倉庫のような巨大な建物。
天井は高く、無機質な照明が均一に床を照らしている。金属とコンクリートの匂いが混じった、ひどく“管理された”空気だった。
受付カウンターの前に、赤羽と夕陽リリは並んで立っている。
カウンター越しにいるのは、黒い軍服姿の女性職員。
無駄のない動作で、小さなケースからUSBを取り出し、静かにカウンターの上へ置いた。
「こちらが——」
その瞬間。
赤羽は反射的に、
「は、はい……」と手を伸ばしかける。
が。
「——触らないでください」
冷静で、感情の乗らない声。
女性職員は、赤羽の指が触れるよりも早く、USBをすっと引き下げた。
「こちらで、専用の端末をご用意します」
それだけ言うと、踵を返し、席を外す。
残されたのは、
広すぎる受付と、取り残された二人。
「え……えっと……?」
赤羽は、伸ばしかけた手を宙に残したまま固まる。
「な、なんか……すみません……?」
何に対して謝ればいいのかも分からず、視線が泳ぐ。
その横で、リリは深いため息をひとつ。
「……バカ」
短く、容赦なく。
そして、ぽん、と赤羽の肩を叩いた。
「そういうのはね」
低い声で続ける。
「勝手に触るもんじゃない」
赤羽は肩をすくめ、気まずそうに小さく頷く。
倉庫の一角に設けられた、簡易的な休憩所。
金属製のテーブルと椅子、壁際に並べられた自販機。
その一角に置かれた業務用のパソコンの前に、赤羽は腰を下ろしていた。
画面には、すでにUSBが挿入された状態でエクスプローラーが開かれている。
――ずらり。
何十個ものファイル。
英数字の羅列、意味の分からない単語、拡張子も統一されていない。
「……うわ」
赤羽は思わず声を漏らす。
「なんか……想像してたより、普通……?」
その隣で、腕を組んで立っていたリリが、画面を顎で示した。
「下から三番目」
淡々と。
「それが、Clione.exeだよ」
赤羽は言われた通り、下へスクロールし、
該当するファイルに視線を落とす。
――だが。
「……あれ?」
眉をひそめる。
「なんか……名前、違くないですか?」
そこに表示されているファイル名は、
Clione.exeとは似ても似つかない、無機質な文字列だった。
リリは、少しだけ口角を上げる。
「そりゃそう」
「Clione.exeなんてのはさ」
軽く肩をすくめて、
「ただの“都市伝説好き”が勝手につけたあだ名だよ」
赤羽が、息を止めたまま聞いているのを確認して、続ける。
「実際のところ……」
「使う人間からしたら、本当の名前なんて要らない」
「付けなくても、困らないしね」
画面に映る、名もなきファイル群。
それらはどれも、
“誰かが使うためだけに存在しているもの”に見えた。
リリは赤羽の肩越しに画面を確認して、小さく頷いた。
「これで大丈夫」
落ち着いた声。
「インターネットで、普通に検索サイト開いて」
赤羽は一瞬、目を瞬かせる。
「え……普通のサイトでいいの?」
キーボードの上で指が止まったまま、慌てて聞き返す。
リリは気にした様子もなく答えた。
「もうアプリは立ち上げたから」
「違法サイトまで、全部開ける状態になってる」
赤羽が思わず息を呑む。
「……なにそれ……」
リリは画面を見つめたまま、淡々と続けた。
「言わばね」
「違法に作られた“マスターキー”みたいなもん」
「そのUSBは」
冗談めかした言い方なのに、内容は笑えない。
「だから、あとは普通に操作すればいい」
そして、短く指示する。
「wormhole 3.8って検索して」
赤羽は喉を鳴らし、緊張したままキーボードに指を置く。
(……落ち着け、落ち着け……)
カタ、カタ、と音がして、
検索ワードが入力される。
エンターキー。
画面が切り替わり、
いくつかの検索結果が一覧で表示された。
聞いたことのないドメイン名。
無意味そうな英数字の羅列。
どれも、普通のネット検索とは明らかに雰囲気が違う。
「……出た」
赤羽の声は、少し上ずっていた。
その瞬間、リリが一歩前に出る。
「ちょっと貸して」
返事を待たずに、
赤羽の手元からマウスを取る。
スクロールホイールが静かに回り、
