翌朝。
ガラス張りのビルに朝日が差し込み始める頃、
正面玄関が小さな電子音とともに開いた。
「ふあぁ……寒っ……」
森中花咲は片手に鍵を持ち、もう片手で胸元をぎゅっと抱えて身を縮めながら中に入った。
まだ人の気配が薄いフロア。誰もいない静寂の中、パンプスの音だけがコツコツと床に響く。
慣れた手つきでブレーカーを上げ、蛍光灯の光が一斉に天井を照らす。
部屋全体が白く明るくなり、そこから森中は無言で電気ケトルのスイッチを入れ、暖房のリモコンを操作する。
「……よし。今日も平和であってくれ〜」
ぽつりと独りごちてから、暖かい空気がじわじわと広がるのを感じつつ、椅子に腰を下ろす。
一息ついた、そのときだった。
――カチャリ。
ドアの開く音と同時に、ひんやりとした空気がまた入り込んできた。
「……ん〜……眠い……」
入ってきたのは、黒い忍者のような和装を身にまとった椎名唯華だった。
髪もぐしゃぐしゃのまま、挨拶もせずに靴を脱ぎ捨てると、まっすぐソファへ歩き、どさりと寝転んだ。
「おはよ〜くらい言ってから死んでくれない?」
森中は振り向かず、手元でマグカップを用意しながらぼやいた。
「……店長は?」
「んー?あいつなら今日は来いひんで」
椎名はソファの上で寝返りを打ち、ようやく体を起こすと、重そうに立ち上がる。
和装の裾を気だるげに引きずりながら、奥のデスクに向かうと、そこに置かれたパソコンの電源を入れる。
立ち上がったメールソフトには、怪異の報告書や依頼関係の連絡がいくつか届いている。
椎名はそれをざっと目を通し、気乗りしない様子で「了解です〜」などと適当な返信を送った後、椅子にふんぞり返った。
「朝から働きたくねぇ……まじで……」
その時、外の廊下を通る会社員たちの足音がにわかに騒がしくなる。
誰かが笑い、誰かが足早に通り過ぎる。その音が、ガラス越しにぼんやりと伝わってくる。
椎名はそれを聞きながら、ふと呟いた。
「……あいつ、何者なんやろな」
森中が顔を上げる。
「赤羽ちゃん?」
「うん」
椎名の目はパソコン画面を見ているが、視線はどこか上の方――遠くを見ていた。
「確かに、不思議だよね……」
森中はそう言って、自分の膝の上に置いたマグカップを見つめた。
「だって……ああいう“力”を持ってるのって、少なくとも私が今まで見た中では……椎名しかいなかったし」
「ふん……せやろな」
椎名は椅子をゆらりと揺らしながら、続ける。
「確かに、うち以外にも“霊能力者の家系”ちゅうのはあるっちゃある。けどな……」
キーボードをいじる手を止め、彼女は視線だけ森中に投げた。
「『赤羽』なんて家、聞いたことも、会ったこともあらへんのよ」
「……」
森中は言葉を失ったように、静かに息をついた。
「一応、おかんにも聞いてみたんや。うちの家系図とか、古い文書とか……
そしたらおかん、こう言うてたわ。『そんな家、聞いたことない』って」
パソコンの画面には依頼主の名前がいくつか並んでいる。
どれも怪異に関するもので、何気ない日常の中に潜む“異常”を抱えた者たちだ。
そして、赤羽葉子という存在も――
まるでどこから現れ、何の前触れもなく“異常”の中に溶け込んでしまったような存在だった。
「……それが、ちょっと気持ち悪いんよな」
椎名はそう呟いた。
「力だけポンと持って、はい、今日から私は霊能者です〜みたいな。」
「――エセ霊能力者じゃあるまいし。あてぃし達の力、そないな力やないで。」
「ま……ここにおるうちは、まだ退屈せんってことやな」
椎名唯華はパソコンチェアに姿勢を正すと、改めてモニターに向き直った。
いくつかのウィンドウを開き、事務所の人材データベースにアクセスすると、そこにはバイトスタッフ――赤羽葉子の情報が表示されていた。
「んー……どれどれ……」
椎名は指先でマウスをくるくると回しながら、口元を緩める。
「赤羽葉子、20XX年4月5日生まれの17歳。学校は……井ノ原総合学園……って」
目を細めたその瞬間、モニターを覗き込んだ椎名の口角がぴくりと跳ねた。
