こちら、都市伝説研究センターです。   作:えいどら

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おまけ:生命の泉 2章

 葉加瀬は廊下をぶらぶらと歩いていた。

 昼休みが終わるまでの時間を持て余し、手をポケットに突っ込んだまま、靴音を響かせて進む。

 

「……暇だな」

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 

 だが、この学校の建物は、見れば見るほど退屈しない造りをしていた。

 木目の床は丁寧に磨かれていて、光沢がやわらかく反射している。

 白を基調とした壁には、児童たちが描いた絵が額に入れて並び、廊下の突き当たりには観葉植物が配置されていた。

 天井の照明はやや温かい色で、柔らかな明るさを保っている。

 空調の音すら静かで、どこかホテルのロビーのような静謐さがあった。

 

 階段の手すりは金属製で、指先が滑るように冷たい。

 窓は広く、外のグラウンドと青空を額縁のように切り取っている。

「……小学校って、結構広いんだな」

 初めて通う“学校”という場所に、葉加瀬は少し感心したように呟いた。

 

 私立の名門――という言葉を実感させる造りだった。

 理科室、音楽室、図工室、パソコンルーム、それに図書館の扉まで見える。

 どの部屋も、ただの教室というよりは研究室やアトリエのように整えられており、

「探索だけで退屈はしなさそうだな……」と、口元に小さな笑みを浮かべながら歩を進めた。

 

 ――と、次の瞬間。

 鼻をつくような、独特の“苦い薬品の匂い”が空気に混じった。

 

「……フェノール系? いや、ホルマリン……かな」

 思わず立ち止まり、目を細めて深く吸い込む。

 どこか懐かしいような、刺激のある匂い。

 葉加瀬はその匂いの先をたどるように、静かに歩き出した。

 

 廊下の突き当たり。

 扉のプレートには――【理科準備室】の文字。

 

 その隣のガラス越しに見えた瞬間、彼女の瞳がぱっと輝いた。

 中には、光を受けて白く立つ 人体模型 が一体。

 神経や血管まで精密に描かれた、ほぼ実物大のものだ。

 

「おぉぉ……!」

 思わず感嘆の声を漏らす。

 

 近寄ってガラス越しに顔を寄せ、目を輝かせたまま、ポケットから小さなメモ帳を取り出す。

「上腕骨の接続、すごい再現度……。この関節の軸角度、実物より僅かに広いな……」

 唇の端を吊り上げながら、まるで宝石を観察するように模型を凝視する。

 

 外の喧噪とはまるで別世界――

 葉加瀬冬雪の中で、“学校”という場所が初めて静かに輝き始めた瞬間だった。

 

 ――静まり返った廊下に、低い靴音だけが響く。

 

 理科準備室の前、葉加瀬はガラス越しに立ち尽くし、人体模型を熱心に観察していた。

 その白い塑像は、陽の光を受けて不気味に輝き、血管や筋肉の塗装がどこか生々しい。

 けれど、葉加瀬の瞳にはそれが美しく映っていた。

 

 そこへ、後ろの廊下を数人の児童が通りかかる。

 そのうちの一人が模型に気づき、ビクリと肩をすくめる。

 

「うわっ……まだ出てる……」

「え、あれ隠しといてって先生に言ったじゃん! なんでまだあんの!?」

「本当最悪……夢に出そう……」

 

 気持ち悪そうに顔をしかめながら、早足でその場を離れていく子供たち。

 その声を耳にしながらも、葉加瀬は視線を模型から外さなかった。

 

「……こんなの、隠しとくなんて、もったいないな」

 呟きは静かに、しかし確かな熱を帯びていた。

 

 模型の表面に指先をそっと滑らせるような仕草をしながら、

 骨の角度、筋肉の起始と停止、腱の走行――

 頭の中で構造を再構築するように、葉加瀬の目は淡々と動いていた。

 

