夜中。
エンジンを切ったワゴン車の中は、静まり返っていた。
街灯の光が、フロントガラスを淡く照らし、車内に長い影を落とす。
学院にいる叶は、電話越しに低い声で告げる。
『……あの関係者が、なんで都内にいたか分かったよ』
赤羽は、後部座席でじっと前を見据えたまま、黙って聞いている。
『そいつと、かなり親しい仲の男が来日してた』
短い間。
『ターゲットは――カール・マッカートニー』
叶の声は淡々としていた。
『各地でロマンス詐欺をやってる悪党だ』
『本命の女性に貢ぐ金を、その詐欺で稼いでる』
電話の向こうで、キーボードを叩く音が微かに混じる。
一方、別の回線。
無線が短く鳴り、リリの声が入る。
「着いたよ」
ワゴン車の外、現場にいる気配だけが伝わってくる。
「……スナイパーも、斥候も付けてない」
一瞬の沈黙のあと、確かめるように続ける。
「それでも、本当に――」
「その車の中から、人の位置が全部分かるんだね」
赤羽は、ゆっくりと息を吸った。
暗い車内で、
赤と緑のオッドアイが、はっきりと光を帯びる。
無線のスイッチを押し、静かに告げる。
「……始めるよ」
その一言は、宣言だった。
夜の静寂の中、
誰にも気づかれないまま、
作戦は――確かに、動き出そうとしていた。
ワゴン車の中。
暗い車内で、パソコンの画面だけが赤羽の顔を照らしている。
画面には、建物の簡易マップと、複数の反応点。
それらは、赤羽の視界の中で“意味”を持って並んでいた。
「……後ろ」
赤羽の声は、低く、感情がない。
「次……2時の方角に一人」
キーを叩く音もなく、ただ“分かること”を言葉にしていく。
「右は――爆弾で処理して」
無線の向こうで、
鈍い衝撃音。
肉体が倒れる、重く短い音。
続いて、金属音と爆発の余韻が、壁越しに歪んで伝わってくる。
『……どうなってるの……?』
息の荒れた、夕陽リリの声。
斬撃音が混じり、足音が途切れずに前へ進んでいく。
『索敵、いないはずなのに……』
赤羽は、画面から目を離さない。
オッドアイが、暗闇の中で確かに光っている。
「大丈夫」
落ち着ききった声。
「私……全部、わかるから」
その言葉に、ほんの一瞬だけ無線が沈黙する。
次いで、短く息を吐く音。
『……よくわからないけど』
リリの声は、迷いと覚悟が混じっていた。
『今は……信用するね』
そして、駆ける音が強くなる。
赤羽は、その背中を“見る”。
壁の向こう。
扉の向こう。
影になった死角の、そのさらに奥。
人の位置も、動きも、
これから起きる“結果”すら――
彼女の中では、すでに一本の線として繋がっていた。
銃声と金属音が、無線越しに断続的に混じる。
赤羽は画面から視線を逸らさないまま、ふと口を開いた。
「……でも」
一瞬の間を置いて、
「どうして、信じてくれたんですか」
キーに触れていない指が、わずかに強張る。
「ひょっとしたら……」
「ただの、厨二くさい高校生の嘘かもしれなかったのに」
無線の向こうで、リリが息を切らしながら移動している音がする。
赤羽は続けた。
「正直……」
「私は、ここに来るまで信じられませんでした」
低い声だが、迷いが滲む。
「同じくらいの年の子が」
「親元を離れて、こんな……危ない仕事をやらされてるなんて」
画面に映る反応点が、一つ消える。
「きっと……」
赤羽は、ほんの一瞬だけ言葉を詰まらせる。
「タチの悪い冗談だったら、良かったのにって」
「……そう、思ってたんです」
無線が、少しだけ静かになる。
リリは走りながら、短く息を整え、考えるように間を置いた。
「……そうだな」
刃が何かを切り裂く音が一つ。
「元々、今日は人が出払ってて」
「ほとんど誰もいなかったから」
淡々とした現実の説明。
「こんな無茶しなきゃ」
「みすみす、アゾートの関係者を見逃す羽目になってた」
それも理由の一つだ、と言外に含めて。
だが、次の言葉で、声音が少しだけ変わる。
「……でも」
一瞬、間が空いて――
リリは、戦場には不釣り合いなほど軽く笑った。
「強いて言えば、かな」
「それが――」
「先輩に対する、敬意だと思ったからだよ」
赤羽のオッドアイが、画面の光を反射する。
「……敬意?」
問い返す声は小さい。
