作中の森中花咲の過去の話でもあります。
本編投稿が無い日にちまちま更新します。
おまけ:生命の泉 1章
――加賀美家の二階。
葉加瀬と夜見が並んで腰かける部屋には、しんとした空気が漂っていた。けれど、その静けさを突き破るように下の階から甲高い声が響いてくる。
「ちょっとあなたっ! まさか本当に買ってきたなんて……!」
母親の声は悲鳴に近い。畳を踏み鳴らすような足音と共に続く。
「どうするつもりなのよ!? ご近所さんに何て言えばいいのっ!?」
その声に、葉加瀬は眉をひそめてため息をついた。
「……ねえ社長。まさか、誰にも言わずに買ったの……?」
呆れを隠しきれない視線を横に送ると、加賀美は肩をすくめ、視線を外して小さく返す。
「だ、大丈夫だよ……きっと……」
しかし、声の調子には自信がまるでない。そのまま落ち着かない様子で立ち上がると、加賀美は部屋を出て階段を下りていった。
やがて下から再び母親の声。
「ハヤトちゃん! どうするつもりなの……!? 本当に人間なんて……!」
切羽詰まった声音は、怒りよりも恐怖と混乱に近い。まるで「人間」という存在そのものが爆弾のように扱われているかのようだ。
階下では、母親が顔を紅潮させ、父親の胸ぐらを掴まんばかりに迫っていた。
「どう説明するつもり!? 隠しておけるわけないじゃない! 見られたら終わりよ!? “息子が人間を連れてきた”なんて、噂になったら一瞬で広まるのよ!」
「うちの子を犯罪者にする気なの!?」
声が震え、息が荒い。父親は腕を組んで黙り込んでいるが、明らかに押されている。
その騒ぎを上の部屋で聞きながら、葉加瀬は大きく肩を落とした。
「はぁ……ほんと、何やってんの」
呆れと疲労が入り混じった声音。
一方、夜見はベッドに寝転んだまま、片手で髪を弄びながら小さく笑う。
無責任とも、確信めいた皮肉ともつかないその言葉に、部屋の空気はさらに奇妙な静けさを帯びていった。
「大丈夫だよ。多分」
数日後――。
葉加瀬と夜見は、まだ新しい布の匂いがする小学校の制服に身を包んでいた。背中に背負わされた真新しい赤いランドセルを何度も肩から下ろしては、また背負い直し、目を輝かせていた。
「おぉ……!」
彼女の声は半分感動、半分研究対象を前にした学者のような響きだった。
その感想は、何年も囚人服に身を包み、冷たい鉄の足枷と鎖の重みだけを背負ってきた彼女の実感だった。硬くて窮屈な布と、足に擦りつく鉄の冷たさしか知らなかった日々。今、肩にかかる重みは同じでも、それは「自由」を背負っているように思えた。
一方、夜見は同じ制服を着ながらも、足元でスカートを軽く揺らし、ため息混じりに「ふーん」と相槌を打つだけ。興味がないのか、退屈そうな様子を隠そうともしない。
そこへ加賀美の母親がやって来て、二人を見つめながら深々と頭を下げた。
「ごめんなさいね……うちのハヤトが勝手なことしたばっかりに……」
声にはまだ不安と罪悪感がにじんでいる。
続けて、母親は困ったように笑って言葉を継ぐ。
「それに……女の子なんて育てたことなくて……何も分からなくて……」
夜見はその言葉を聞いて、母親の目をまっすぐ覗き込んだ。少しだけ口角を上げ、まるで遊び半分のように軽い声で突っかかる。
「でも、埼玉の方の親戚には女の子もいるんだよね〜」
言われた母親は一瞬きょとんとした後、驚いたように目を見開き、ぱっと笑顔になった。
「あら!なんでも知ってるのね! 本当に賢い子! 将来は探偵さんかしらね」
そう言って、母親は夜見の頭を優しく撫でた。夜見は予想外の反応にむっとして唇を尖らせる。
「……おばさん、つまらない」
唇を尖らせ、つまらなそうに目を逸らす。思惑が外れたその表情は、子供の拗ねた顔に見えるが、内側には苛立ちと冷めた失望が渦巻いていた。
