聖園ミカに舌打ちされたい 作:性癖多面体
8. 気が付けばほんのり赤みを帯びている耳は一般性癖
「―――ああ。よく来てくれた、先生。あのような要領を得ない寸楮で、よく」
狐耳が揺れる。
連邦捜査部シャーレの担当顧問である『先生』は、初めてトリニティ自治区へ足を踏み入れると同時に、トリニティ総合学園の最重要区画へと招待されていた。
学園内の時計塔や大聖堂、伝統的な建築様式を残しながらも発展した自治区内の街並みを広く望むことができるホール。その中心には装飾を凝らした白い
「こうしてお目にかかれたことを嬉しく思うべきか、はたまた君に頼らざるを得なかったこの学園の憂慮に満ちた未来を前に、そのような自己欺瞞は避けるべきか……悩ましいものだね」
神妙な言葉とは裏腹に、目元は柔らかく細められている。
円卓に座った残る二名も、彼女の持って回った言い回しよりも隠しきれず僅かに綻んだ口元に視線を移しては、仕方がなさそうに苦笑を浮かべた。
彼女が言葉で感情を率直に伝えることなどなく、語調や表情、時には歌で自身の気持ちを最大限に表現することを知っていたからだ。それは、彼女自身が “素直さ” という意味での言葉選びの拙さを自覚していたが故の努力であり、コミュニケーションの手段であった。
無論、ティーパーティーのホストとしての地位があまりにも大きく、彼女――百合園セイアなりの精一杯の感情表現を汲み取れる人物はごく限られている。しかし果たして、今彼女と対面している大人にとっては、この場における歓迎の意思を読み取ることは造作もなかった。
“初めまして。あなたたちが、手紙をくれたトリニティの生徒会長、ってことで良いのかな?”
何せ彼ほど、言外に感情を伝えることに優れた大人はいない。彼はあるいは、優れているという形容が適切ではないかもしれないほどに無垢で天然の人たらし。彼のひと言を聞くだけで、彼の立ち居振る舞いをひと目見るだけで、彼が誠実かつ信頼できる大人であることを理解する。言葉に裏表はなく、向けられている笑顔が彼の感情の全てであると直感できる。
それらは計算によって成り立つものではない。彼が問い掛けとともに浮かべた朗らかな笑みは、権謀術数張り巡らされた社交界で育ち、そして各派閥の首長にまで上り詰めた三名の生徒であるからこそ心胆から驚くべきものだった。
「……これは、なるほど」
「ふふっ……」
超法規的組織であるシャーレ。その担当顧問にして多種多様なゴシップの錯綜する怪しい大人をトリニティに招き、あまつさえ学園全体の行く末を任せることに懐疑的だった桐藤ナギサ。
積極的に賛成する立場ではあったものの、トリニティを暗く覆うそもそもの問題に対しての不安を拭いきれていなかった聖園ミカ。
それから。
「……夢で見るだけでは、分からないこともあるものだね。どうやら……君をトリニティに招聘するという私の判断は、私の人生における最良の決断だったようだ」
幾重にも幾筋にも重なり広がった絶望の未来。それらに
彼女たちの心を出会って早々解きほぐしたことなど知りもせずににこにこと笑う先生は、奇妙な静寂が降りたこの空間に内心首を傾げた。加えて、明らかにテーブルマナーを要求しそうなティーパーティーの円卓に若干の緊張を催していたし、自分用に用意された席であろうセイアの正面の椅子にはいつ座るべきかなとタイミングを計りかねていた。
「さて、先生の貴重な時間を長々と奪うのも申し訳ないが、私たちにもそれほど時間の余裕があるわけではない。早速だが本題に入ろう」
何もかも全て、この大人に打ち明けてしまいたい衝動を懸命に堪えながら、百合園セイアは口を開いた。
席には着いたものの、香り立つきつね色に焼き上がった甘味には何ら手を伸ばすことができずに悶々としていた先生は、気を取り直して顔を上げる。
「先生には、とある部活の顧問となってもらいたい」
“とある部活?”
