青年はデスクの縁に軽く寄りかかり、指先で天板をとん、と叩いた。
どこか気の抜けた仕草のまま、息をひとつ吐く。
「まあ……」
視線を二人に向けて、
「聞いてから、考えるといい」
そう前置きしてから、淡々と語り始めた。
「ここはね」
「国際連合直轄の保安組織――search and ignition material」
少し間を置き、軽く笑う。
「通称、Σの養成所だよ」
その名前が、校長室の空気に落ちる。
「元々は、今から五十年前の安保条約がきっかけでね」
「加盟国に一時的に配置された、法的な執行機関だった」
まるで昔話をするような口調。
「発展途上国での反政府団体の始末が主な仕事」
その言葉だけが、妙に生々しい。
「でも、役目を終えてからは……」
「事実上、解散状態になってた」
赤羽は、頷きながら聞いていた――はずだった。
……が。
視線は、いつの間にかデスクの端に置かれた小さな皿へ。
そこに無造作に置かれた、個包装のチョコレート。
(……高そう……)
無意識に、ちらっ。
もう一度、ちらっ。
「……聞いてる?」
青年の声に、はっとする。
「ひゃっ……あ、はい!」
慌てて視線を戻し、姿勢を正す。
「えっと……え?」
頭の中で、話を巻き戻しながら、
「で、でも……」
首を傾げる。
「解散した機関の養成所なんて……」
「なんで、まだあるんですか?」
青年は、その反応を予想していたように、肩をすくめた。
「簡単だよ」
あっさりと。
「解散されたΣをね」
「当時の事務総長から――二十年前に、僕が引き継いだ」
その瞬間。
「……ふぅん……」
赤羽は、無意識に相槌を打ちながら、
再びチョコへ視線を落とす。
「これ……」
遠慮がちに指差して、
「食べてもいいですか?」
半分は冗談、半分は本気。
話の重大さと、日常の感覚が、ちぐはぐに同居している。
青年が何か言おうとした、その前に――
赤羽の動きが、止まった。
「……」
数拍遅れて、顔が固まる。
ゆっくりと、青年を見る。
「……今」
声が、やけに静かだった。
「……なんて、言いました?」
目を見開いたまま固まっている赤羽を見て、青年は小さく肩をすくめた。
どこか困ったような、照れたような笑み。
「まあ……」
軽く息を吐きながら、観念したように言う。
「言ってしまえば、僕が今のΣのリーダーだよ」
「君が出会った、椎名唯華や夕陽リリは――僕の部下」
あまりにもさらりとした言い方だった。
その横で、興味なさそうに腕を組む。
「で」
少し皮肉めいた口調で、
「そのΣを引き継いで、やってることが」
校長室を見回し、
「こんな……殺し屋学園の運営、と」
まるで他人事のような言い方だった。
赤羽は、まだ整理しきれていない頭のまま、
ゆっくりと視線を二人の間で往復させる。
その様子を見て、リリはため息をついた。
「まあ……」
今度は赤羽の方を見て、少し噛み砕くように説明する。
「ざっくり言えばね」
「Σは、国連の“人道介入”の流れを汲んだ、法執行装置」
言葉を選びつつも、隠さない。
「言っちゃえば」
「国連の名義を使って、“人権保護”を建前に」
「悪人を処分してる、殺し屋集団」
「……で」
リリは続ける。
「ここは、その養成所」
「叶さんは……その代表だよ」
リリは、赤羽の方を見て淡々と付け加えた。一方赤羽はそれを聞くと、一瞬にして緊張の糸が完全に切れような顔になっていた。
「ちなみにね」
「前に話してた新東京ポート高校も、Σの養成校だよ。世怜音女学院も、二つあるうちの一つはΣが管理してる」
「ふ~ん…それで犯罪関連に詳しいんですね〜」
深く考えることもなく、
赤羽は机に置かれたチョコを次々と手に取り、もぐもぐと食べ始める。
「なるほど〜……」
「だから、世怜女の東側って誰もいないんだ〜」
納得したように頷き、
「誰も出入りしてないのに、バカでかい校舎ありますもんね〜」
完全に気が抜けた様子で、
そのままソファに腰を下ろし、背もたれに体を預けた。
……数秒。
その光景を眺めていたリリが、呆れたように口を開く。
「……なんか、息抜きしすぎじゃない?」
ゆっくり赤羽のそばに寄る。
その気配に気づいた赤羽は、びくっと肩を跳ねさせた。
「……あ、いや」
慌てて姿勢を正しながら、しどろもどろに言う。
「なんか……話聞いてると、怖くなくなったって言うか……」
「正義の味方……みたいだし……」
言い終えた瞬間、自分でもまずいと思ったのか、
「あ、いや……!」
さらに慌てて続ける。
「私、悪い人じゃないし……」
「殺されたりは、しないかなって……」
完全に取り繕うように背筋を伸ばした、そのとき。