「……おおっ、赤羽って、あの“赤羽”かあ!?」
その声に森中がびくりと反応し、「は?」と顔を上げる。
「こいつの親族……あの亀宮ホテルの経営者やった奴やん。
……ここで、変なの拾って来たんとちゃうw?」
「ちょっ……!」
森中はすぐさま立ち上がって、椎名のいるデスクの方へと歩み寄った。
そして椎名が開いているモニターを見て、眉をひそめる。
「ちょっと!勝手にそんなとこまで覗くのやめなよ……!ばねちゃん怒るよ?」
「……んぁ?なんやねん、空気読めへんやつやな……」
椎名はわざとらしくため息をつくと、ウィンドウをひとつひとつ閉じていく。
そして画面をパタンと伏せ、腕を組みながら椅子にもたれかかった。
「別に悪いことしてへんやん。知的好奇心やんか……」
頬を軽く膨らませてむすっとするその姿は、まるで拗ねた猫のようだった。
森中は、やれやれと小さく息をつきながらも椅子の背にもたれかかる椎名を見つめる。
「……知的好奇心って言えば何でも許されると思ってるでしょ、ほんとに……」
「せやかて、面白いやつやろ? 妙に力あるわ、記録も薄いわ、やたら頑丈やわ……」
「そういうの見ると、面白くて皿まで食い尽くしたくなるねん」
椎名は腕を伸ばして背中を反らし、うーんと大きく伸びをした。
「……ま、せっかくやし」
カク、と椅子を前に戻してパソコンを再び立ち上げ、今日届いた依頼一覧に視線を滑らせる。
「今日入った依頼……ばねさんに、任せてみっか」
「新米霊能力者のお手並み、拝見やな」
その口ぶりはいつもの調子ながら、どこか重たく、静かな覚悟がにじんでいた。
部屋の外では、始業時間を迎えた会社員たちの足音が、また少しずつ賑やかさを増していた。
夕暮れ。
赤く染まりかけた空の下、神社の前には長い影が伸びていた。
木々はまだ葉をつけておらず、枝の隙間からは空の色が透けて見える。
参道の石畳はひんやりと冷たく、鳥居の朱も薄暗さに飲まれかけていた。
そんな境内の入り口で、赤羽葉子は一枚の写真を手にして立ち止まっていた。
「んー……これ……」
心霊写真とされるその一枚。
薄暗い本殿の奥、天井近くに“何か”が写り込んでいるように見えなくもない――そんな微妙な一枚だった。
葉子は写真をチラッと見て、次に神社そのものを見やる。
もう一度写真に目を戻して、じっくり見比べたあと、眉をひそめてつぶやいた。
「これ……ただカメラの写り悪いだけじゃない?
霊も感じないし、特に変わったところないよ?」
写真を指でつつきながら、隣にいる黒い和装の人物――椎名唯華にそう言う。
椎名は少し距離を取って鳥居の柱にもたれ、夕暮れの空をぼんやり見上げていたが、
葉子の言葉に、何でもなさそうに答えた。
「ん……まあ、そうやな」
そのあっさりした返事に、葉子は半眼になって振り向く。
「もしかして……バカにされてます?」
困ったような、それでいて若干呆れたような声。
椎名は口元を緩め、くくっと小さく笑った。
「ふふ、まあ……これからが本題や」
そう言うと、スマホをスッと取り出して、葉子の方へ画面を向けて見せる。
「はいこれ。ネットの拾いもんやけど」
そこに表示されていたのは、ある掲示板のアーカイブページだった。
タイトルは――
『渋谷で見つけた謎のコピー用紙の文字、誰か解読頼む』
本文には、白黒のコピー用紙の写真が添付されており、
文字というには奇妙すぎる、不規則で歪んだ“記号”のようなものが書かれていた。
スレッドには「暗号か?」「外国語?」「落書きにしては怖い」「呪い系?」と様々な憶測が飛び交っていたが――
ある時点を境に、スレ主の投稿がすべて同じ一文で埋め尽くされる。
『なんでもありませんでした。』
『なんでもありませんでした。』
『なんでもありませんでした。』
何度も、何度も、繰り返される同じ言葉。
そしてその数時間後――掲示板ごと削除。
「……気味悪」
葉子がぽつりと漏らすと、椎名はスマホを引っ込めてポケットにしまいながら言った。
「な?ただの“心霊写真”よりは、ちょっとマシやろ?」
「でもさ……イタズラだったんじゃないの?