検索結果が一つ、また一つと流れていく。
リリは無言で、それらを見比べていった。
リンク先の簡単な説明文。
不自然に曖昧な表現。
逆に、やけに具体的すぎる単語。
休憩所の中は静まり返り、
聞こえるのは、ファンの低い駆動音と、
マウスを動かす小さなクリック音だけ。
赤羽は、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえるのを感じながら、
画面の端に表示される文字列を、ただ見つめていた。
リリは無言のまま、リンクを一つ、また一つと踏んでいった。
ページが切り替わるたびに、表示されるレイアウトは微妙に変わり、
言語も、文字コードも、統一感がない。
赤羽はただ画面を見つめているだけで、
自分が今どこにいるのかすら、よく分からなくなっていた。
やがて、リリの指の動きが止まる。
「……ここだね」
表示されたサイトは、赤羽の想像していた“闇市場”とは少し違っていた。
派手な商品一覧もなければ、
値段やカートの表示もない。
代わりにあるのは――
どこか怪しい雰囲気の生配信のサムネイル。
SNSのように、画像だけが無造作に貼られている投稿欄。
そして、外国語ばかりの短いやり取り。
英語でも、日本語でもない文字列が流れ、
赤羽には、内容のほとんどが理解できなかった。
「……えっと……」
戸惑いながら、画面を眺める。
リリは、貼られている画像を一つずつ開いていく。
――路地裏の写真。
――室内の一角を写しただけの画像。
――プラスチックのおもちゃのアップ。
一見すると、
本当にどうでもよさそうな画像ばかりだった。
赤羽は、思わず気の抜けた声を出す。
「なんか……」
「ちょっと、拍子抜けですね……」
緊張していた分、余計にそう感じたのかもしれない。
だが、リリは表情一つ変えず、淡々と返す。
「そりゃそう」
マウスを操作しながら、
「詳しい取引は、クリックした後でやるから」
「いきなりドラッグとかの画像、貼ったりはしないよ」
涼しい顔だった。
赤羽は、その言葉を聞いて、
自分の認識が甘かったことを思い知らされる。
「……あ」
小さく肩を落とし、
「すみませんでした……」
しゅん、と萎れたような声。
リリはそれ以上何も言わず、
ただ淡々と画像と投稿を見続けている。
リリは、マウスを動かしながら小さく息を吐いた。
「……ふーん……」
肩の力を抜いたまま、淡々と読み進めている。
赤羽はその横で、顎に手を乗せ、少しつまらなさそうに画面を眺めていた。
(……難しい文字ばっかりだし……)
(正直、何が重要なのか全然わかんない……)
そんなことを考えていた、その時。
リリの指が――止まった。
スクロールが止まり、画面が静止する。
さっきまでの流れ作業のような動きが、ぴたりと消える。
赤羽は、その変化に気づいて首を傾げた。
「……?」
数秒待ってみるが、リリは動かない。
「……先に、進まないんですか?」
恐る恐る声をかける。
それでも、返事はない。
代わりに、リリが小さく呟いた。
「……なるほど……」
さらに、独り言のように。
「……いや、これは……ひょっとすると……?」
その声色は、
さっきまでの淡々としたものとは明らかに違っていた。
リリはそのまま、席を立ち、
休憩所の壁に備え付けられた受話器を取る。
ダイヤルも確認せず、慣れた手つきで繋ぐ。
「……今、時間いい?」
短く要点だけを伝える。
「うん……そう」
「このページ、開いたままにしておくから」
「一回、見てもらえませんか?」
それだけ言って、通話を切った。
受話器を戻す音が、やけに大きく響く。
リリは赤羽の方を見て、簡潔に言う。
「……もう行くよ」
立ち去る準備をするその背中に、赤羽は慌てて声を上げた。
「えっ!?」
「もう良いんですか!?」
椅子から半分立ち上がり、
「も、もしかして……」
「ドラッグ、見つかったとか!?」
期待と不安が入り混じった声。
リリは歩きながら、振り返りもせずに答える。
「詳しいことは、後ね」
それだけだった。
赤羽は慌てて席を立ち、
画面に映る“何が引っかかったのか分からないページ”を一度だけ振り返る。
……え?
