背中を追って、赤羽葉子は歩き出した。
白いホールを抜けると、空気は一気に現実の重さを取り戻す。
視界に広がるのは、見慣れたはずの、けれどどこか荒れた街はずれの風景だった。
割れた歩道。
雑草がコンクリートの隙間から伸び、踏まれても折れずに生き残っている。
錆びついたフェンスはところどころ歪み、無意味に垂れ下がった針金が風に揺れる。
色褪せた看板には、もう営業していない店の名前が薄く残り、
その下に貼られた紙は、雨に溶けて文字を失っていた。
遠くを走る車の音だけが、空間を満たす。
二人は言葉を交わさず、その景色の中を抜けていった。
やがて駅に辿り着く。
ホームに入ると、荒れた街の匂いは薄れ、
鉄と油と人の気配が混じった、いつもの公共交通の空気に変わる。
電車が滑り込む音。
ドアが開き、人の流れに押されるように乗り込む。
車内は無機質で、広告モニターが無表情に映像を流している。
窓の外には、建物の列が流れ、
古い低層ビルから、次第に新しいマンションやオフィス街へと変わっていく。
赤羽は座席に座り、膝の上で手を組みながら、
ガラスに映る自分と、隣に立つリリの姿をぼんやりと見ていた。
やがて電車を降り、
さらにバスに乗り換える。
バスは住宅街を抜け、緩やかな坂を上っていく。
道幅は広くなり、街路樹が等間隔に並び、
電柱や信号機のデザインさえ、どこか新しい。
停留所で降りると、そこからは徒歩だった。
舗装された歩道はひび割れ一つなく、
植え込みはきちんと剪定され、落ち葉ひとつ放置されていない。
空気が、明らかに違う。
しばらく歩いた先で、視界が一気に開けた。
――碧星院高校。
高い塀ではなく、透明度の高いガラスと金属フレームで構成された外周。
正門と呼ぶにはあまりにも開放的なゲートがあり、
その奥に、近代的な校舎群が整然と並んでいる。
建物は白と淡い青を基調にしたデザインで、
直線的で無駄がなく、
どこか研究施設や企業のラボを思わせる佇まいだった。
敷地内には広い中庭があり、
人工芝とコンクリートの歩道が幾何学的に配置されている。
水の流れる音が微かに聞こえ、
噴水の水面が朝の光を反射していた。
制服姿の生徒たちが、静かに行き交っている。
誰もが落ち着いた足取りで、
無駄に騒ぐ者はいない。
リリは立ち止まり、
首から下げていた生徒手帳を取り出した。
ゲート脇の端末にかざすと、
短い電子音と共に、ガラスの仕切りが静かにスライドする。
「……行くよ」
振り返らずにそう言い、リリは中へ入る。
赤羽は一瞬、外からその光景を見つめたあと、
覚悟を決めるように一歩踏み出した。
ゲートをくぐった瞬間、
外の世界の雑音が、嘘のように遮断される。
整えられた空間。
管理された静寂。
赤羽葉子は、この時はっきりと感じていた。
――ここは、
自分の知っている学校とは、
まったく別の世界だ、と。
リリが立つその背中は、この異質な空間に、あまりにも自然に溶け込んでいた。
ゲートをくぐってから、しばらく歩いても――
人の気配は、ほとんど感じられなかった。
広い中庭。
整えられた通路。
風に揺れる植え込みの葉擦れの音だけが、やけに大きく聞こえる。
赤羽は思わず、声を潜める。
「……誰もいないんだけど……」
まるで、休日の研究施設に迷い込んだみたいだった。
その言葉に、振り返らずに答える。
「今の時間は、訓練とかもないからね」
歩調は一定。迷いがない。
「みんな……地下にいるんじゃないかな」
さらりと言われたその一言が、
赤羽の背中に、ぞわりとした感覚を残す。
(……地下……?)