 ――しばらくして、理科準備室の扉が「ガチャ」と開く音がする。

 中から出てきたのは、白衣を羽織った若い女性教師。

 何かを探していたようで、開けた瞬間、葉加瀬の姿を見て驚いたように目を見開いた。

 

「あっ……ごめんね、それ……」

 少し慌てた声で言いながら、教師は模型を指差す。

「部屋の整理で片付け忘れてて……怖かったでしょ?」

 

 しかし、葉加瀬は答えない。

 ただ静かに模型を見上げたまま、手に持ったメモ帳に何かを書き込んでいる。

 

 その様子に、教師は小さく笑みを浮かべた。

「怖がらずに見てくれる子がいると、この模型さんも喜ぶと思うわ」

 

 その言葉に、ようやく葉加瀬が視線を上げた。

「こういうのがあると、ありがたいですね」

 わずかに口角を上げて、淡々と続ける。

「流石に……生の人間捌くわけにはいかんので」

 

 ――空気が一瞬止まる。

 

 けれど、教師は眉一つ動かさず、柔らかく笑って返した。

「あら、本当に捌いたらダメよ? お巡りさん来ちゃうからね」

 

 冗談めかして軽くあしらいながら、教師は模型の胴体を支え、ゆっくりと準備室の中へ戻していく。

 

 廊下に再び静寂が戻る。だが、葉加瀬の瞳はまだ、模型の残像を追い続けていた。

 

 女性教師が模型を抱えて部屋の中へ戻ろうとしたその瞬間、葉加瀬ははっと顔を上げた。

「……って、違う!」

 

 彼女は自分がここまで来た理由を思い出す。

 ――薬品の匂い。

 フェノール、ホルマリン、エタノール……あの苦く懐かしい刺激臭。

 それを辿って来たのだ。模型に夢中になっているうちに、すっかり忘れていた。

 

 扉が閉まりかけるのを見て、思わず駆け寄る。

「先生、ちょっとだけ――」

 

 だが、女性教師はやわらかい笑みを崩さず、扉の前で軽く手を広げた。

「そろそろ授業が始まるから、また放課後にいらっしゃい。ね?」

 

 その声は穏やかだったが、拒否の余地はない。

 葉加瀬は小さく唇を噛み、明らかに不満げな顔を見せた。

「……はい」

 

 しぶしぶ踵を返し、廊下を歩いていく。

 その背中は大人しく見えるが、わずかに肩が落ち、足取りには不服の色が滲んでいた。

 

 ――と、その時。

 遠くの教室の方から、男子児童たちのはしゃぐ声が聞こえてきた。

 

「うちの父さん、会社の部長なんだぞ!」

「俺の父ちゃんなんて病院の先生!」

「えー、すげぇな! じゃあお金持ちじゃん!」

 

 その中の一人、少し小柄な男の子が口ごもるように言った。

「……うちの父さんは、配送の仕事してる」

 すると、周囲の子供がすぐにからかい始める。

 

「へぇ〜、荷物運び?」

 

「なんか俺たちでもできそう~」

 

「地味~!」

 

 明らかに見下す調子の声。

 

 その光景を遠くから見て、葉加瀬は一瞬足を止めた。

「……なるほど、こういうのもあるのか」

 目を細め、冷たく呟く。

「やっぱり温室で育ったオス人間は生意気になるんだなぁ……」

 

 次の瞬間、彼女はまっすぐ男子たちの輪の中へと歩み寄っていった。

 その小さな足音に気づいて、子供たちが顔を向ける。

 

 葉加瀬は表情を崩さずに、低い声で言った。

「ねぇ」

 彼女の声は柔らかいが、どこか冷えていた。

「私、お父さんもお母さんもいないんだけど」

 

 一瞬、男子たちが黙り込む。

 困惑と気まずさが入り混じる空気の中、葉加瀬は一人に歩み寄った。

 

「ねぇ、これ見て」

 

 スカートの裾を少し上げ、白い靴下を指でめくる。

 くるぶしのあたり――そこには、金属の跡のように薄く食い込んだ痕が見えた。

 