今の、そんなに大事なものだったの……?
「……見つかったんですか?」
倉庫の廊下を歩きながら、赤羽は思わずそう聞いた。
少しだけ、期待が混じっていたのかもしれない。
自分がここまで来た意味が、形になることへの。
だが、リリはあっさりと答える。
「いや? 全然」
歩調も変えずに、
「多分、あのサイトにあのドラッグ自体はないね」
赤羽は一瞬、言葉に詰まる。
「……あ」
じゃあ、あれは何だったのか。
自分が見ていた時間は、何だったのか。
そんな気持ちが顔に出る前に、リリは続けた。
「でも」
少しだけ、声のトーンが変わる。
「ちょっと、やらなきゃいけない仕事は見つかったから」
「その話」
それ以上は、言わない。
そして、不意に足を止めて、赤羽の方を見る。
「で……」
一瞬、間を置いてから、
「葉子先輩の仕事は、これで終わりだよね」
赤羽の胸が、きゅっと縮む。
「この後は、駅まで送るから」
穏やかな声で、
「葉子先輩は、もう帰っていいよ」
そう言って、
リリはいつものように、軽く笑いかけた。
その笑顔が――
赤羽には、やけに遠く感じられた。
(……あ)
胸の奥で、何かがすとんと落ちる。
一気に、突き放されたような感覚。
自分はここまでで、
これ以上は関わる側じゃないと線を引かれたような。
不快感、というほど強くはない。
けれど、確かに――居心地が悪い。
……私、ここまで来たのに
同時に、別の思いも湧いてくる。
そもそも……
私が、ここから先に関わっていい話なのかな……
殺し。
処分。
Σの仕事。
自分が踏み込める場所なのか、
踏み込むべきだったのか。
分からない。
分からないからこそ、
このまま「はい、終わり」と言われるのが、
やけに、もどかしかった。
車内には、エンジン音とタイヤが路面を噛む低い振動だけが流れていた。
窓の外では、夕方に向かう街の景色が、途切れ途切れに後ろへ流れていく。
赤羽は、しばらく黙ったまま外を見ていたが――
意を決したように、口を開いた。
「あの……」
その瞬間、リリは視線を前に向けたまま、先に言葉を切る。
「やめときな」
声音は静かだが、はっきりしている。
「流石にね」
「非戦闘員をかついで、戦場に出ていくわけにはいかない」
それは拒絶であり、
同時に、守るための線引きだった。
だが、赤羽は引かなかった。
リリの方を向き、真剣な眼差しで見つめる。
「……私、嫌ですよ」
声は震えていない。
「前も言いました」
「リリさんが、こんなことをしてしか生きられないなら」
一度、言葉を選ぶように間を置き、
「それは、きっと間違ってます」
リリの眉が、わずかに動く。
赤羽は続けた。
「でも……」
「叶君を、憎む気にもなりません」
リリが、ほんの少しだけこちらを見る。
「話を聞いてもらって」
赤羽は、まっすぐ前を見据えたまま言った。
「私……あの人が、温かい人だって分かりましたから」
車内に、短い沈黙が落ちる。
やがて、リリが半目で赤羽を見る。
「……何する気なの」
低く、探るような声。
その問いに、赤羽は一瞬も迷わなかった。
目を見開き、
赤と緑のオッドアイが、はっきりと光を帯びる。
「私が……リリさんの」
息を吸い、
「騎士様の……目になります」