こちら、都市伝説研究センターです。   作:えいどら

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第一章 第伍話:覚悟

 残された赤羽の背中は、ひどく小さく見えた。

 立ち尽くしたまま、手を伸ばすことも、声をかけることもできずに――。

 

 森中が事務所の扉を開けた時、

 中は既に照明が落ちており、カウンター奥の間接照明だけが、

 淡いオレンジ色で室内を照らしていた。

 

 ガラス扉が閉まる音と共に、森中は靴音を静かに響かせる。

 ふと、ソファの近くに座り込む赤羽の姿を見つけて声をかけた。

 

「……まだいたんだ」

 

 その声に、赤羽は顔を上げず、ぽつりと口を開く。

 

「騎士って……人殺しなんですか」

 

 問いは、重くもなく、取り乱す様子もない。

 ただ真っすぐに、事実だけを確かめるような声音だった。

 

 森中は一瞬沈黙したが、すぐに肩をすくめるように答えた。

 

「……そうだよ」

 

「だから、殺し屋って言ったでしょ」

 

 何の感情も込めていない、事実だけを告げる声。

 森中はカウンターに鞄を置いて、ゆっくりと赤羽に近づく。

 

「椎名唯華も、それを知ってて協力してる。

 その上で、一緒に働いてるんだよ、私達は」

 

 けれど赤羽は何も言わない。

 答えも返さず、黙って小さく項垂れているだけだった。

 

 森中はしばらく様子を見てから、小さく息を吐いた。

 

「……もう、ここ辞める? 短い間だったけど」

 

 しかし、返事はない。

 

 森中は、赤羽の目の前にしゃがみ込んで、

 その顔をのぞき込むようにして言った。

 

「……やっぱり、あなたイカれてるわ」

 

 その言葉に、赤羽は少しだけまばたきをするが、表情は動かない。

 

 森中はじっとその目を見る。

 

「そんなに驚いてないでしょ。夕陽リリが人殺しって聞いて」

 

「普通さ……自分が殺されたって経験して、

 生き返ったって人がさ――人殺しに会ったら、

 もっと拒絶反応でいっぱいになるもんじゃないの?」

 

「恐怖とか、嫌悪とか、怒りとか、憎しみとか……

 そういうの、ないの?」

 

 森中の問いに、赤羽はようやく顔を少しだけ上げた。

 

 その瞳は、どこまでも静かで――

 まるで深い底のない水面のようだった。

 

 嫌悪も恐怖も映っていない。

 

 赤羽の顔がわずかに上がる。

 

 薄闇の中で見えたその表情には、

 恐怖も嫌悪も、怒りもなかった。

 

 ただ、無表情の――空洞のような、真っ直ぐな目だけが、森中を見つめていた。

 

「……アンタ、何者?」

 森中は思わず小さく呟いた。

 

 赤羽はその問いに答えることなく、ただ真っ直ぐ森中を見ていた。

 その視線の奥にあるものは、森中にもわからなかった。

 

 森中は、赤羽の口から返ってきた言葉に、ほんのわずかだけ目を細めた。

 

「あなた、もしかして――」

 と言いかけたその瞬間。

 

 赤羽はそれをさえぎるように、軽く笑って体を伸ばし、

「そんな言い方…しないでくださいよ」

 と、いつもの明るさを取り戻したような調子で立ち上がった。

 

 その仕草は一見すれば、ただの高校生のそれ。

 けれど、その背筋には、何か静かな決意のようなものが漂っていた。

 

「私…知りたくなったんです」

 と赤羽は言いながら、カウンターの端に置かれたコーヒー豆の瓶に手を伸ばす。

 

「もちろん、怖いのは怖いです。私だって――」

 豆をミルに移しながら口をつぐみ、

 しばし無言のまま、豆を砕く「ギリ…ギリ…」という音だけが室内に響いた。

 

「私だって、一回死んでるみたいなもんですから」

 

 その一言に、森中は視線を落とした。

 

「自分を手にかけようとした人と…重ねないの?」

 

 小さな問いだった。だが、その奥には疑念も、警戒も、憂慮もあった。

 

 赤羽は砕き終えた豆の香りを確かめるようにしながら、

「国のため…って言ってましたし」と、ゆっくりと答えた。

 