無線の向こうで、リリは走りながら答える。
「そう」
「逃げなかったでしょ、先輩」
「怖がってたのに」
「分かんないままでも、ここまで来た」
一拍。
「それを、嘘だって切り捨てる方が」
「私は、嫌だった」
無線に、また足音が重なる。
赤羽は、しばらく黙って画面を見つめていたが、
やがて、小さく息を吐いた。
無線越しに、短い呼吸音が混じる。
リリは一拍置いてから、静かに切り出した。
「……目になってくれるって、言ってたよね」
赤羽は、画面から目を離さずに頷く。
「うん……言いました」
リリは前へ進みながら続ける。
「今、こうしていてくれるのも……もちろん助かってる」
刃が触れる音が、遠くで一つ。
「でも、それだけじゃなくてさ」
赤羽は、訳が分からないまま耳を澄ます。
「それを……してくれたら、嬉しい」
言葉を選ぶような間のあと、リリは言った。
「私たちはね」
「こうしていることでしか、生きることを許されてない」
その一言に、赤羽は思わず声を上げかける。
「そんなこと……!」
だが、リリは遮らず、淡々と続けた。
「だから」
「私たちが、こうして戦っていることを――覚えておいてほしい」
無線の向こうで、足音が止まり、また動く。
「どっかの誰かが」
「君たちが、何も考えずに楽しく過ごせるために」
「血のにじむ努力をしてるってことを、覚えていてほしい」
声は強くない。
けれど、揺るぎがなかった。
「そういう意味でも」
「私たちを……“見る目”になってくれると、嬉しい」
赤羽は、言葉を失ったまま画面を見つめる。
胸の奥に、重くて、でも温かいものが落ちてくる。
「……ズルいです」
困ったように眉を下げ、絞り出すように言う。
「そんなの……」
一瞬、言葉を探してから、小さく笑ってしまう。
「……やっぱり」
頬が、じわりと熱を帯びる。
「リリさんは……『騎士様』なんですね」
無線の向こうで、返事はない。
ただ、ほんの一瞬だけ――
歩調が、わずかに軽くなったような気がした。
階段を上がり切り、リリは息を整えながら奥へ進んでいく。
床にも壁にも、まだ新しい返り血が点々と残り、足音が不自然に響く。
突き当たり。
そこには、鍵付きの扉があった。
「……ここだよね」
手をかけた、その瞬間。
無線が、短くノイズを走らせてから、赤羽の声を届ける。
『……そこは、開けたらダメ……』
普段より、わずかに遅れた声。
リリは眉をひそめる。
「もう、この部屋しかないよ……?」
周囲を見回す。
「誰もいないのに……」
「こんなに、警備が厳重なの……?」
不自然だった。
人の気配はない。
だが、ここまで来るまでの抵抗は、明らかに“守っている”配置だった。
リリは、舌打ちする。
「……ごめん」
誰にともなく呟き、
力任せに扉をこじ開けた。
次の瞬間――
ブザー音。
甲高く、無機質な警報が鳴り響く。
「……え?」
理解が追いつかない。
反射的に、踵を返す。
だが――
振り返った先には、
銃を構えた敵の影。
距離は、近い。
「ちょ……ちょっと!」
声が裏返る。
考えるよりも先に、
身体が動いた。
目を強く閉じ、
床に転がるように受け身を取る。
――撃たれる。
そう思った、その瞬間。
銃声は、来なかった。
代わりに聞こえたのは、
湿った音と、何かが裂けるような、不快な衝撃音。
恐る恐る、目を伏せたまま、影を見る。
そこには――
無数の触手のようなものが、
壁や床の影から伸び、
銃を構えたはずの敵を、串刺しにしていた。
人の形は、すでに崩れている。
リリは、言葉を失ったまま、その光景を見つめる。
「……?」
理解できない。
見間違いだと、脳が否定する。
だが、影は確かに、動いていた。
リリは、その場で固まり、
しばらくの間――
本気で、自分の目を疑い続けていた。
リリが、恐る恐る顔を上げる。
さっきまで確かに“そこにいたはず”の敵の姿は――
どこにもなかった。
床にも、壁にも、
残っているのは破壊の痕跡だけで、
串刺しにされていたはずの影は、最初から存在しなかったかのように消えている。
「……?」
理解が追いつかない。
リリは無線を掴み、低く問いかける。
「今の……見た?」
一拍。
返ってきたのは、
やけに気の抜けた赤羽の声だった。
『え?
