「で……」
「早速、ご依頼なんですけど……」
赤羽は「……あれ?」と首を傾げながら、事務所の奥を覗き込んでいた。
ロッカーの裏、机の下、給湯スペース。
「……ほんとに、誰もいないな……」
赤羽は事務所内を歩き回りながら、「誰かいませんか〜?」と声をかけていたが、応答はなく、ひとまず椅子にでも座ろうかと振り返った瞬間、
事務所の入口――
ガラスでできた透明な扉の向こうから、か細く、必死な声が聞こえてきた。
「ねぇ…閉まってる…!ねぇ…どういうこと!?ねぇぇぇぇぇ!!」
外には、黒いフリルの服にパンダのパーカーを着た笹木が、ガラスに顔を押し付けながらほぼ泣きそうな顔でバンバンと扉を叩いていた。
一方、そのすぐ内側の壁に身を隠すようにしゃがみこんでいた椎名が、声を殺して肩を震わせながら笑い転げている。
「ふふっ…アハッ……アッハハハハ……!!」
笑いすぎて息ができないのか、椎名は腹を抱えながら崩れ落ちそうになっていた。
「ねぇぇぇぇ!開けてってばぁああああ!!ねぇぇぇ!何してんのぉ!!」
「ねぇどうなってんの!!?開かして!!ねぇ!!開かしてやぁぁ!!」
ガラスの向こうで本気で泣きそうな笹木の声に、赤羽も驚いて「えっ、えっ?」と事態を掴みかねて立ち尽くす。
やっとのことで笑いを落ち着けた椎名が、ぐっと立ち上がって扉の鍵を回すと、「カチャ」という音と共に扉が開く。
「……マジで、キモい!!!」
ドアが開くなり、顔を真っ赤にした笹木が椎名に向かって叫ぶ。
「なんなんこいつ!ガチでサイコパスやろ!マジで入れないと思ったんやけど!?」
と涙目で怒鳴り散らすが、椎名は笑いすぎてほとんど聞こえておらず、「いや〜、面白かったわ〜ほんま…」「動画回しとけばよかった〜」と涼しい顔で応じている。
赤羽はドアのすぐ脇で、気まずそうに立ち尽くしていたが、笹木と椎名のやり取りに思わず口元を押さえて笑いそうになる。
「すごい仲良いですね…」とぽつりと呟く赤羽に、笹木は「どこがや!」と即ツッコミを入れつつも、もう怒る気力はなくなっていた。
赤羽はゆっくりと少女の方を見て、
「……えっと……」
そして、笑いを堪えるような声で一言。
「……いつも、こんな感じです……」
事務所には、
騎士の神秘も、仕事の緊張感も、
完全に吹き飛ばされた騒音だけが残っていた。
真っ赤になって唇を噛みしめている笹木を背に、
椎名は事務所の中を一瞥すると、ソファに座る少女を見つけて、にやっと笑った。
「おっ、噂の騎士様やんけ」
その軽い声に、赤羽は肩を落としたままぼそりと呟く。
「……やっぱり、この子がそうなんですね……」
期待も諦めも全部混ざったような、完全に力の抜けた声音だった。
椎名は気にも留めず、親指で少女を指し示す。
「そう、こいつがその騎士様」
「碧星院高校の秘蔵っ子――」
わざと間を作り、
「『騎士様』こと、夕陽リリさんや」
紹介されると同時に、リリは少し居心地悪そうに視線を逸らし、後頭部をぽりぽりとかいた。
「……騎士様なんて言われても……」
ため息混じりに続ける。
「世怜女の鬼とか、新東京ポートの天使みたいに強くないし……」
「そんな、厨二っぽい仇名つけられても……正直、恥ずかしい……」
声は小さく、どこか本気で困っている様子だった。