「犯罪者と兵士さんは…同じにしたらダメだと思います」

 

 ミルの取っ手から手を放すと、今度はケトルに手をかけ、お湯を沸かし始める。

 静かに、当たり前のように動く姿が、まるで日常の一幕のようだった。

 

「もしそうなら、銃を持ってる警察だって信用できませんよ」

 

 カップにドリップ用のフィルターをセットし、粉を入れる。

 香ばしい匂いが、じんわりと事務所に広がっていく。

 

「むしろ…普通の人間よりも、ちゃんとしてると思います」

 ぽつりと、けれどはっきりと赤羽は言う。

 

「椎名さんも、リリさんも――礼儀正しいですし」

 

 やがてお湯が沸き、赤羽はゆっくりと注ぎ始めた。

 その表情は淡々としていたが、その奥にある感情は、森中には見逃せなかった。

 

 赤羽葉子は、確かに「死」を知っている。

 

 そして彼女は、誰よりも真っすぐに、

「生きる理由」を見出そうとしている。

 

 森中はその横顔を見ながら、どこかで少しだけ…心を動かされたような気がしていた。

 

 森中は、赤羽が出て行った後もしばらくその場に立っていた。

 事務所の中は、先ほどまで淹れていたコーヒーの香りがまだほんのりと残っており、静けさの中でその余韻が妙に際立っている。

 

 ふと、カウンターの脇にある小さなゴミ箱に目を向けると、

 そこには赤羽が抽出したあとのコーヒーの出がらしが丁寧にまとめて捨ててあった。

 思わず鼻を近づけてみると――

 

「……え、まだめっちゃいい匂いするやん」

 

 森中は眉をひそめて、クンクンともう一度香りを確かめた。

 芳醇で、どこかスパイシーで、苦味の奥にある深い甘さの残香。

 

「この匂い、まさか…」

 

「ちょ、ちょっと待って……これ、しぃしぃが数ヶ月コツコツお金貯めて買ったやつやん……!?」

 

 言葉がぐるぐるしながら、森中はコーヒーの香りにもう一度鼻を近づけた。

 

「ブラックアイボリー………」

 

 しばらくの沈黙のあと、森中は口元を手で押さえて、肩を震わせながら笑いを堪えようとする。

 

 そのまま森中はカウンターにもたれかかって、吹き出す寸前の顔で言った。

 

「高坊に飲まれてんの……面白すぎでしょ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 森中花咲の部屋は、間接照明だけが点いた落ち着いた明るさに包まれていた。

 

 洗面台の前。

 森中は鏡を見ながら、慣れた手つきで化粧水を肌に馴染ませ、その上から乳液を伸ばしていく。

 スマホはスピーカーにして、肩と頬で軽く挟んだまま。

 

 「……あのさぁ」

 

 呆れたような声で、相手の話を聞く。

 

 「それ、前にも聞いたんだけど」

 

 少し間を置いて、眉を寄せる。

 

 「……は? マジで?」

 

 一瞬、真顔になり――

 

 「……ちょっと通報してくるわ」

 

 低く言った直後、間髪入れずに吹き出す。

 

 「ふふっ……冗談、冗談」

 

 「本気なわけないでしょ」

 

 楽しそうに笑いながら、また化粧水のキャップを閉める。

 

 「で? それでどうなったの」

 

 相槌を打ちながら、今度はハンドクリームを手に取る。

 指先まで丁寧に塗り込みつつ、話を聞き続ける。

 

 「うんうん」

 

 「……あー、それは色味の問題じゃない?」

 

 「服は可愛いけど、メイクが強すぎるんだと思う」

 

 実務的で、的確なアドバイス。

 

 しばらくして、ふっと息を吐く。

 

 「てかさ」

 

 少しトーンを落として、はっきりと言う。

 

 「まずは部屋汚いの、どうにかした方がいいと思うよ」

 

 間髪入れず、追撃。

 

 「それ全部、床に置くのが悪い」

 

 「収納増やすか、せめて洗濯は溜めない」

 

 スマホの向こうからの反応を聞いて、くすっと笑う。

 

 「ほら、そうやって誤魔化す」

 