――ぽん。
背後から、軽く肩に手が置かれた。
「いいよ」
柔らかな声。
「くつろいでて」
振り返ると、
机のそばに立っていた叶が、クスッと笑っていた。
「僕にも、敬語とか使わなくていいからさ」
気負いのない、いつもの調子。
その笑顔を向けられた瞬間、
赤羽の目が、ぱっと輝く。
「え……じゃあ……」
一瞬だけ迷ってから、
「叶君って呼んでも……いいかな?」
その場の空気が、ほんの一瞬だけ止まった。
リリは、表情を変えずに叶を見る。
(……こいつ)
(顔がいいからって、何しても許されると思ってるな……)
内心で、はっきりと毒づく。
しばらく二人のやり取りを無言で眺めていたリリは、軽く咳払いをして間に入った。
「……もう、いい?」
空気を切り替えるように言ってから、赤羽を見る。
「で……Clione.exeだったっけ?」
その名前を聞いて、赤羽ははっと我に返った。
「あ……そうだ」
一息ついて、姿勢を正す。
「Clione.exeっていうアプリについて、調べたくて」
少し前を向き、今度は叶の方を見る。
「それで……リリさんが犯罪関連に詳しいって聞いたから」
「こんなところまで、来ちゃったんだよね」
言い訳も取り繕いもない、素直な口調だった。
叶は「なるほどね」と小さく頷くと、
机の前に座り直し、今度はちゃんと“説明する側”の姿勢になる。
その横で、リリが腕を組んだまま聞き返した。
「で、何なの?」
「そのアプリ」
叶は少し考えるように視線を落としてから、口を開く。
「Clione.exeっていうのは」
「今、裏で噂になってる“アプリ型の検索エンジン”だよ」
赤羽が思わず身を乗り出す。
「元々はね」
「人を選んで取引されてたUSBの中に入ってたアプリなんだ」
「しかも、他にもコンピューターウイルスが一緒に入ってることが多いらしい」
リリが眉をひそめる。
「USB……?」
「うん」
叶は頷く。
「USBを直接手渡しするとか、そういうアナログな形で取引されてる」
「だから多分……ネット上には存在しないアプリだね」
赤羽は一瞬考え込み、それから恐る恐る聞いた。
「じゃあ……」
「それを使えば、違法な取引とか……できるの?」
その瞬間。
叶の視線が、ふっと赤羽に定まる。
少しだけ身を乗り出して、問い返した。
「……使ってみたい?」
距離が、近い。
赤羽は一瞬だけドキッとして、
反射的に手を前に出した。
「あ、いや!」
「そ、そんなことしたら私……」
「これ、だよね……?」
両手を前に出して、
手錠をかけられるジェスチャー。
それを見て、叶は小さく笑った。
「大丈夫」
穏やかな声で、はっきりと言う。
「仕事で使ってもらうんだから」
「そんなことには、ならないよ」
叶は軽く頷き、淡々と続けた。
「Clione.exeはね、今のところ――
Σが研究用として押収したものが一つだけ、現存してる」
椅子に深く腰掛け、指を組む。
「それを使えば、いわゆるダークウェブって呼ばれてるサイト群にアクセスできる」
その言葉に、赤羽の肩がぴくりと跳ねた。
「あ、え……でも……」
不安と好奇心が混じった声。
すると叶は、間髪入れずに現実的な条件を出す。
「もちろん」
「USBを貸す以上は、こっちの仕事も手伝ってもらう」
赤羽はごくりと喉を鳴らす。
「三年前に流行った、脱法ドラッグがあるでしょ」
「それが、今も闇市場に流通してないか――」
「それを調べてほしい」
あまりにもさらっとした頼み方だった。
赤羽は、恐る恐る聞き返す。
「……見つけて、どうするの……?」
「まさか……買い取れ、とか……?」
叶はすぐに首を横に振る。
「いや」
即答だった。
「欲しいのは、送り主の身元」
指先で机を軽く叩く。
「あわよくば、住所まで取れれば理想だけど……」
「まあ」
少しだけ視線をリリに向ける。
「あまり危険になりそうなら、リリさんを頼ってくれてもいい」
それを聞いて、赤羽は一瞬だけ気の抜けた反応を見せた。
「身元〜?」
ソファに座ったまま、首を傾げる。
「身元なんか調べて、どうするの〜?」
どこか他人事で、興味も薄そうな声。
その瞬間。
室内が、静まり返った。
リリも、叶も――
何も言わない。
視線だけが、赤羽に向けられる。
数秒。
その沈黙の意味が、
遅れて赤羽の中で形を持った。
「……」
びくっと、身体が震える。
目を見開き、背筋が一気に冷える。
「……ですよね……」
小さく、納得したように呟いた。
叶は、少しだけ言いにくそうに視線を赤羽へ向けた。
「……とは言っても、ね」
声の調子は相変わらず柔らかい。
