残された赤羽の背中は、ひどく小さく見えた。
立ち尽くしたまま、手を伸ばすことも、声をかけることもできずに――。
森中が事務所の扉を開けた時、
中は既に照明が落ちており、カウンター奥の間接照明だけが、
淡いオレンジ色で室内を照らしていた。
ガラス扉が閉まる音と共に、森中は靴音を静かに響かせる。
ふと、ソファの近くに座り込む赤羽の姿を見つけて声をかけた。
「……まだいたんだ」
その声に、赤羽は顔を上げず、ぽつりと口を開く。
「騎士って……人殺しなんですか」
問いは、重くもなく、取り乱す様子もない。
ただ真っすぐに、事実だけを確かめるような声音だった。
森中は一瞬沈黙したが、すぐに肩をすくめるように答えた。
「……そうだよ」
「だから、殺し屋って言ったでしょ」
何の感情も込めていない、事実だけを告げる声。
森中はカウンターに鞄を置いて、ゆっくりと赤羽に近づく。
「椎名唯華も、それを知ってて協力してる。
その上で、一緒に働いてるんだよ、私達は」
けれど赤羽は何も言わない。
答えも返さず、黙って小さく項垂れているだけだった。
森中はしばらく様子を見てから、小さく息を吐いた。
「……もう、ここ辞める? 短い間だったけど」
しかし、返事はない。
森中は、赤羽の目の前にしゃがみ込んで、
その顔をのぞき込むようにして言った。
「……やっぱり、あなたイカれてるわ」
その言葉に、赤羽は少しだけまばたきをするが、表情は動かない。
森中はじっとその目を見る。
「そんなに驚いてないでしょ。夕陽リリが人殺しって聞いて」
「普通さ……自分が殺されたって経験して、
生き返ったって人がさ――人殺しに会ったら、
もっと拒絶反応でいっぱいになるもんじゃないの?」
「恐怖とか、嫌悪とか、怒りとか、憎しみとか……
そういうの、ないの?」
森中の問いに、赤羽はようやく顔を少しだけ上げた。
その瞳は、どこまでも静かで――
まるで深い底のない水面のようだった。
嫌悪も恐怖も映っていない。
赤羽の顔がわずかに上がる。
薄闇の中で見えたその表情には、
恐怖も嫌悪も、怒りもなかった。
ただ、無表情の――空洞のような、真っ直ぐな目だけが、森中を見つめていた。
「……アンタ、何者?」
森中は思わず小さく呟いた。
赤羽はその問いに答えることなく、ただ真っ直ぐ森中を見ていた。
その視線の奥にあるものは、森中にもわからなかった。
森中は、赤羽の口から返ってきた言葉に、ほんのわずかだけ目を細めた。
「あなた、もしかして――」
と言いかけたその瞬間。
赤羽はそれをさえぎるように、軽く笑って体を伸ばし、
「そんな言い方…しないでくださいよ」
と、いつもの明るさを取り戻したような調子で立ち上がった。
その仕草は一見すれば、ただの高校生のそれ。
けれど、その背筋には、何か静かな決意のようなものが漂っていた。
「私…知りたくなったんです」
と赤羽は言いながら、カウンターの端に置かれたコーヒー豆の瓶に手を伸ばす。
「もちろん、怖いのは怖いです。私だって――」
豆をミルに移しながら口をつぐみ、
しばし無言のまま、豆を砕く「ギリ…ギリ…」という音だけが室内に響いた。
「私だって、一回死んでるみたいなもんですから」
その一言に、森中は視線を落とした。
「自分を手にかけようとした人と…重ねないの?」
小さな問いだった。だが、その奥には疑念も、警戒も、憂慮もあった。
赤羽は砕き終えた豆の香りを確かめるようにしながら、
「国のため…って言ってましたし」と、ゆっくりと答えた。
「犯罪者と兵士さんは…同じにしたらダメだと思います」
ミルの取っ手から手を放すと、今度はケトルに手をかけ、お湯を沸かし始める。
静かに、当たり前のように動く姿が、まるで日常の一幕のようだった。
「もしそうなら、銃を持ってる警察だって信用できませんよ」
カップにドリップ用のフィルターをセットし、粉を入れる。
香ばしい匂いが、じんわりと事務所に広がっていく。
「むしろ…普通の人間よりも、ちゃんとしてると思います」
ぽつりと、けれどはっきりと赤羽は言う。
「椎名さんも、リリさんも――礼儀正しいですし」
やがてお湯が沸き、赤羽はゆっくりと注ぎ始めた。
その表情は淡々としていたが、その奥にある感情は、森中には見逃せなかった。
赤羽葉子は、確かに「死」を知っている。
そして彼女は、誰よりも真っすぐに、
「生きる理由」を見出そうとしている。
森中はその横顔を見ながら、どこかで少しだけ…心を動かされたような気がしていた。
森中は、赤羽が出て行った後もしばらくその場に立っていた。