軽く頬を膨らませる彼女に、母親はなおも「かわいいわね」と笑っていた。
――小学校の応接室。
窓から差し込む朝の光が机の上に白く広がり、その正面に葉加瀬は座っていた。制服の襟を少し指でいじりながら、視線は机の木目に落とされている。
目の前の椅子には、ワイシャツ姿の男性教師。柔らかい眼差しで微笑みを浮かべながら、姿勢を正して口を開いた。
「はじめまして。担任の江崎と申します。理科も担当しているので、わからないことがあったら、何でも聞いてくださいね」
その声は生徒を安心させるためのものだったが、葉加瀬は顔を上げることなく、気のない返事を返す。
「……ふーん」
数秒の沈黙のあと、不意に口を開いた。
「……先生、ロボトミー手術についてどう思う?」
唐突な言葉に空気が揺れた。江崎は一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐに穏やかに頷き、続きを促すように黙って聞いた。
葉加瀬は、薄い笑みを浮かべて言葉を続けた。
「興味あるんだよね……。だってさ、脳の前頭葉を切り離すだけで、暴力的な患者とか、制御不能な人間が“おとなしく”なるんだよ。まるで人形みたいにね」
彼女の声は冷ややかで、感情よりも実験的な興味で満ちていた。
「昔の精神病院でさ、氷のピックを目の奥から突っ込んで、ぐりぐりってやるだけで“治療”って言われてたんだよ。患者は泣き叫ぶこともあるけど……結果的には静かになる。
倫理的には最悪だけど……医学の歴史ってそういう“失敗”から進歩してきたんだと思うんだ。抗精神薬が発展したのも、ロボトミーが行き詰まったからでしょ? “人を壊すことで得られた知見”って、すごく面白いよね」
机に組んだ両手を置きながら、瞳はどこか冷たく輝いている。
「それにね、あの時代の医者たちは、本気で“正しいことをしてる”って思ってた。倫理なんかより、“結果”を重視してたんだよ。人を無理やり大人しくさせる方法を、真剣に探してた。……それって、人間の医学の本質に近いんじゃないかな」
――淡々と、冷酷な好奇心に基づく言葉。
一通り話し終えた葉加瀬は、教師が眉をひそめたり、引いたりするのを想定していた。だが江崎は、真剣な眼差しでしっかりと聞き入っていた。
やがて彼は、ゆっくりと頷きながら言葉を返した。
「なるほど……確かに現代の医学は、倫理観をとても重視する傾向がある。でもね、そういう新しい視点で過去を見直すことは大事なんだ。君のように“違う角度”から考えられる子の意見は、先生にとっても勉強になるよ」
穏やかな笑顔。拒絶も否定もない。むしろ尊重する態度。
その瞬間、葉加瀬の表情が固まった。
「……は?」
予想外の反応。
自分の冷酷な興味が、ただ“子供の斬新な意見”として受け止められたことに、彼女の思考が一瞬止まった。
応接室に広がった静寂の中、葉加瀬は小さく眉をひそめ、教師を凝視したまま言葉を失っていた。
――応接室の空気は、不思議な熱を帯び始めていた。
江崎は葉加瀬の目をしっかりと見つめ、少し身を乗り出して語り始めた。
「確かに、“脳の一部を切り取る”って聞くと、今の時代だと倫理的に問題があるように思うよね。でもね、それだけじゃないんだ」
江崎は指を組み、声に熱をこめて続けた。
「たとえば……野口英世って聞いたことあるかな? 日本の有名な研究者なんだけど、彼は梅毒っていう病気が脳にまで広がった患者さんの手術にも挑戦していたんだ。梅毒って、当時はとても恐ろしい病気で、脳に入り込むと、幻覚を見たり、感情が壊れたりすることがあった。
それを野口は、“脳の病気なんだ”っていう視点から研究して、実際に治療しようとしたんだよ」