「その姿で、Σの敷地内を土足で歩き回らせるわけにはいかないかな」
赤羽はきょとんとしてから、はっと自分の身体を見る。
制服。
朝から動き回ったせいか、リボンは少し曲がり、
シャツのボタンも一つずれている。
「あ……あはは……」
照れ笑いを浮かべながら、慌てて身なりを整え始める。
「いや……いつもは綺麗にしてるんだけどさ……」
リボンを直し、ボタンを留め直し、
軽くスカートを払う。
その様子を見て、叶は小さく笑った。
「いやいや」
首を振りながら、否定する。
「そういうことじゃなくて」
少しだけ真面目な声になる。
「流石にね」
「Σの訓練生でもない、普通の女子高生を…秘匿性の高い場所に、そのまま入れるわけにはいかない」
言葉は穏やかだが、内容ははっきりしていた。
「僕個人は良くても」
「体裁だけでも整えないと、組織として無秩序になりかねないからさ」
そう言って、リリと一緒に赤羽を見る。一瞬考えるように目を伏せ、
それから小さく頷いた。
「……確かに、まあ」
腕を組み、淡々と続ける。
「ビジネスマナーとしての問題では、あるよね」
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夕方。
赤羽が去ったあとの教室――正確には、校長室の奥にある応接スペースは、昼間よりも静かだった。
リリはソファに深く腰を下ろし、片手でスマホを眺めながら、もう片方の手で髪を耳にかける。
「……なんかさ」
画面から目を離さないまま、ぽつり。
「気前よすぎじゃない?」
言葉は軽いが、視線だけはちらりと叶に向ける。
「アルバイト一人に、あそこまで話す?」
少し間を置いて、今度ははっきりと顔を上げた。
「……もしかして、何か企んでる?」
疑うというより、探る目。
叶はソファの向かいで、椅子にだらっと背中を預けていたが、その問いに小さく肩をすくめた。
「別に、何も」
即答だった。
「最初はさ」
伸びをしながら、天井を仰ぐ。
「子供だったし、アルバイトなんてそれなりに対応して」
「あとは関わらずに、適当に追っ払おうと思ってたよ」
あっけらかんとした口調。
だが、伸びを終えたあと――
叶の表情が、ふっと変わる。
緩さが消え、真顔になる。
「……でも」
一拍置いて、
「話、聞いてたら……笑えなくなった」
その一言で、スマホを伏せた。
「ふーん……」
少しだけ眉をひそめる。
「あんま客選ぶとさ」
「そのうち、誰も取引してくれなくなるぞ」
からかうような口調だが、核心を突いている。
「で?」
「何する気だったんだよ」
叶は答えず、椅子から立ち上がった。
そのまま部屋の奥、簡易キッチンの方へ歩いていく。
「別に」
背中越しに、淡々と。
「仕事しないつもりだったわけじゃないさ」
やかんをコンロに乗せ、火をつける。
小さく、ガスの点火音。
「“重要な犯罪に関わるものだから、これ以上は話せません”」
「それで終わる話だったよ」
リリはソファにもたれたまま、その背中を見る。
「……ふーん」
やかんに水が入っているか確かめながら、叶は続けた。
「でもさ」
炎を見つめたまま、少し声を落とす。
「こういう仕事してると……」
「ああいう子は、放っておけなくなるからね」
それは、言い訳にも、正当化にも聞こえなかった。
リリはしばらく黙っていたが、やがて小さく鼻で笑う。
やかんが小さく音を立て始め、湯気が細く立ち上る。
叶は慣れた手つきでドリッパーを用意し、二人分のコーヒーを淹れていた。
その途中――
ふと、自分の口から出た言葉が頭をよぎる。
――体裁だけでも整えないと、組織として無秩序になりかねない。
――ビジネスマナー。
次の瞬間。
「……っ!」
背筋に、ぞわっと寒気が走る。
叶は急に顔を上げ、声を張った。
「家長!!」
やや大きめの声で、焦りを隠しきれない。
「あいつ、今日……研修じゃなかったか!?」
ソファに座っていたリリは、スマホから目も離さず、心底面倒くさそうに答える。
「今朝、ちゃんと行きました」
淡々と。
「十時から世怜女に間に合うように、出ました」
それを聞いても、叶の不安は止まらない。
やかんを火にかけたまま、さらに畳みかける。
「あいつ……」
「ちゃんと、制服着て行ったか!?」
リリは一拍置いてから、同じ温度で返す。
「行きました」
「ちゃんと」
その一言で、ようやく叶の肩から力が抜けた。
彼はそのまま、目の前の机に両腕をつき、
額を軽く押し付けるようにして項垂れる。
「……心臓に悪いな、本当に……」
やかんの湯が、静かに沸き切る音だけが、
夕方の部屋に残っていた。