だが、問い返す前に、リリは校舎の自動扉をくぐっていた。
――校舎内。
外観と同じく、内部も無駄がない。
白と紺を基調にした廊下は広く、
天井の照明は影を作らないよう均一に配置されている。
足音が、妙に響く。
しばらく歩いたところで――
前方から、一人の女子生徒が現れた。
夕陽リリと同じ、紺の制服。
見た目は、ごく普通の女子高生だ。
長さの揃った髪、整えられた身なり。
だが――
歩き方。
姿勢。
視線の運び。
一つ一つが、異様なほど規則正しい。
無意識に、無駄な動作が削ぎ落とされている。
それが、逆に不気味だった。
すれ違いざま、女子生徒は一瞬だけ赤羽に目を向け、
首を傾げる。
「……夕陽さんにしては、少し若くない?」
素朴な疑問。
だが、その言い方は、完全に“確認”だった。
赤羽が答える前に、リリが即座に突っ込む。
「いや、別にナンパしてきたわけじゃないから」
ぴしっとした返し。
女子生徒は一瞬きょとんとしたあと、
ふっと表情を緩めた。
「ああ、良かった……」
肩の力を抜き、軽く笑う。
「ついに、やってきちまったのかと思ったわ……」
そして、思い出したように続ける。
「環崎教官のこと、ナンパして振られたの」
「いつだったっけ?」
冗談めいた口調。
だが、出てくる名前が、まったく軽くない。
その瞬間、リリの視線が泳いだ。
「……そんなの」
一拍置いて、
「覚えてないし……」
間が悪そうに、目を逸らす。
女子生徒は、その反応を見て、楽しそうに笑った。
「はいはい。
その顔は覚えてるやつだわ」
軽く手を振り、
何事もなかったかのように歩き去っていく。
廊下に、再び静寂が戻る。
当の本人は何事もなかったように前を向いたまま、歩き続けている。
(ナンパ…?)
(ナンパってあのナンパ…?)
疑問には思うが、特に言及はしない。
まだ緊張が取れないからか、彼女らの砕けた雰囲気には中々同調できなかったからだ。
教官。
訓練。
地下施設。
どれも、“普通の高校”には当てはまらない。
赤羽は、その背中を見つめながら思った。
――ここは、
学生が“守られる場所”じゃない。
学生が“使われることを前提にした場所”だ。
そして、自分は今、
その最奥へ向かって歩いている。
そう理解した瞬間、
胸の奥で、覚悟がもう一段、深く沈んでいく。
廊下の最奥にある大きめの扉の前で足を止めた。
他の教室とは違い、扉は重厚で、木目と金属が組み合わされた造りをしている。
短く、控えめにノック。
「……失礼します」
そう言って扉を開け、中へ入る。
赤羽も一拍遅れて、その後に続いた。
天井は高く、壁一面には書籍が並ぶ棚。
専門書、洋書、古そうな背表紙まで混ざっており、
装飾というより、実際に使われている場所だということが一目でわかる。
窓から差し込む光は柔らかいが、
部屋全体には、張りつめたような静けさがあった。
その奥――
大きなデスクの向こうに、一人の青年が座っている。
栗色の髪。
整った顔立ちに、どこか力の抜けた表情。
椅子に深く腰掛け、足を組み、肘をついたままこちらを見ていた。
雰囲気は、驚くほど緩い。
だが。
視線が合った瞬間、赤羽は無意識に背筋を伸ばしていた。
理由はわからない。
ただ、目を逸らしてはいけないと、本能が告げてくる。
青年は、軽く眉を上げて、彼女を見る。
「……ん?」
声音は柔らかく、どこか気だるげ。
「ちょっと、若くない?」
冗談めいた調子だった。
その言葉に、リリはため息混じりに即答する。
「だから……」
「ナンパじゃないって」
どこか親しげで、
先ほどまで赤羽に見せていた警戒とは違う距離感。
青年はその返しに、ふっと小さく笑った。
「はいはい」
軽く受け流すような態度。
けれど、その視線はすでに赤羽の方へと向いている。
部屋の空気が、わずかに変わる。
緩やかで、穏やかで――それでいて、底が見えない。
「お客様だよ」
リリは、少しだけ間を置いてから、室内を指し示すように言った。それから、赤羽の方を軽く見て付け加える。
「……例の研究センターの、アルバイトさん」
青年は一度だけ赤羽に視線を向け、
それから大きくもたれかかったまま、ゆるく頷いた。
「そうかそうか」
どこか気の抜けた声。
だが、目は確かに状況を捉えている。
「で」
肘をついたまま、首を傾げる。
「そのアルバイトさんが、何のようかな?」
問いかけは柔らかいが、
場を仕切る人間の余裕があった。
リリは一歩前に出て、簡潔に説明する。
「彼女……何らかの犯罪被害者である可能性がある」
赤羽の様子を思い出すように、少し言葉を選びながら。