事務所の中は、先ほどまで淹れていたコーヒーの香りがまだほんのりと残っており、静けさの中でその余韻が妙に際立っている。
ふと、カウンターの脇にある小さなゴミ箱に目を向けると、
そこには赤羽が抽出したあとのコーヒーの出がらしが丁寧にまとめて捨ててあった。
思わず鼻を近づけてみると――
「……え、まだめっちゃいい匂いするやん」
森中は眉をひそめて、クンクンともう一度香りを確かめた。
芳醇で、どこかスパイシーで、苦味の奥にある深い甘さの残香。
「この匂い、まさか…」
「ちょ、ちょっと待って……これ、しぃしぃが数ヶ月コツコツお金貯めて買ったやつやん……!?」
言葉がぐるぐるしながら、森中はコーヒーの香りにもう一度鼻を近づけた。
「ブラックアイボリー………」
しばらくの沈黙のあと、森中は口元を手で押さえて、肩を震わせながら笑いを堪えようとする。
そのまま森中はカウンターにもたれかかって、吹き出す寸前の顔で言った。
「高坊に飲まれてんの……面白すぎでしょ……!」
森中花咲の部屋は、間接照明だけが点いた落ち着いた明るさに包まれていた。
洗面台の前。
森中は鏡を見ながら、慣れた手つきで化粧水を肌に馴染ませ、その上から乳液を伸ばしていく。
スマホはスピーカーにして、肩と頬で軽く挟んだまま。
「……あのさぁ」
呆れたような声で、相手の話を聞く。
「それ、前にも聞いたんだけど」
少し間を置いて、眉を寄せる。
「……は? マジで?」
一瞬、真顔になり――
「……ちょっと通報してくるわ」
低く言った直後、間髪入れずに吹き出す。
「ふふっ……冗談、冗談」
「本気なわけないでしょ」
楽しそうに笑いながら、また化粧水のキャップを閉める。
「で? それでどうなったの」
相槌を打ちながら、今度はハンドクリームを手に取る。
指先まで丁寧に塗り込みつつ、話を聞き続ける。
「うんうん」
「……あー、それは色味の問題じゃない?」
「服は可愛いけど、メイクが強すぎるんだと思う」
実務的で、的確なアドバイス。
しばらくして、ふっと息を吐く。
「てかさ」
少しトーンを落として、はっきりと言う。
「まずは部屋汚いの、どうにかした方がいいと思うよ」
間髪入れず、追撃。
「それ全部、床に置くのが悪い」
「収納増やすか、せめて洗濯は溜めない」
スマホの向こうからの反応を聞いて、くすっと笑う。
「ほら、そうやって誤魔化す」
それからも、しばらくは雑談。
愚痴、相談、どうでもいい話。
森中は適度に相槌を打ち、時々短く笑いながら聞いていた。
やがて、話が一段落すると――
「……うん」
少しだけ声の調子が変わる。
「わかってる」
「今の野暮用が済んだら……」
「そっちも、やっておくよ」
相手の返事を聞いて、森中は小さく頷いた。
「じゃ、またね」
通話終了。
画面が暗くなり、部屋には静けさが戻る。
森中はスマホをテーブルに置き、鏡の中の自分を一度だけ見つめた。
翌朝。
白い光が、ホール全体にやわらかく満ちていた。
天井の高い空間を、白い機械の蛾たちが静かに舞っている。
羽ばたきは控えめで、まるで空気そのものが呼吸しているようだった。
赤羽葉子は、その中央に立っていた。
何もせず、ただ待っている。
腕を組むことも、スマホを見ることもできず、
足の裏に伝わる床の感触だけを意識しながら。
(……怖い)
心の奥で、はっきりとそう思う。
「殺人鬼だよ」と言った、あの声。
淡々としていて、冗談とも脅しとも取れない、あの目。
(でも……)
同時に、別の思考が浮かぶ。
(あんな言い方をする人が、
何も考えずに人を殺す人とは、思えない)
犯罪に詳しい理由。
年齢に見合わない距離感。
“騎士”という名前を、嫌がる理由。
(……何を、背負ってるんだろう)
答えは出ない。
それでも、逃げずにここに立っている自分がいる。
赤羽は、ゆっくりと息を吸った。
――そのとき。
ごつり、と。
冷たい感触が、背中に押し当てられた。
「っ……!」
反射的に肩が跳ねる。
振り向くと、そこにいたのは夕陽リリだった。
片手に缶コーヒーを持ち、
もう一方の手をポケットに入れたまま、無言で立っている。
差し出されているわけでも、突き放されているわけでもない。
ただ、そこに“ある”。
赤羽の喉が、ひくりと鳴った。
少し、怖い。
身体がこわばる。
――けれど。
(でも……悪い人ではないし……)
(弱い人に、手を挙げるような人じゃないよね……)
自分に言い聞かせるように、赤羽は一歩、向き直った。
「えっと……その……」
言葉を探して、視線が泳ぐ。
「この間は……」
少し間が空いてから、頭を下げる。
「……ごめんなさい」