「ああ。近々作られる予定の―――補習授業部という部活だ」
◇
トリニティに先生がやってきたらしい。正に今この学園の敷地内にいる、と放課後の校舎はその話題で持ちきりだった。
良い噂も悪い噂も盛りだくさんの、連日のごとく紙面やSNSを賑わせている、あの先生である。ヒフミの話では変な人だけど信頼はできるという、ハスミ先輩の話では頼りになる大人だという、あの先生である。
「ヒフミはどう思う?」
「……」
「どうしてうちの学園に来たんだろうね。これまでのクロノススクールの報道が正しければ、何かと問題が起きている学園にしか来ないらしいけど……トリニティに限って、そうそう事件なんて起こらないし……」
「そ、それはどうでしょうか……」
ヒフミが言葉を濁したのを見て、私も少し考えた。
うーん、事件らしい事件と言えば、昨年の冬だったか。現ティーパーティーホストである百合園セイアの居室が何者かによって爆破されたことがあった。けれど偶然にも当時百合園セイアはその部屋に居なかったらしく、翌日からの学校生活にも何ら支障はなかったことを覚えている。
思い返せば確かにあの日以来ティーパーティー付きの警護や見回りが増えて、多少物々しい空気はあったけどそれくらいだった。昨年に起きたきりの事件で今さら大人を呼び立てるというのも妙な話だし、たぶん別件ではなかろうか。
「ていうかヒフミ、あんまり顔色良くないよ。ごめん、体調悪いのに引き留めちゃった? もう帰る?」
「いえあの、体調は悪くないんですが……帰るに帰れない事情がありまして……」
事情? と私が訊ねようとした時、にわかに教室の外が騒がしくなった。貞淑であることを良しとするトリニティの生徒には珍しく、日常では聞くことのない大きなざわめきであった。
もしや、件の先生が近くに来たのではないか。
そう、思わず振り返った私の予想は的中していた。
「……!」
これまで散々と見聞きした通りの外見をした、ヘイローを持たない大人が教室の出入り口に立っている。なるほど噂に違わぬ柔和な顔立ちをして……いや、表情がそう感じさせるのだろうか、ともかくも第一印象としては優しげな大人である。
この人が先生か。
先を生きる、という意味での先生。その大人は、不思議と私の中で納得感とともに『先生』として受け入れられた。度量が大きいというか、立ち姿から伝わってくる視野の広さが私たち生徒とは根本的に異なるような、そんな印象だった。
“あっ”
彼はぐるりと教室を見回すと、私たちを見て視線を止める。正確には、恐らくヒフミを見て、だ。
見知った顔を見つけて安心したような顔の緩みは、初対面の私を相手に出てくるはずがないのだから。そういう意味では、ずいぶん感情を素直に表に出す人である。
「ヒフミ? 手を振られているけど……あの先生っぽい人、ヒフミに用があるんじゃないの?」
「あ、あうぅ……」
何故かヒフミは赤面してペロロバッグを顔の前まで持ち上げた。
これは……どうも恋だとかの甘酸っぱい感情ではなく、純度百パーセントの羞恥心であるように見受けられる。何を恥ずかしがることがあるのだろうか。
というか、わざわざ訪ねてきたらしい大人に対して顔を背けるのは失礼にあたるのではないだろうか。
“その様子だと、ヒフミはもう事情を知ってるみたいだね”
気が付けば近くに来ていた先生が、うんうんと頷きながら言った。
事情、と言うと……先ほどヒフミも言っていた、帰るに帰れない理由のことだろうか。さっきヒフミの言葉がぎこちなかったのも、先にこの大人が訪れる目的を把握していたからかもしれない。
「……と、初めまして。ヒフミの友達の、日向イリヤです」
先生の目が私に向いたので、慌てて椅子から立ち上がって挨拶をする。制服にシワとか付いていなかっただろうか。私は途端に心配になった。だって先生とこんな急に知り合うことになるなんて思っていなかったし、大人って社会のマナーとか、厳しそうなものだから。
“初めまして、シャーレの先生です”
「お噂は色々と聞いています。ヒフミと会った時のお話とか」
「……っ」
当のヒフミは先生から顔を隠すように、というよりも、未だにざわめきの収まらない廊下からの視線を遮るようにペロロバッグを掲げている。……その鞄を持っている生徒をヒフミしか見たことないから、もし個人情報を守ろうとしているなら無駄な抵抗だと思う。むしろトレードマークとして顔よりも目立つかもしれない。
“どんな風に話されているのかは気になるけど、とりあえず今はヒフミを……あれ?”
先生は何かを思い出したように手に持っていた用紙の束をペラペラと捲って、その手は最後のページでピタリと止まった。
私はといえば、一瞬のうちに捲られていったページの顔写真の全てがよく知っている顔だった気がして、どうにも心がざわついた。今横にいるヒフミと、見間違いでなければ何故か水着を着て写っていた同じく友人であるハナコ、それから最近友達と言える関係になったアズサ、正実で多少の面識があるコハルちゃん。
……今になってとても気になるのだけど、彼の握る用紙の束はいったいどういうリストなのだろうか。
そして、どうして先生は最後のページと私の顔をしきりに見比べているのだろうか。
“なんだか、顔つきが違うような……でも、名前は”
私はもう一度、横のヒフミを見た。耳まで真っ赤にして顔を隠している。
……ヒフミがこんなに恥ずかしがるような集まりに、私も入れられてるってこと?
……何故?