翌日。
碧星院高校の女子更衣室は、やけに無機質だった。
白を基調とした壁、金属製のロッカー、曇りひとつない大きな鏡。
学校というより、研究施設の付属設備のような空間。
その鏡の前に、赤羽葉子は立っていた。
身にまとっているのは、
黒を基調に、赤いラインが走るミリタリー系の服。
ネクタイを締めて、しっかりとした軍事的な装束に、どこか大人びた女子らしさを感じるワンピース状のスカート。
リリの着ている制服と比べると少しだけカジュアルに見えるが、それでも女子高生のブレザーよりは「それらしさ」を感じる服である。
赤羽は袖を引っ張ったり、肩を回したりしながら、生地を指先で確かめた。
「……おお……」
思わず、感嘆の声が漏れる。
布は硬そうに見えるのに、触るとしなやかで、
表面はさらりとしているのに、芯のある重さがあった。
「なにこれ……めっちゃ高そう……」
その様子を、壁にもたれて見ていた夕陽リリが口を開く。
「それね」
淡々とした声で説明する。
「ちょっと前、例のドラッグの件でΣを手伝ってた子がいて」
赤羽は鏡越しにリリを見る。
「その時に特注で作ってた、防弾制服なんだけど」
「結局その子、普通の制服で毎回特攻するもんだから」
「使わず仕舞いだったらしいんだよ」
赤羽は目を丸くした。
「……え」
「そんな理由で……?」
もう一度、自分の格好を見下ろす。
「……じゃあさ」
少し考えてから、素朴に言う。
「私も、普段着で行けば良いじゃないですか」
リリは即座に首を振った。
「無理」
即答。
「世怜音女学院の子で、見た目だけは…同じ制服だったから」
「それでも、まあ良かったんだよ」
そう言ってから、赤羽を見る。
上から下まで、一度だけ。
「……葉子先輩は、無理」
赤羽が「えっ」と声を出す前に、
リリは近づいて、その肩をぽん、と叩いた。
「その制服、着てな」
数十分後。
ワゴン車は、一定の速度で走り続けていた。
窓の外には、整備された道路と、無機質な建物の列が流れていく。
赤羽葉子は後部座席で、シートに深く座り、隣のリリをちらりと見る。
特に話題もなく、エンジン音とタイヤの走行音だけが車内を満たしていた。
しばらくしてから――
赤羽は、思いついたように口を開く。
「……私さ」
一瞬間を置いて、
「大学、行こうと思ってて」
リリは前を向いたまま、軽く頷く。
「ふーん」
赤羽は続ける。
「でもさ……」
少し困ったように笑って、
「勉強って、やっぱり――めんどくさいもんじゃないですか」
率直すぎる問いだった。
リリは、即答する。
「別に、めんどくさくない」
淡々と。
すると、運転席に座っていた女性教官が、バックミラー越しにちらりと赤羽を見て言った。
「碧星院の生徒たちは、みんな勉強できんのよ」
追い打ちだった。
赤羽は、むっとした表情で顔を背ける。
「悪かったですね。勉強嫌いで……」
ふてくされた声。
車内に、少しだけ気まずい空気が流れる。
教官はハンドルを握ったまま、少し考えるように黙り込んだあと、ぽつりと呟いた。
「うちに、めちゃくちゃ勉強好きな子、いるのよね」
赤羽が、ちらっとミラーを見る。
教官は、記憶を辿るように続ける。
「なんだっけ……」
「勉強が自分の人生に本当に大事だと思ってないから、勉強が嫌になる」
「飯食ったり、寝たりするのは、生きる上で必要だから、みんな欠かさないのと同じで……」
そこまで言って、少し間を置く。
赤羽は、完全に説教モードだと思ったのか、
「はいはい……」
肩をすくめて、少し縮こまる。
だが、教官はすぐに言い添えた。
「別に、先生として言ってるんじゃないからな」
ミラー越しに目が合う。
「生徒で、そう言ってる奴がいるって話」
それだけ言って、再び前を向いた。
車は変わらぬ速度で走り続ける。
赤羽は黙ったまま、窓の外を眺めながら、さっきの言葉を頭の中で転がしていた。
赤羽は窓の外から目を離さないまま、眉をひそめてぼそっと呟いた。
「……そんな、何でもかんでも先生の言いなりで」
一拍置いて、
「楽しいですか?」
機嫌の悪さを隠す気もない声だった。
すると、運転席の教官は苦笑混じりに返す。
「言いなりなら、むしろ嬉しいんだけどな……」
その言い方が妙に現実的で、
後部座席のリリが思わず吹き出した。
「ふっ……」