江崎の声は、まるで理科室で実験の話をするときのように生き生きとしていた。
「つまりね、“脳にメスを入れる”っていうのは、人を壊すためじゃなくて、本気で救おうとする試みでもあったんだ。外科手術に興味があるなら、そういう歴史を調べてみるのも面白いと思うよ」
葉加瀬は、その言葉に目を瞬かせた。
「……へぇ」
小さな声を漏らしながら、机に置かれた手をじっと見つめる。
――医学雑誌で最新の研究論文には目を通してきた。新しい治療法、最新の手術ロボット、人工知能による診断支援……。
だが「歴史的な研究」という切り口には、ほとんど触れてこなかった。
「たしかに……歴史から見たら、ただ“失敗”って思ってたことも……別の意味があったのかも」
小さな独り言のように呟いたあと、少し顔を上げて江崎を見つめる。
「それに、倫理を無視してでも試したからこそ、今の医学がある。そう考えると……過去の“異常”って、案外、面白いのかもね」
その眼差しには、冷酷な好奇心とは別に、純粋な探究心がちらついていた。
江崎は満足そうに頷き、さらに続きを話そうと口を開いた、そのとき――
「江崎先生……そろそろ教室に行っていただきたいのですが……」
呆れた様子の教頭がドアのところに立っていた。腕を組み、じろりとした視線を送っている。
江崎は「あっ」と声を漏らし、時計を慌てて確認すると、申し訳なさそうに頭を下げた。
葉加瀬は思わず小さく笑い、椅子の背にもたれて肩をすくめる。
黒板の前に立つ江崎は、にこやかにクラスへ向き直った。
「さて、今日は新しいお友達を紹介します。葉加瀬さん、どうぞ前へ」
促されて、葉加瀬はゆっくりと前に進む。ぎこちない歩みでチョークを手に取り、黒板に 「葉加瀬 冬雪」 と丁寧に書きつけた。
「はい、自己紹介をお願いします」
江崎の声に、彼女はちらりとクラスを見渡す。子供たちの好奇心に満ちた視線が一斉に集まっていて、少し眉をひそめる。
「……葉加瀬 冬雪。よろしく」
淡々とした声。そこに愛想はほとんどない。
江崎が「趣味とかあるかな?」と水を向けると、葉加瀬は首をひねり、しばらく黙り込んだ。教室に微妙な沈黙が落ちる。
そのとき、後ろの席の女子児童が小さく囁いた。
「……好きな本とか」
葉加瀬はそれを拾い上げ、少し考えてから口を開いた。
「……最近読んだのは薬学雑誌。漢方エキスを含有した坐剤の研究とか……面白かった」
その瞬間、教室の空気は一拍遅れて凍りついた。
「ざ……ざざい?」
「なんだそれ……?」
子どもたちは顔を見合わせ、ぽかんとした表情を浮かべる。
けれど江崎だけは大きく笑って受け止めた。
「ははっ、さすがだな。葉加瀬は先生よりも頭いいからな! みんな、理科でわからないことがあったら、葉加瀬に聞くと良いぞ!」
すると、後ろの席から男の子が冗談めかして声をあげた。
「じゃあ先生のお給料、ちょっと葉加瀬ちゃんに渡さなきゃね!」
それをきっかけに、教室中がどっと笑いに包まれる。
笑いながら肩をつつき合う子もいれば、手を叩いてはしゃぐ子もいる。
黒板の前に立つ葉加瀬は、ぽかんとした顔でその反応を受け止めていた。自分の言葉が、いつのまにか冗談と笑いに変換されている――その感覚はまだ掴めず、ほんの少しだけ眉を寄せていた。
――けれど教室は明るくざわめき、その笑い声が新しい一日の幕開けを告げていた。
――休み時間。
教室の窓際、葉加瀬の周りには何人かの女子児童が集まっていた。
新しい転校生への興味からか、きらきらした視線が一斉に注がれる。
だが肝心の葉加瀬本人は、机に頬杖をついて、どこか退屈そうにその光景を眺めていた。
「葉加瀬さん、なんか興味あるものとかある?」
一人の女子児童が問いかける。