「私、ここ。鎖で繋がれてたんだよね」

 

 まるで日常のことを話すように、淡々とした声。

 その残酷な静けさが、逆に場を凍らせた。

 

 男子児童たちは息を呑み、何も言えずに立ち尽くす。

 視線を逸らす子、後ずさる子。誰も笑わない。

 

 そして――誰からともなく、その場をそっと離れ始めた。

 足音がばらばらに遠ざかり、廊下には再び静けさが戻る。

 

 葉加瀬はそんな様子を無表情に見送り、靴下を元に戻す。

「……やっぱり、退屈はしなさそうだな」

 

 小さく呟いて、何事もなかったように教室の方へ歩いていった。

 

 

 

 

 

 

 ――廊下に、静寂が戻る。

 

 先ほどまでの笑い声も、足音も、もうどこにもない。

 葉加瀬の前には、ひとりの男子児童だけが取り残されていた。

 彼は俯きながら、小さく震える声で言った。

 

「あの……ごめんなさい……」

 

 涙が声に滲んでいる。

 さっきまでの強がりは跡形もなく、両手をぎゅっと握りしめていた。

 

 葉加瀬は少しだけ眉をひそめ、彼を見下ろした。

 そして、肩をすくめながら静かに口を開く。

 

「……別に、人がどうとか関係ないだろ」

 

 少年が顔を上げると、葉加瀬の目は真っ直ぐだった。

 冷たくもなく、どこか理屈めいた優しさを帯びている。

 

「会社だって病院だって、そのための道具を運んでくれる人がいないと潰れちゃうんだよ。

 上の人ばっかりじゃ、世界は動かない」

 

 一拍の間を置いて、言葉を結ぶ。

「……あんたのお父さん、私はカッコいいと思う」

 

 少年の目に、光が戻る。

 最初は驚いたような顔をしていたが、次第に小さく頷いた。

 

「うん……そうだよね」

 ぽろりと笑顔がこぼれ、そのまま手で涙を拭うと、軽く頭を下げて駆け出していった。

「ありがとう!」

 

 廊下の先でその背中が角を曲がって見えなくなる。

 残された葉加瀬は、しばらく無言でその方向を見つめ、やがて小さくため息をついた。

 

「……嫌なものを見た」

 

 ぼそりと呟き、踵を返して教室へ戻り始める。

 

 その時、校舎全体に チャイム が鳴り響いた。

「……やべ」

 思わず呟いて、足早に歩き出す。

 

 廊下の角を曲がった瞬間――

 ふと視界の端に、トイレの影から覗く気配を感じた。

 

 緑がかった髪の少女が、じっとこちらを見ている。

 無言で、動かない。

 

 葉加瀬はほんの一瞬だけ足を止め、その瞳を見返した。

 

 ……前にもあったな、こんなこと

 

 頭の片隅で、微かに既視感が疼く。

 だが、すぐに顔を逸らし、何事もなかったように足早に歩き出した。

 

 遠ざかる足音だけが、静かな廊下に響いていった。

 

 ――教室の扉を開けた瞬間、静かなざわめきがふっと止んだ。

 

 黒板の前では女性教師がチョークを手に、分数の割り算について説明していた。

「――分母と分子を逆にして掛けるのが、割り算の基本です。たとえば――」

 

 その声が途切れ、クラス全体の視線が一斉に扉の方へ向く。

 

 葉加瀬は少し息を整え、姿勢を正してから教室に一歩踏み込んだ。

 そして、まるで訓練を受けた兵士のような調子で言葉を並べる。

 

「失礼します。授業中のところ申し訳ありません。理科準備室にて薬品の匂いを確認し、興味本位で立ち入りました、帰室する途中で男子間の揉め事を発見。介入および鎮静化を行ったため、入室が遅れました」

 

 その報告調の口ぶりに、クラスは一瞬静まり返る。ぽかんと口を開ける子、恐れを抱く子――

 

 全員が「なにその言い方……」という表情で葉加瀬を見つめていた。

 