肩を揺らしながら、面白がるように続ける。
「でも、そいつさ」
「パジャマで、学校の中うろついたりするんだよね」
赤羽の顔が、ゆっくりとこちらを向く。
「……え?」
目を見開いて聞き返す。
「パジャマ……?」
「パジャマって、あの……?」
信じられない、という顔。
教官はため息混じりに頷いた。
「そう、寝間着だよ」
「学内は、まあ……百歩譲っていいとして」
ハンドルを握り直しながら続ける。
「それで、たまに外もほっつき歩くから困るんだよ」
赤羽は言葉を失う。
「……」
教官はふと思い出したように、顔をしかめた。
「……世怜女の研修。流石に、着替えて行ったよな……?」
その問いに、リリは即答だった。
「それ、叶さんからも言われた」
面倒くさそうに、窓の外へ視線を流す。
「行きましたよ……ちゃんと」
車内に、なんとも言えない沈黙が落ちる。
ワゴン車の窓越しに、遠くの景色がゆっくりと流れていく。
コンクリートとガラスでできた、ひときわ大きな施設が視界に入ったところで、リリがふと口を開いた。
「……ねえ」
フロントガラスの向こうを見つめたまま、
「みんな、むぎちゃんのこと……妖怪か何かだと思ってない?」
少し冗談めいた調子だったが、どこか本気も混じっている。
「先生も……叶さんも」
運転席の教官は、首を横に振りながら苦笑した。
「いやあ……」
「勉強はできてもさ」
ハンドルを切りつつ、
「あれで歩かれちゃなあ……」
ため息まじりに、ぼそっと続ける。
「……今度、ビジネスマナー研修にでも行かせるか」
完全に独り言だった。
それを聞いて、リリは小さく笑う。
「大丈夫ですよ」
少し楽しそうに、
「この前は、ちゃんと制服着て行きましたから」
車内の空気が、ほんの少し和らぐ。
――が。
後部座席でそれを聞いていた赤羽が、ぴくりと反応した。
「……この前、は?」
声は穏やかだが、
やけに引っかかる言い方だった。
赤羽は、ゆっくりとシートに背中を預けながら、
心の中で思った。
……碧星院、自由すぎない?
だが同時に――そんな人間が、当たり前のように、この“危険な場所”で生きているという事実が、妙に引っかかってもいた。
ワゴン車は、変わらぬ速度で走り続ける。
赤羽の中で、Σという組織の輪郭は、
少しずつ、しかし確実に――
“異常な日常”として形を持ち始めていた。
同じ日の昼過ぎ。
コンビニの店内は、昼休みのピークを少し過ぎた時間帯で、
客足もまばらだった。
雑誌コーナーの前に、ひとり――
栗色の髪をしたパジャマ姿の少女が立っている。
ゆるいシルエットのパジャマ。
寝癖を軽く整えただけのような髪。
その姿はどう見ても「外出用」ではないが、
本人はまるで気にしていない様子だった。
紐で縛られている雑誌を、じっと眺めながら、
小さく口を尖らせる。
「……最近さぁ」
気の抜けた、どこかぼそぼそした声。
「立ち読みも、させてくれないもんなぁ……」
表紙をぺし、と軽く指で叩き、
興味と諦めが半々の視線を落とす。
しばらくそのまま動かず、
悩むようにポケットに手を突っ込み、財布を取り出す。
中身を確認して――
ほんの一瞬、考え。
「……やめとこ」
あっさり結論を出し、
雑誌コーナーから離れた。
その頃、コンビニの外は少し騒がしい。
ガラス越しに見えるのは、
服装がやたら派手で、社交的そうな金髪の男性。
どうやら、
大人しそうな女性に声をかけては、
あの手この手で外へ連れ出そうとしているらしい。
身振り手振りが大きく、距離も近い。
少女はその光景をちらっと見て、
目を細める。
「……うわぁ……」
感情の乗らない、正直すぎる反応。
レジでコーヒーをひとつ買い、
イートインコーナーへ。
椅子に座ると、
目の前の机にコーヒーを置き、
そのまま――
ぱたんと突っ伏した。
頬を腕に押し付けたまま、
視線だけを横にずらして、外の様子を見る。
「……めんど……」
小さく、心底煩わしそうに呟く。
大人しそうな女性は、金髪の男性から距離を取ろうとしていた。
一歩下がり、視線を逸らし、曖昧に笑ってはいるが――
相手はそれを「脈あり」とでも思っているのか、距離を詰めるのをやめない。
「いや、その……今日は……」
女性が身を引こうとした、その瞬間。
「……はぁ」
間の抜けた、やる気のない溜め息。