葉加瀬は目線だけで相手を見て、無造作に答える。
「最近は……解剖学」
子供らしからぬ答えに一瞬ざわつきが走るが、すぐに別の子が興味本位で質問を重ねた。
「前の学校には、どんな友達がいたの?」
葉加瀬は小さく鼻で笑い、淡々と口を開く。
「“早く逃げないと、ホルマリン漬けにされる”って言われてた」
その場にいた女子児童たちは顔を見合わせ、くすくすと笑いながらも首をかしげた。
「なんか変なの〜」
「よくわかんないけど、面白い」
――話が弾んでいるようで、どこか空回りしている。
その空気を、葉加瀬はじっと観察するように受け止めていた。
少し首を傾げ、考えるような仕草を見せた後で、不意に一人の子供を軽く手招きした。
「ちょっと、前に立って」
驚きつつも従ったその子を、自分の前に立たせる。
「力抜いて。リラックスしてね」
そう促すと、葉加瀬はその子の腕や肩に触れながら、落ち着いた声で解説を始めた。
「ここが肩関節。球状の骨が、ここのくぼみに収まってる。腕が動くのは、この仕組みのおかげ」
指先でなぞりながら、関節の可動域や仕組みを子供にもわかるよう丁寧に説明する。
次の瞬間――
「ほら、こうすると……」
葉加瀬は迷いのない動きで、その子の肩の関節を カチリ と外した。
「――――っ!?!?」
周囲の子供たちは、一瞬何が起きたのかわからず息を呑む。
外された子供は、痛みを感じるよりも先に腕の感覚が消えたことに驚き、ぽかんと目を見開いた。
だが葉加瀬は即座にその肩を押さえ、同じ滑らかさで カチリ と元に戻す。
「……はい、元通り」
外された子供は目を丸くし、恐る恐る腕を動かしてみる。痛みはない。いつも通りに動く。
「な、なに……今の……!?」
「えっ、すごい! どうやったの!?」
驚きと興奮が一気に爆発し、葉加瀬の周りは子供たちの大騒ぎに包まれる。
歓声と質問の嵐が飛び交い、先ほどまで静かだった教室の一角は、一瞬で小さな実験室のような喧騒に変わった。
葉加瀬はその中心で、腕を組んで子供たちを眺めながら、薄く笑みを浮かべていた。
ゆっくりと階段を降りながら、校庭へと続く窓の外に目をやった。陽射しに照らされる子供たちの喧噪は賑やかで、どこか浮ついて見える。
「……思ったよりも学校って暇だな」
小さくため息をつき、気怠げに踵を鳴らしながら下へ向かう。
ふと視線を横にやると、校庭の片隅に妙な輪ができているのが見えた。
数人の男子児童が半円を描くように立ち、その中央に――夜見。
近づいてみると、彼女の足元で蠢いているのは、かなり大きな毛虫だった。
夜見はしゃがみ込み、楽しそうにその小さな命へ語りかけている。
「いくら寝る子は育つだからって、こんな所で寝てると人間に見つかって殺されちゃうよ〜?」
無邪気な声に、男子たちが顔を見合わせる。
夜見は毛虫に指先をひらひらと向けながら続ける。
「寝るなら向こうの木の下で寝な〜」
すると――毛虫はゆっくりと身を翻し、まるで言葉を理解したかのように、校庭の隅に立つ木へと這っていった。
「……は?」「今、聞こえたのか……?」
男子児童たちは目を丸くし、声をひそめて互いに囁き合う。
「どうなってんだ……」
困惑の色を浮かべた視線が夜見へと集まる。
だが当の本人はそんな視線などまるで気にしない。
ひらりと立ち上がると、笑みを浮かべて男子たちに言い残した。
「また居たら教えてね〜」
そして輪を抜けると、ちょうど階段から出てきた葉加瀬を見つけ、ぱっと手を振った。
「あ、冬雪〜!」
元気に駆け寄ってくる夜見。
葉加瀬はその姿を見据えながら、内心で小さく舌打ちするような思いを抱いた。
……こいつ、こんな人の目に触れるところで
呆れと諦めの入り混じった眼差しを向けながら。