「いくらアルバイトとはいえ……」
「その状態のまま、私たちの仕事に関わらせるのは」
「メンタル的に、正直……心配」
青年はそれを聞き、即座に否定も肯定もしなかった。
代わりに、リリを見る。
「……確証はあるの?」
あくまで冷静な確認。
リリは首を横に振る。
「確証、まではない」
だが、続けて言葉を重ねる。
「でも……」
「あの時、彼女が私の話を詳しく聞こうとした時」
「椎名さんとセンター長さんが、必死に彼女を止めてた」
一瞬、沈黙。
「たとえ……私の読みが外れてたとしても」
「少なくとも、彼女は彼女に頼まれた仕事をさせるべきじゃないと思う」
言い切りだった。
青年は「ふーん」と小さく相槌を打ち、
天井を見上げるように視線を逸らす。
「……ま」
少し間を置いて、
「夕陽さんがそう思うんなら、そうかもね」
軽く納得したように笑う。
それから、今度は真正面から赤羽を見る。
視線は柔らかい。
けれど、逃げ場はない。
「で」
声音は変わらないまま、
はっきりと問いを投げた。
「本当のところは、どうなの?」
ほんの少しだけ口角を上げて、
「――アルバイト君」
その一言で、
部屋の空気は完全に、赤羽に向けられた。
校長室の静けさが、さらに一段深くなる。
赤羽は、青年の視線を正面から受け止めたまま、喉を鳴らした。
逃げ場はない。
だからこそ――逃げない。
「……一回」
声が、わずかに震える。
「一回……殺されました」
言葉を吐き出した瞬間、
胸の奥に押し込めていた記憶が、ざらりと擦れる。
「なんで……生きてるのかは、分かりません」
指先が、自然と強く握りしめられる。
「でも……確かに、あの時……」
それ以上の描写は、口にできなかった。
それでも“事実”だけは、はっきりとそこにあった。
青年は、口を挟まない。
足を組んだ姿勢のまま、ただ赤羽を見ている。
軽い相槌も、冗談もない。
その目は、逃げも誤魔化しも許さず、
同時に――拒絶もしなかった。
赤羽は、息を吸い直す。
「でも……」
今度は、少しだけ声がはっきりした。
「リリさんは……悪い人じゃない」
横に立つ存在を、言葉でなぞる。
「私を殺した人とは……関係ない」
震えながらも、言い切る。
「だから……」
赤羽は、青年を見る。
「私は……この仕事を、やり遂げたいんです」
恐怖がないわけじゃない。
傷が癒えているわけでもない。
それでも――
目の前にある“関わってしまった現実”から、
目を逸らしたくなかった。
沈黙。
書棚の奥で、空調が微かに音を立てる。
青年は、赤羽をじっと見つめたまま、
ゆっくりと息を吐いた。
その視線には、軽さも油断も、そして――侮りもなかった。
青年は、ゆっくりと椅子から身体を起こし、足を組み替えた。
先ほどまでの緩さは残したまま――けれど、声には確かな重みが乗る。
「まあ……」
赤羽に向き直り、肩をすくめる。
「そういう子を扱うのも、僕たちの仕事だけどね」
軽い言い方だったが、冗談ではないことは誰にでも分かる。
「リリさんの気持ちも、分かるし」
視線を赤羽に戻す。
「アルバイト君が言ってることも……分かる」
どちらかを切り捨てることなく、
どちらの覚悟も、同じ重さで受け止めている声音だった。
それから青年は、数歩だけ移動し、隣に立つ。
視線を落とし、少しだけ声の調子を変える。
「リリさんもさ……お姉さんを亡くしてるんだ」
空気が、きし、と軋んだ。
その言葉に、リリはぴくりと肩を揺らす。
すぐに何もなかったように視線を逸らし、窓の方を見る。
「……」
何も言わない。
否定もしない。
青年は、そんな彼女を責めるでもなく、静かに続けた。
「だからこそだと思うよ」
「君が、アルバイト君のことを心配するのは」
「敢えて誰かを傷つける光景を見せたくないって思うのも……無理ない」
リリは唇を噛み、わずかに俯いたまま、何も答えない。
その沈黙が、十分すぎるほどの肯定だった。
赤羽は、その様子に目を見開いた。
驚き。
そして――理解。
数秒、迷うように視線を彷徨わせたあと、
赤羽は一歩、前に出る。
「……なら」
声は震えていたが、逃げていない。
「尚更です」
二人を見る。
リリを。
そして青年を。
「私は……私ができることを、したい」
それは、自己犠牲の宣言ではなかった。
救ってほしい、という願いでもない。
「全部、分かったふりはできません」
「怖いですし、簡単じゃないってことも……分かってます」
それでも。
「でも」
赤羽は、はっきりと言った。
「それでも、ここで何もしないで帰る方が……嫌なんです」