その言葉に、赤羽がぴくりと反応する。
「……世怜女……?」
聞き覚えのある高校の名前に、首を傾げる。
世怜女――世怜音女学院と言えば、言わずと知れたお嬢様学校だ。
白いブレザーが特徴的で、偏差値も学費もかなりのものと聞く。
「東の世怜女、西の黒曜崎」と、よく由緒正しい大阪の女子校と比較され煽てられるような場所であり、小市民には到底縁のない高校でもある。
「ここからだと、少し離れてますよね」
興味が勝ったように、少し身を乗り出す。
「世怜女に……誰か、いるんですか?」
純粋な好奇心だった。
その問いに、椎名は一瞬だけ口を閉じる。
いつもの軽さが、ほんのわずかだけ影を落とす。
「……まあ」
曖昧に笑い、
「ちょっとな」
それ以上は語らない。
笹木はまだムスッとしたまま腕を組み、
リリは視線を床に落とし、
赤羽は「ふーん……」と納得したような、していないような顔をする。
赤羽は小さく息を吸うと、手慣れた動きで事務所の隅にある簡易キッチンへ向かった。
ポットに湯を注ぎ、ドリッパーをセットし、迷いのない手つきでコーヒーを淹れていく。
「はい、ちょっと待ってくださいね〜」
湯気と一緒に、ほのかな苦味の香りが事務所に広がる。
「これ、皆さんの分で」
紙コップを手早く配り、自分の分も確保すると、赤羽は一口飲んでほっと息をついた。
「……ふぅ」
そして、椎名の方にくるりと向き直り、目をきらきらさせる。
「椎名さん、お友達に世怜女の人がいるんですか?」
興味津々、といった様子で身を乗り出す。
「お嬢様学校ですよね!
東の世怜女、西の黒曜崎って!」
わざとらしく肩をすくめ、にやにやと笑う。
「いやぁ……上級国民って、本当に嫌らしいですねぇ〜」
明らかに煽りに行っている口調だった。
それに対し、椎名は紙コップを口元に運びながら、少しだけ困ったように視線を逸らす。
「いや、まあ……うちが、って言うか……」
言葉を濁し、そのまましばらく沈黙。
赤羽が「?」という顔をした、そのときだった。
椎名は、何かを思いついたように、にんまりと口角を上げる。
「……そういや」
「昨日、話したやろ。夜見って奴」
赤羽は即座に頷く。
「ええ、いましたね」
その返事を待って、椎名はさらっと言った。
「あいつ、黒曜崎の出身やで」
「ぶっ……!!」
赤羽は盛大にコーヒーを吹き出した。
「げほっ! ごほっ!!
ちょ、まっ……!!」
胸を叩きながら、派手にむせる。
その様子を見て、椎名は涼しい顔のまま、追い打ちをかけるように続けた。
「ついでに言うと」
「うちのお姉ちゃんも、黒曜崎卒やからなあ」
にやにや、と楽しそうに笑いながら。
「黒曜崎は何かと、うちらと縁が深いんやで」
赤羽はようやく呼吸を整し、紙コップを机に置く。
顔は引きつり、笑顔とも苦笑ともつかない表情になっていた。
「……」
そして、ぽつり。
「……今日は、小市民の私が煽られる日かぁ……」
乾いた声が、事務所に落ちる。
それまで黙ってコーヒーを飲んでいた笹木が、急に机を叩いた。
「黒曜崎の話はやめえや!!」
勢いよく椎名の方へ詰め寄り、肩を掴まんばかりの距離まで近づく。
「ちょ、笹木――」
ぽかんとする赤羽を振り返り、笹木は一気に捲し立てた。
「ばねさんな!!
あの学校は入ったらアカン!!」
「うちな!!