不器用で、間の悪い謝罪だった。
リリは、その様子を見て、困ったように眉を下げる。
「……どうして、また来たの?」
責める口調ではない。
ただ、純粋な疑問。
「近寄らないでって」
視線を逸らしながら、続ける。
「……こないだ、言ったようなもんなのに……」
白い蛾が、二人の間をゆっくりと横切る。
缶コーヒーを持ったまま、小さく息を吐いた。
「……私だって」
言葉を選ぶように、間を置いてから続ける。
「誰にでも、手を挙げるわけじゃない」
視線は赤羽に向いているが、どこか遠い。
「少なくとも……私は、そう思ってる」
それは自己弁護というより、
自分自身に言い聞かせるような声音だった。
だが、次の言葉で、距離を取る。
「でも……多分」
「私とは、関わらない方がいいと思う」
白い床に、二人の影が離れていく。
「特に……君みたいな人とはね」
その言葉に、赤羽は反射的に口を開いた。
「でも……」
しかし、その先は言わせなかった。
リリは静かに首を振る。
「あの時」
「事務所で……君の反応、見てたけど」
声が、少しだけ低くなる。
「あれは、普通の人の反応じゃない」
赤羽の胸が、きゅっと締めつけられる。
リリは続けた。
「君……多分」
「犯罪に、遭ったことがある子だよね」
赤羽の喉が鳴る。
「それも……」
一瞬、言葉を探す。
「泥棒とか、詐欺とか」
「そういう軽犯罪じゃなくて……」
白い蛾が、羽音もなく天井へ昇っていく。
「もっと……」
リリは、赤羽をまっすぐ見た。
「世界の見方が、変わってしまうような」
「……恐ろしいもの」
赤羽は視線を逸らしたまま、ぽつりと口を開く。
「……いや……そうなんですけど」
一度、言葉を飲み込む。
「それでも……」
指先が、制服の裾をぎゅっと掴む。
「何か、力になりた――
「ダメだよ」
「やめた方がいい」
はっきりと首を振った。言い切りだった。
缶コーヒーを持つ手に、わずかに力が入る。
「葉子先輩は……何も知らない方がいい」
「私のことも……私たちのことも」
それは突き放す言葉なのに、
守ろうとする色が、はっきりと滲んでいた。
その瞬間。
「違う!」
赤羽の声が、ホールに少しだけ響いた。
思わず一歩踏み出し、リリの肩に、そっと手を置く。
「リリさんは……悪い人じゃない!」
語気が強くなる。
それでも、手は乱暴ではなかった。
リリの肩が、わずかに強張る。
赤羽は、はっとして声を落とす。
「……私」
小さく、けれどはっきりと。
「リリさんの、力になりたいんです」
視線を上げ、真正面から見つめる。
「リリさんが……どうして、人を傷つけなきゃならないのか」
「それを、知りたい」
白い蛾が、天井の光に溶ける。
「もし……」
赤羽の声が、少しだけ震えた。
「もしそれを、強いられているなら」
「リリさんだって……被害者のはずです……」
その言葉に瞳が、ほんのわずかに揺れる。
視線を床に落としたまま動かなかった。缶コーヒーを持つ手が、わずかに緩む。
――数秒。
いや、もっと長かったかもしれない。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「……わかった」
その声には、諦めと決断が混ざっていた。
「そこまで言うなら……」
顔を上げ、赤羽を見る。
「葉子先輩には……会ってほしい人がいる」
突然の言葉に、赤羽は目を瞬かせる。
「……会ってほしい人……?」
ほんの一瞬だけ逡巡するような間を置いてから、正直に言った。
「言っとくけど」
「私は、君が私たちと関わるのには……反対」
はっきりとした言葉。
拒絶に近い、それでも嘘のない本音。
「でも……」
視線を逸らしながら、続ける。
「君の本気さは、よく分かった」
赤羽の言葉、迷い、恐怖、それでも踏み出した覚悟。
それを軽いものだとは、もう言えなかった。
「だから……」
「私より、立場が上の人に決めてもらおうと思う」
その一言に、赤羽の背筋がすっと伸びる。
問い返す前に、リリは踵を返した。
来た道を引き返すように、
白いホールの出口へ向かって歩き出す。
数歩進んでから、振り返らずに言う。
「ついてきて」
赤羽は一瞬だけ躊躇し、
それから、はっきりと頷いた。
「……はい」
歩きながら付け加える。
「それで……今、ここで言った言葉」
「その人に……そのまま伝えて」
試すような声音だった。
「取り繕わなくていい。怖いなら、怖いって言って」
「それでも関わりたいなら……そう言えばいい」
二人の足音が、白い通路に重なる。
機械たちは、もう追ってこない。
胸の奥で高鳴る鼓動を感じながら、理解していた。