 それからも、しばらくは雑談。

 愚痴、相談、どうでもいい話。

 森中は適度に相槌を打ち、時々短く笑いながら聞いていた。

 

 やがて、話が一段落すると――

 

 「……うん」

 

 少しだけ声の調子が変わる。

 

 「わかってる」

 

 「今の野暮用が済んだら……」

 

 「そっちも、やっておくよ」

 

 相手の返事を聞いて、森中は小さく頷いた。

 

 「じゃ、またね」

 

 通話終了。

 

 画面が暗くなり、部屋には静けさが戻る。

 

 森中はスマホをテーブルに置き、鏡の中の自分を一度だけ見つめた。

 

 翌朝。

 

 白い光が、ホール全体にやわらかく満ちていた。

 天井の高い空間を、白い機械の蛾たちが静かに舞っている。

 羽ばたきは控えめで、まるで空気そのものが呼吸しているようだった。

 

 赤羽葉子は、その中央に立っていた。

 

 何もせず、ただ待っている。

 腕を組むことも、スマホを見ることもできず、

 足の裏に伝わる床の感触だけを意識しながら。

 

 (……怖い)

 

 心の奥で、はっきりとそう思う。

 

 「殺人鬼だよ」と言った、あの声。

 淡々としていて、冗談とも脅しとも取れない、あの目。

 

 (でも……)

 

 同時に、別の思考が浮かぶ。

 

 (あんな言い方をする人が、

  何も考えずに人を殺す人とは、思えない)

 

 犯罪に詳しい理由。

 年齢に見合わない距離感。

 “騎士”という名前を、嫌がる理由。

 

 (……何を、背負ってるんだろう)

 

 答えは出ない。

 それでも、逃げずにここに立っている自分がいる。

 

 赤羽は、ゆっくりと息を吸った。

 

 ――そのとき。

 

 ごつり、と。

 

 冷たい感触が、背中に押し当てられた。

 

 「っ……!」

 

 反射的に肩が跳ねる。

 振り向くと、そこにいたのは夕陽リリだった。

 

 片手に缶コーヒーを持ち、

 もう一方の手をポケットに入れたまま、無言で立っている。

 

 差し出されているわけでも、突き放されているわけでもない。

 ただ、そこに“ある”。

 

 赤羽の喉が、ひくりと鳴った。

 

 少し、怖い。

 身体がこわばる。

 

 ――けれど。

 

 (でも……悪い人ではないし……)

 

 (弱い人に、手を挙げるような人じゃないよね……)

 

 自分に言い聞かせるように、赤羽は一歩、向き直った。

 

 「えっと……その……」

 

 言葉を探して、視線が泳ぐ。

 

 「この間は……」

 

 少し間が空いてから、頭を下げる。

 

 「……ごめんなさい」

 

 不器用で、間の悪い謝罪だった。

 

 リリは、その様子を見て、困ったように眉を下げる。

 

 「……どうして、また来たの?」

 

 責める口調ではない。

 ただ、純粋な疑問。

 

 「近寄らないでって」

 

 視線を逸らしながら、続ける。

 

 「……こないだ、言ったようなもんなのに……」

 

 白い蛾が、二人の間をゆっくりと横切る。

 

 缶コーヒーを持ったまま、小さく息を吐いた。

 

 「……私だって」

 

 言葉を選ぶように、間を置いてから続ける。

 

 「誰にでも、手を挙げるわけじゃない」

 

 視線は赤羽に向いているが、どこか遠い。

 

 「少なくとも……私は、そう思ってる」

 

 それは自己弁護というより、

 自分自身に言い聞かせるような声音だった。

 

 だが、次の言葉で、距離を取る。

 

 「でも……多分」

 

 「私とは、関わらない方がいいと思う」

 

 白い床に、二人の影が離れていく。

 

 「特に……君みたいな人とはね」

 

 その言葉に、赤羽は反射的に口を開いた。

 

 「でも……」

 

 しかし、その先は言わせなかった。

 

 リリは静かに首を振る。

 

 「あの時」

 

 「事務所で……君の反応、見てたけど」

 

 声が、少しだけ低くなる。

 

 「あれは、普通の人の反応じゃない」

 

 赤羽の胸が、きゅっと締めつけられる。

 