変な銀髪に捕まって!!」
赤羽の両肩を掴み、顔を近づけて叫ぶ。
「それで夢の中で解剖されて……!!」
「……え?」
赤羽の脳が処理を放棄した、その瞬間。
椎名の表情が、すっと変わった。
「……は?」
一拍。
「変な銀髪やて!?」
声音が低くなる。
「お前……「親」の前で、何てこと言うんや!」
椎名は、完全にスイッチが入った様子で、笹木に指出しながら怒鳴る。
「お前、本人の前でそれ言ってみや!!」
「お前の事、ボコボコにしてやっからな!!」
「やれるもんならやってみい!!
夢の中で人体バラされるよりマシやわ!!」
事務所の空気が、一気に殺気立つ。
赤羽は二人の間で視線を右往左往させ、
完全に置いてけぼりだった。
――そのとき。
「……そろそろ、良い?」
低く、しかしよく通る声が割り込んだ。
リリは小さく息を吐くと、ソファの横に置いていた鞄に手を伸ばした。
中から取り出したのは、光をほとんど反射しない――真っ黒なカード。
無言のまま、椎名の方へ差し出す。
「……とりあえず、これ。今回の分」
椎名は一瞬だけそれを見て、露骨に面倒くさそうな顔をした。
「うわ……」
指先でつまむように受け取りながら、
「面倒くさ……」
「もうサボったろうかな……」
完全にやる気のない声。
それに対し、リリは肩をすくめるだけだった。
「それはどうぞご勝手に」
淡々と、感情を乗せずに言う。
「誰に、何言われるかまでは……私は知りませんが」
そう言ってソファから立ち上がり、両腕を上げて軽く伸びをする。
背骨が鳴る、小さな音。
その様子を見て、椎名はため息混じりに手を振った。
「はいはい……」
文句を言いながらも、黒いカードを自分の装束――忍者装束の内側に、慣れた動きでしまい込む。
その一連の流れを、赤羽は目を瞬かせながら見ていた。
「……あの」
恐る恐る、椎名に声をかける。
「何ですか、それ?」
椎名は椅子に深く腰掛け、背もたれに体重を預ける。
「あてぃしの副業……」
「まぁ、アルバイトみたいなもんやな……」
投げやりな言い方だった。
「アルバイト……?」
リリはまたソファに座り直した。さっきまでの伸びが嘘のように、静かな姿勢で。
事務所には説明されない仕事の気配だけが、ゆっくりと漂っていた。
赤羽は紙コップを握りしめながら、心の中でそっと呟く。
……絶対、普通のバイトじゃないよね……これ……
誰も、それを否定しない。
赤羽は一度、紙コップを机に置き、軽く手を叩いて気持ちを切り替えた。
「で……」
彼女の方を見て、改めて仕事用の声で切り出す。
「ご依頼なんですけど……」
ソファに深く座り、静かにこちらを見る。
赤羽は続けた。
「私たち、今
『Clione.exe』っていうアプリについて調べてて」
その名前を口にした瞬間、事務所の空気がわずかに張る――
が、それは赤羽の気のせいだった。
「出どころとか、何のためのアプリなのかとか……」
「できれば、
それがどういうものなのか、
どんな挙動をするのかまで、突き止めたいんです」
少し前のめりになりながら、期待を込めて言う。
数秒の沈黙。
そして。
「……何それ」
素直に首を傾げた。
その一言で、思考が完全に停止した。
「……え?」
一拍。
「え、あの……」
目を瞬かせながら、恐る恐る聞き返す。
「専門家……じゃないんですか?」
その場の空気が、微妙に凍る。
「いや……」
笹木が、気まずそうに割って入った。
「リリちゃんはな、何て言うか……その……」
言葉を探すように視線を泳がせる。
「あ、そうそう!」
思いついたように、少し声を張る。
「詳しいやろ?