ネットでよくあるやつじゃん、意味深な自演して話題になりたいだけの」
葉子のその反応に、椎名は肩をすくめて答える。
「まあ、それでもええけどな。
ただ、クライエントはちゃんとうちにお金払ってるんや。
だから、ばねさんには“調査”してもらわんと困る」
「うぐ……またぁ〜〜」
葉子は額に手をあてて呻いたが、椎名の視線がすでに別の方向を向いているのを見ると、観念したように息を吐いた。
翌日。
赤羽は学校の地下にあるパソコン室にひっそりと座っていた。
昼休みが終わりかけの時間で、ここには誰もいない。
蛍光灯の白い光が、無機質に机とパソコンを照らしていた。
画面には、例の“渋谷コピー紙スレ”のアーカイブと――
有志の解読班が投下したメモが並んでいる。
『英語を元にしている可能性が高い』
『文字の形はヴォイニッチ手稿に近いが、別物』
『文化的改変暗号か?』
『言語体系不明。意味不明すぎる』
赤羽は半目でその推理の羅列を眺めつつ、もうひとつのタブに切り替える。
そこには、実際の“ヴォイニッチ手稿”の拡大画像が映っていた。
奇妙な曲線、植物の絵、意味をなさない文章。
「ん〜〜……そんなに似てっかなぁ……?」
眉間にしわを寄せながら、ディスプレイに顔を近づけたり離したり。
本気で悩んでいる、というよりは面倒くささが前面に出た困惑顔だった。
「これ、完全にイタズラじゃん……
てか暗号とか言われても分かんねーよ……」
椎名が興味津々だった内容だが、自分には文学的知識も、暗号解読のセンスもない。
数式の記号に見えなくもないし、落書きと言われれば落書きにも見える。
結局、できんのは……あの日その場所に行った人探すとか、スレ主が急に“なんでもありませんでした”連投した理由探すとか……
「はぁ〜〜……めんど……」
深々と椅子に沈み込み、ため息をひとつ。
画面の電源を落とし、暗くなったモニターに自分の顔が映る。
そのとき――
葉子はぽつりと、何の気なしに呟いた。
「……“星降る夜、仔の落とす落胤は輝石となる”……だってさ」
自分でも意味が分からないまま口から出た言葉。
しかし、どこか自然に、当然のように読んでしまった。
……今の言葉、どこで……?