 リリは続けた。

 

 「君……多分」

 

 「犯罪に、遭ったことがある子だよね」

 

 赤羽の喉が鳴る。

 

 「それも……」

 

 一瞬、言葉を探す。

 

 「泥棒とか、詐欺とか」

 

 「そういう軽犯罪じゃなくて……」

 

 白い蛾が、羽音もなく天井へ昇っていく。

 

 「もっと……」

 

 リリは、赤羽をまっすぐ見た。

 

 「世界の見方が、変わってしまうような」

 

 「……恐ろしいもの」

 

 赤羽は視線を逸らしたまま、ぽつりと口を開く。

 

 「……いや……そうなんですけど」

 

 一度、言葉を飲み込む。

 

 「それでも……」

 

 指先が、制服の裾をぎゅっと掴む。

 

 「何か、力になりた――

 

 「ダメだよ」

 

 「やめた方がいい」

 

 はっきりと首を振った。言い切りだった。

 

 缶コーヒーを持つ手に、わずかに力が入る。

 

 「葉子先輩は……何も知らない方がいい」

 

 「私のことも……私たちのことも」

 

 それは突き放す言葉なのに、

 守ろうとする色が、はっきりと滲んでいた。

 

 その瞬間。

 

 「違う!」

 

 赤羽の声が、ホールに少しだけ響いた。

 

 思わず一歩踏み出し、リリの肩に、そっと手を置く。

 

 「リリさんは……悪い人じゃない!」

 

 語気が強くなる。

 それでも、手は乱暴ではなかった。

 

 リリの肩が、わずかに強張る。

 

 赤羽は、はっとして声を落とす。

 

 「……私」

 

 小さく、けれどはっきりと。

 

 「リリさんの、力になりたいんです」

 

 視線を上げ、真正面から見つめる。

 

 「リリさんが……どうして、人を傷つけなきゃならないのか」

 

 「それを、知りたい」

 

 白い蛾が、天井の光に溶ける。

 

 「もし……」

 

 赤羽の声が、少しだけ震えた。

 

 「もしそれを、強いられているなら」

 

 「リリさんだって……被害者のはずです……」

 

 その言葉に瞳が、ほんのわずかに揺れる。

 

 視線を床に落としたまま動かなかった。缶コーヒーを持つ手が、わずかに緩む。

 

 ――数秒。

 いや、もっと長かったかもしれない。

 

 やがて、彼女は小さく息を吐いた。

 

 「……わかった」

 

 その声には、諦めと決断が混ざっていた。

 

 「そこまで言うなら……」

 

 顔を上げ、赤羽を見る。

 

 「葉子先輩には……会ってほしい人がいる」

 

 突然の言葉に、赤羽は目を瞬かせる。

 

 「……会ってほしい人……?」

 

 ほんの一瞬だけ逡巡するような間を置いてから、正直に言った。

 

 「言っとくけど」

 

 「私は、君が私たちと関わるのには……反対」

 

 はっきりとした言葉。

 拒絶に近い、それでも嘘のない本音。

 

 「でも……」

 

 視線を逸らしながら、続ける。

 

 「君の本気さは、よく分かった」

 

 赤羽の言葉、迷い、恐怖、それでも踏み出した覚悟。

 それを軽いものだとは、もう言えなかった。

 

 「だから……」

 

 「私より、立場が上の人に決めてもらおうと思う」

 

 その一言に、赤羽の背筋がすっと伸びる。

 

 問い返す前に、リリは踵を返した。

 

 来た道を引き返すように、

 白いホールの出口へ向かって歩き出す。

 

 数歩進んでから、振り返らずに言う。

 

 「ついてきて」

 

 赤羽は一瞬だけ躊躇し、

 それから、はっきりと頷いた。

 

 「……はい」

 

 歩きながら付け加える。

 

 「それで……今、ここで言った言葉」

 

 「その人に……そのまま伝えて」

 

 試すような声音だった。

 

 「取り繕わなくていい。怖いなら、怖いって言って」

 

 「それでも関わりたいなら……そう言えばいい」

 

 二人の足音が、白い通路に重なる。

 機械たちは、もう追ってこない。

 

 胸の奥で高鳴る鼓動を感じながら、理解していた。

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