コンビニの自動ドアが開き、
パジャマ姿の栗色の髪の少女が、のそのそと外へ出てきた。
状況を一瞥するなり、
面倒くさそうに首を傾ける。
「……なにやってんの、これ」
そして、何の躊躇もなく女性の横に並び、
やけに親しげな声で話しかけた。
「お姉ちゃんさ」
きょとんとする女性を見上げて、
「このお兄さん、誰?」
質問の形ではあるが、
返答を待つ気は最初からない。
間髪入れず、男性の方を見ずに続ける。
「今日、一緒にお出かけだって言ったじゃん」
女性の手首を軽く取って、
「ほら、早く行こ」
そのまま、自然な動作で男性との間に割り込み、
女性を引き剥がす。
「え、ちょっ――」
金髪の男性が慌てて声を上げるが、
少女は一切振り返らない。
女性を連れて、
そのまま歩き去る。
男性は一瞬、追おうとしたものの、
パジャマ姿で堂々と人を連れ去る少女を見て、
何かを察したのか、それ以上は動かなかった。
少し離れたところで、
女性は足を緩め、少女の方を見る。
「あの……」
控えめな声。
「……ありがとうございます……」
少女は、歩きながらちらっと横目で女性を見る。
「んー?」
気の抜けた声。
「別に」
コーヒーの紙カップを揺らしながら、
「なんか、見ててめんどかっただけだよ」
そう言ってから、
少しだけ間を置き、付け加える。
「……ああいうの、放っとくと長引くし」
女性は、その言葉に小さく笑って、
改めて頭を下げた。
少女はそれを見て、ほんの少しだけ眉を動かす。
「……まあ」
「無事なら、それでいーんじゃない」
人通りの少ない住宅地へ入ると、周囲は一気に静かになった。
整然と並ぶ家々、低い塀、剪定された生垣。遠くで犬の鳴き声が一度だけ響く。
女性は、何度か後ろを振り返りながら歩き、やがて足を止めた。
「あの……」
様子を窺うように、控えめに声をかける。
「もう……大丈夫なので……」
その言葉に、少女は立ち止まる。
振り返らない。間も、躊躇もない。
次の瞬間――服の内から、隠し持っていた拳銃が滑るように現れた。
乾いた音が、住宅地に短く弾ける。
女性は何も言えず、その場に崩れ落ちた。
少女は一歩も近づかず、倒れたのを確認すると、
何事もなかったかのように拳銃を収める。
代わりに、スマホを取り出す。
画面を見ながら、気の抜けた声で通話を繋ぐ。
「お疲れ様〜」
軽い調子のまま、
「終わったから、清掃班出しといて〜」
通話を切ると、スマホをポケットに戻す。
倒れた女性を振り返ることもなく、
少女はそのまま踵を返し、住宅地の奥へ歩いていった。
碧星院高校――叶の部屋。
外の光を抑えた室内は静かで、
整然とした机と、最低限の家具だけが置かれている。
ソファにだらりと腰掛けているのは、パジャマ姿の栗色の髪の少女――家長むぎ。
手元には、数枚の書類。
先ほどまで“街にいた”人物の経歴が、無機質な文字で並んでいる。
むぎはそれをぱらぱらとめくりながら、
のんびりした声で叶に話しかけた。
「にしても……」
興味半分、退屈半分。
「この人、本当にまだいたんですね〜」
ページを一枚めくり、
「さっさと海外に逃げれば良かったのに」
まるで、
「期限切れの食品を見つけた」くらいの温度感だった。
机の前に座る叶は、
パソコンの画面から目を離さずに応じる。
「これで……」
独り言のように、
「アゾートの関係者は、だいぶ処分できたか」
キーボードを数回叩き、
「……あとは市場に流通していなければ」
「大体、片付いたことになるけど……」
言葉を切り、ふと視線を上げる。
そして、ソファのむぎを見る。
「……家長さん」
少し間を置いてから、
「前から思ってるんだけどさ……」
眉間に、はっきりと皺が寄る。
「その服で行くの…仕事、ちょっとナメすぎじゃないかな……」
パジャマ姿のまま、
平然と“現場”に行くことへの、率直な苦言。
むぎは、それを聞いて顔をしかめた。
「……めんどくさい……」
心底嫌そうに、ぽつり。
その反応に、叶は溜め息をつき、
今度は完全に彼女の方を見る。
「お前……」
声が少し低くなる。
「そのうち、マジで死ぬぞ……」
冗談ではない、
けれど怒鳴りもしない、
本気の心配。
むぎはソファの背もたれに頭を預け、
天井を見上げたまま、特に返事はしなかった。