小さな引っかかりが胸に残ったまま、葉子は席を立ち、パソコン室を出た。
人気のない地下廊下を進み、自販機でコーラを買い、階段を上がりかけたところ――
足がふと止まる。
「……あれ?」
階段の踊り場で、葉子はゆっくりと振り返る。
「……私、なんで……」
喉が乾き、心臓が小さく跳ねる。
「なんで、この文字読めんの……?」
理解も、推測も、翻訳もしていない。
ただ“読めた”。
理解するための過程が存在しなかった。
まるで“元々知っていた言語”のように、自然に意味が頭に入ってきた。
コーラ缶が、カシュ、と小さな音を立てて震えた。
制服のまま、赤羽葉子は校門を抜け、ゆっくりと歩いてバス停に向かった。
空はすでに黄昏に染まりはじめており、建物の影が地面を長く伸ばしていた。
カラカラと小さな音を立てながら、彼女は片手に空き缶のコーラをぶら下げていた。
炭酸の気泡はもう消えかけていて、甘ったるい残り香だけが缶に残っている。
……なんで読めたんだろ
喉の奥にまだ違和感が残っている。
だが、それを恐怖に呑まれて考え続けるには、葉子は現実的すぎた。
いやいや……“そういう系の怪異”かも。なんか、条件が揃うと誰でも読める文字とか……よくあるやつ
バスに乗り込み、ICカードをかざす。
車内はそこそこ混んでいて、葉子は立ったまま手すりを握りながら、揺れに身を任せた。
耳には周囲のざわめきが入り、窓の外では住宅街が流れるように通り過ぎていく。
……でも、ほんとにそうなら、“読んだあと”に何が起きるか……わかんないよね
ぞくり、と背中に小さな冷気が走った。
肩をすくめるように身を縮めて、スマホを取り出す。
掲示板のアーカイブを再確認し、あのコピー用紙の画像を拡大表示。
奇妙な形の文字。
すでに――読めてしまったもの。
それを見ながら、葉子は口元を引き締めてつぶやいた。
「……もしかしたら……目撃情報とか、あるかもね」
“現場に行く”という地味な調査方法。
けれど、今の自分にできるのはそれしかない。
誰が拾ったのか、誰が置いたのか、誰が見たのか――
その「足跡」をたどるしかなかった。
バスが信号待ちで止まり、遠くに橋の姿が見え始める。
周囲はもう薄暗く、ヘッドライトの光が街路を照らしていた。
葉子は深く息をついて、自分に言い聞かせるように小さく呟く。
「よし……仕事、仕事……。
時給分、働きますか〜……」
バスが小さなブレーキ音を立てて停車した。
「あきるの橋東口〜、あきるの橋東口〜」
アナウンスが流れる中、赤羽葉子は無言のまま立ち上がり、乗降口からふわりと一歩外へ出た。
その瞬間だった。
――ぐらっ。
足元が揺れたわけでもないのに、世界がわずかに歪んだように感じた。
「……っ、う……!」
軽いめまい。いや、違う。
吐き気だった。
一歩踏み出した足が止まる。
喉の奥から何かがせり上がってくるような感覚に、葉子は顔をしかめてその場にしゃがみ込んだ。
「……な、に、これ……」
周囲の景色は、まったくの普通だった。
夕方の街路。
照明のつき始めたビル。
自転車を引く中年の女性、談笑しながら歩く学生たち、静かに停車している車。
どこにも、“異常”はなかった。
けれど葉子の目には、景色の色が微妙に褪せて見えていた。
建物の輪郭がぼやけ、空の色が妙に重く、空気がずっと冷たく、圧がある。
「なに……これ……こわ……」
自分でも訳が分からなかった。
霊が見えるでもなく、怪異が襲ってくるでもない――
ただ、目の前の景色が“見てはいけないもの”のように思えてならない。
あの文字……?
脳裏に浮かんだのは、昨日のこと。
「読めた」あの文章。
『星降る夜、仔の落とす落胤は輝石となる』
それを思い出した瞬間、心臓がドクンと跳ねる。
あの連投――『なんでもありませんでした』という言葉の繰り返し――
“あれ”を読んだせいで、こうなった?
頭を冷やそうとするが、鼓動がうるさすぎて思考がまとまらない。
視界の隅に、誰かがこちらをちらっと見る気配。
けれど、誰も声はかけてこない。
皆、それぞれの目的地に向かって歩いて行く。
自分だけが、この場所に立っていられない。
「っ……ムリ、無理無理無理……!」
声に出す暇もなく、葉子は鞄を抱えて踵を返し、反対車線へと小走りで移動した。
ちょうどやってきたバスに、迷わず飛び乗る。
運転手が「乗りますか?」と尋ねる間もなく、ICカードをタッチして奥へ進んだ。
揺れ始めたバスの中で、赤羽は黙ったまま座席に身体を沈めた。
窓の外、さっきまでいた橋のあたりがすぐに遠ざかっていく。
「……ちょっと、やばいかも……」
今だけは、そう口にすることを許した。