 女性教師も思わず目を瞬かせたが、すぐに柔らかく微笑む。

 

「……そう。ありがとう、葉加瀬さん。きちんとして偉いわね」

 

 そして黒板にチョークを置き、優しい口調で続ける。

 

「でもね、そんなにかしこまらなくても大丈夫よ。もう少し肩の力を抜いていいの。ここでは“報告”じゃなくて、“お話”でいいのよ」

 

「遅れても、きちんと理由だけ話してくれればいいの」

 

 葉加瀬は一礼したまま、数秒黙ってから静かに頷いた。

 

「了解……しました」

 

 肩の力を抜け、か……

 

 ――その言葉に、脳裏を過ぎるのはヴァルテスでの日々。

 失敗は許されず、報告の仕方ひとつで叱責される環境。

 息を抜くという行為が“怠慢”とみなされる場所。

 

 来てすぐに、そんな芸当できるわけないだろ……

 

 心の中でそう呟きながら、無言で自分の席へと歩く。

 机の横を通り過ぎるとき、隣の席の子がちらりと目を合わせて微笑んだ。

 葉加瀬はわずかに口角を動かしただけで、それ以上は何も言わずに腰を下ろした。

 

 教師の声が再び教室に戻り、チョークの音が黒板を走る。

 

 けれど葉加瀬の耳の奥では、まだ――あの鉄の鎖の音が、

 

 

 

 

 

 

 遠く響いていた。

 

 校門を出た途端、葉加瀬は長く息を吐いた。

「……はぁ」

 冷たい風が頬を撫で、制服の裾を揺らす。

 グラウンドからは部活の掛け声が遠くに聞こえ、校舎の窓が夕陽を反射して金色に輝いていた。

 

 帰路を歩きながら、彼女の思考は自然と内側へ沈み込んでいく。

 

(ヴァルテスと、小学校……)

 

 ヴァルテス――監視と統制の象徴。

 そこではすべての行動が監視され、子供たちは忠誠を誓うことを義務づけられていた。

「安全」を与える代わりに「自由」を奪い、

 子供たちは“管理された機能”として整列させられていた。

 

 対して、小学校。

 誰も監視していない。

 好きに話し、好きに笑い、

 

 ――結果として傷がつく。

 

 教師たちはそれを“教育”と呼び、子供たちの個性を伸ばそうとしていた。

 

 けど結局、こっちも“縛り方”が違うだけか……

 

 ヴァルテスは、子供を“商品”として調教する。

 小学校は、子供を“学生”として指南する。

 正反対のようでいて――どちらも「子供をどう扱うか」という発想から逃れられていない。

 

 子供を“自分の思う通りにしたい”。結局、どっちも同じ

 

 今日一日見た教師たちの表情が、次々と思い出される。

 

 江崎の熱っぽい眼差し。

 

 分数を教えていた女性教師の、穏やかな笑み。

 

 理科準備室の先生の、あの優しげな声。

 

 みんな、口調も方法も違うのに、どこか同じ「眼」をしていた。

 ――観察する眼。

 

「どう育てるか」を見極めようとする、調教師の眼。

 

 葉加瀬は眉をひそめ、難しい顔をして歩く。

「……面倒くさい」

 吐き捨てるように呟き、駅の階段を上る。

 

 改札を通り、ホームに立つと、夕陽はすでにビルの向こうに沈みかけていた。

 来たばかりの電車に乗り込み、ドアの前の席に腰を下ろす。

 

 揺れる車内。

 車窓の向こうで街の灯りが少しずつ灯っていく。

 

 ふと、視線を感じた。

 正面の座席に、同じ制服を着た金髪の少女が座っている。

 年は同じくらい。大きな瞳で、じっとこちらを見ていた。

 

 葉加瀬はその視線を数秒受け止め、ため息をつく。

(……こういう奴も野放しになるし)

 

 小さく目を逸らし、カバンを膝の上に置く。

 電車はゆっくりと揺れながら、夕闇の中へと走り抜けていった。

 

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