」
日向イリヤと出会った。
何をするでもなく、茫洋と広場の噴水を眺めていたハナコの肩越しに顔を突き出して、突然口にした言葉は己が性癖。ハナコは呆気に取られた。
彼女につられるようにして噴水の向こう側へと目を向けてみれば、遠くの中庭をティーパーティーの桐藤ナギサと聖園ミカが歩いているのが見える。どこからかオペラグラスまで取り出して一心に二人を……否、恐らく聖園ミカだけを見つめる不審人物。
さしものハナコも伝手を頼って正義実現委員会に引き渡すべきかと考えたが、一手早く横の彼女が口を開く。
「ミカ先輩はね、精神が子供っぽくて純粋で、汚れを知らない無邪気な笑顔が可愛い人なんだよ。そんな人だから舌打ちされたいんだ、私は」
彼女はオペラグラスを覗いたまま、気配でも察したのか一瞥もすることなくスマホを取り出しかけたハナコの手首を掴んだ。ハナコはもっと早く通報するべきだったと後悔した。
そして。何の気なしに呟かれたような次のひと言によって、ハナコの思考は白く染まる。
「あなたにもそんな感情があるでしょ? 考えるだけでゾクゾクしてくるくらいの、本能的な欲求が」
「―――!」
その瞬間、浦和ハナコは天啓を受けた。
恐らく多くの生徒は天啓など得ることもなくなりふり構わずその場から逃走して正義実現委員会なりトリニティ自警団なりに助けを求めたであろうが、ことハナコに限っては違う。
ハナコにも、同じ気持ちがあったからだ。
彼女と同じ―――特殊性癖と呼ばれるものが。
「私、私は……!」
「うん」
「野外露出がしてみたいです……!」
ここでようやく不審人物は聖園ミカから目線を外し、浦和ハナコを見た。ハナコはこの学園で初めて、これほどまでに鮮やかに色付いた瞳を見た気がした。
「それでこそだよ、浦和ハナコ。あ、ハナコって呼んでも良い?」
そうして二人は友人になった。