何の話ですか?』
「……は?」
思わず声が素になる。
だが、次の瞬間。
赤羽の声色が、明確に変わった。
『てか、マズいです!』
『さっきの部屋――
自爆スイッチです!』
リリの目が見開かれる。
『このままだと……
リリさん、ポン菓子になっちゃいますよ!』
「うわっ!?
そういうこと!?」
考える暇はない。
リリは即座に踵を返し、
全力で走り出す。
瓦礫を蹴り、階段を飛び降り、
出口へ向かって一直線。
走りながら、無線に怒鳴る。
「てかさ!」
「どうして、敵の位置が分かるの!?」
息を切らしながらの問い。
少し遅れて、赤羽の声。
『いやぁ……』
どこか照れたように、
『なんか……
私にできること、ないかなって思った時に』
『……こういうこと、できるの思い出しまして』
「……は?」
意味が分からない。
「いや、ちょっと待って――」
『説明、後でします!』
その言葉と同時に――
轟音。
建物の内部から、
すべてを押し潰すような爆風が走る。
「っ――!」
衝撃が、背中を殴りつける。
床が跳ね、壁が崩れ、
空気そのものが牙を剥く。
一瞬、甲高い声が響き渡ったような気がするが、気になど止めていられない。
リリの身体は、
ギリギリのところで建物の外へと叩き出された。
視界が反転し、
衝撃とともに地面を転がる。
背後で、建物が内側から膨れ上がり、
次の瞬間、炎と瓦礫が夜空へ噴き上がった。
耳鳴りの中で、
リリは仰向けのまま、荒い息を吐く。
(……生きてる)
炎に照らされた夜の中で、
リリはただ、天井だったはずの空を見つめていた。
走る車の中。
エンジン音が一定のリズムで響き、夜の街灯がフロントガラスを流れていく。
後部座席で、赤羽はシートに深く座り込んでいた。
さっきまで赤と緑に分かれていた瞳は、もう元の緑色に戻っている。
隣には、服も髪もところどころ汚れ、明らかにボロボロのリリ。
さっきよりも少しだけ、空気が緩んだ車内。
赤羽は、何度か口を開きかけては閉じ、
明らかに言いづらそうな顔でリリを見る。
「あの……」
その声に、リリは先に笑って返した。
「もう大丈夫」
シートに背を預けて、
「もう終わったんだよ」
作戦が、という意味でも。
今夜が、という意味でも。
だが、赤羽は首を横に振る。
「いや……」
冷や汗をかきながら、視線を逸らす。
「そうじゃなくて……」
一拍置いて、
ほとんど囁くような声で言った。
「……無線……壊れちゃった……」
リリの眉が、ぴくりと動く。
赤羽は、申し訳なさそうに続けた。
「建物……爆発した時……」
「私が叫んだら……」
それ以上は言わなかったが、
何が起きたかは想像に難くない。
リリは無言で、
赤羽のインカムを手に取り、軽く叩く。
――無反応。
(嘘だろ……)
チャンネルを切り替えても、
うんともすんとも言わない。
数秒。
リリは驚いたような、呆れたような顔で赤羽を見る。
「……あー……」
言葉に詰まりながら、
「大丈夫だよ……」
少し間を置いて、
「……多分……」
自信は、ない。
赤羽は、ほっとしたような、
それでいて全然安心しきれていない顔で頷いた。
「……ですよね……」
赤羽は、窓の外を眺めたまま、呑気に口を開いた。
「でも……」
少し間を置いて、
「誰もいませんでしたね……
カール……なんとかさん」
首を傾げ、
「……なんか、お腹空いてきました」
空気を読まない、いつもの調子。