犯罪関連とか、そういうのは……」
完全に目を逸らしながらのフォローだった。
リリはその様子を見て、小さく息を吐く。
「……なんだ」
「そういうことか」
何となく納得したように頷き、少しだけ表情を緩めた。
「調べてはみますけど」
淡々と、しかし線は引く。
「期待はしないでくださいね」
「私も……私の仕事もあるので」
それは断りではなく、現実的な条件提示だった。
赤羽はその言葉を聞き、少し申し訳なさそうに笑う。
「結構……大変なんですね」
そして、ふと疑問が浮かんだらしく、首を傾げる。
「技能実習がある学校なんですか?」
「それとも……特別なカリキュラム、とか……?」
リリは、一瞬だけ言葉に詰まった。
この高校生にどこまで素性を明かしていいものか解らず、また特に事情を知る者は赤羽葉子にそれを打ち明けて良いものなのか分からなかったからだ。
笹木は一瞬、言葉を失った。
(……マズい)
内心でそう思いながら、慌てて笑顔を作る。
「い、いや……それは、その……」
言葉が続かない。
視線が泳ぎ、手が無意識に紙コップを弄ぶ。
だが、赤羽は引かなかった。
「ていうか」
少し首を傾げ、素直な疑問として続ける。
「何で、こんな高校生の子が、笹木さんより犯罪とかに詳しいんですか?」
一拍置いて、追撃。
「笹木さん、本業ですよね?」
事務所の空気が、ぴしりと張りつめる。
「うっ……」
笹木は完全に言葉に詰まり、
慌てて椎名の方へ視線を送った。
(頼む……!!
なんか言って!!
ここ、うまいこと丸めて!!)
必死のアイコンタクト。
だが――
椎名は一瞬その視線を受け止めたあと、
「……」
ゆっくりと、頭を抱えた。
「……確かに」
低い声で。
「これは、アカンな」
それだけ言って、深いため息。
フォローは、なかった。
「ちょ、椎名!?」
笹木が思わず声を荒げる。
「なんでそこで切り捨てるねん!!」
赤羽は二人を交互に見て、
「え?」「え?」と混乱した顔のまま。
笹木は必死に取り繕おうとする。
「ち、違うねん、ばねさん!!
これはな、その……分業っていうか……」
「得意分野の問題であってな!!」
言葉がどんどん苦しくなっていく。
その様子をリリは、静かに見下ろしていた。
ソファに座ったまま、
視線だけを少し下げ、笹木を捉える。
そして、ぽつり。
「……なるほど」
声は低く、感情をほとんど含まない。
「そういうこと、ですか」
その一言で、
笹木の背中に、ぞくりとしたものが走った。
ソファに座ったまま、赤羽の方を見上げた。その視線は、これまでの柔らかさとは違い、逃がさない強さを帯びている。
「じゃあ、葉子先輩さ……」
静かな声だった。
「人を殺した奴を、許せるの?」
その一言で、赤羽の身体が強張った。
――血の気が、引く。
耳鳴り。
視界の端が、僅かに揺れる。
胸の奥に、押し込めていた記憶が、嫌な感触を伴ってざわつき始める。
「い、嫌だなぁ……」
赤羽は引きつった笑顔を作り、声を絞り出す。
「ちょっと……冗談にしては、タチが悪いって言うか……」
冗談であってほしい、という必死な願い。
だが。
リリは、目を伏せた。
ほんの一瞬、
ホールで見た“影”が、その表情に重なる。
「……私、殺人鬼だよ」
ぽつり。
あまりにも淡々とした声だった。
その瞬間、口から言葉が消えた。
呼吸が止まり、
身体が動かない。
「……」
声を出せない。
事務所の空気が、音を失った。
その沈黙を壊すように、続ける。
「“騎士”っていうのはさ」
ゆっくりと、言葉を選ぶように。
「人の首を刎ねるんだよ」
淡々とした説明。
感情を込めないからこそ、重い。
「守るため、とか」
「命令だから、とか」
「正義のため、とか……」
「理由はいくらでもつくけど」
リリは、赤羽の目から視線を逸らさなかった。
「やってることは、同じ」
「人を、殺す」
赤羽は、その場に立ち尽くしたまま、
指先が小さく震えているのに気づいた。