リリは前を向いたまま、ふっと息を吐く。
「……名前」
ぼそっと。
「おやつの名前みたいだもんな……」
それから、自分の腹をさするように呟く。
「私も……腹減ってきたな……」
緊張が抜けたせいか、
車内には一瞬だけ、妙に平和な沈黙が流れる。
その時。
赤羽のスマホが、短く振動した。
画面を見る前に、
スピーカーから叶の声が流れる。
『あいつさ』
落ち着いた声。
『どうやら、護衛だけ置いて
一人で逃げたみたいなんだ』
リリの眉が、わずかに動く。
『恐らく……』
『ギリギリのところで、
あの女性が始末されたのに気づいたんだろう』
赤羽は、素直に聞いた。
「……追わなくて、いいの?」
一拍。
叶は、あっさり答える。
『心配ご無用』
声に迷いはない。
『今頃は……この世にいないよ』
赤羽は「ふぅん……」と小さく相槌を打つ。
続けて、叶はリリに向けて言った。
『今夜は、ちゃんと着せて行ったからな』
『お前も、変な心配するなよ』
リリは小さく舌打ちする。
「……誰のせいで、心配してると思ってんだよ」
だが、返事をする前に、
通話はそのまま切れた。
車内には、再びエンジン音だけが残る。
赤羽は、シートに身を沈めたまま、
ぽつりと呟いた。
「……とりあえず」
「帰ったら、何か食べたいですね」
リリは、疲れた声で答える。
「……同意」
夜の街を走る車は、
戦場から、日常へ。
まだ完全には戻れない二人を乗せて、
静かに、前へ進んでいった。
翌日。
いつもの事務所。
笹木はデスクに座り、パソコンに向かってカタカタとキーボードを叩いていた。
画面には、依頼人への返信メール。
> 「Clione.exe自体は、実在はしますが」
> 「その名称は、都市伝説系オタクが作った創作であり、実際にその名前で存在しているわけではありません」
> 「また、少し前に法執行機関によって規制されており、実物は“手に取れる形”では現存していません」
書き終えると、軽く伸びをして送信。
その様子を、横から森中がじっと覗き込んでいた。
「……また事実陳列罪?」
ぽそっと言われて、笹木はびくっと肩を跳ねさせる。
「それ、誰に聞いたんや!?」
振り返り、目を見開く。
「てか……お前の交友関係どうなっとるんや!」
指を突きつける勢いで続ける。
「あの騎士みたいな殺し屋と、
どうやって出会ったんや!?」
森中はきょとんとした後、少し考えるように視線を上に向ける。
「……リリちゃんのこと?」
笹木が黙るのを見て、あっさり続けた。
「いや……リリちゃんのお姉ちゃんと、私が仲良かったんだよね」
「名前、確か……」
思い出すように首を傾げた、その瞬間。
笹木がバン、と机を叩く。
「せや!!」
「お前、騎士だけやなかったな!!」
「夜見とも仲良かったんやろ!?」
腕を組み、露骨に顔をしかめる。
「やっぱりなぁ……あの女の知り合いなんて、ロクなやつおらんわ!!」
すると森中は、むしろ不思議そうな顔で返す。
「夜見さん達だけじゃないよ?」
笹木が固まる。
「ばねちゃんが言ってた……
むぎちゃんとも仲良いし」
指を折りながら、
「他にも、剣持と、ちーちゃんと……」
そこまで聞いた瞬間。
「お前……」
笹木の声が震え始める。
「お前、何者やぁぁぁ!!」
頭を抱えながら、半ば叫ぶ。
事務所には、
笹木の悲鳴と、
何事もなかったような森中の首を傾げる仕草だけが残っていた。