そう言われりゃ、確かにそうかもしれないけど。心のどこかで、まだ釈然としない。
「普通」っていう曖昧な基準が、どうにも掴めないままだ。
そんなことを考えながら角を曲がろうとしたとき――
視界の端に、人の影が動いた。
……見つけた。
廊下の端、掲示板の裏に身を隠すようにして立っているのは、
あの緑髪の少女――森中花咲だった。
前よりもほんの少しだけ、こちらを見ている時間が長い。
葉加瀬はため息をひとつついて、歩み寄る。
「そっちから来てくれて良かったよ」
声をかけると、花咲は小さく肩をすくめ、申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめんなさい……」
その声は震えていて、まるで告白の前置きのようだった。
「私、この前……“吸血鬼なの?”って言ったこと、気にしてるんですよね」
葉加瀬は少しだけ目を丸くし、眉を寄せる。
「いや、別に。驚いただけ」
花咲はそれでも胸に手を当てたまま、ぽつりぽつりと話し出した。
「その……うちの“じいじ”が、昔から言ってたんです。
“自分には父親も母親もいない”って。
でもね、その“じいじ”は、私のお父さんで……」
声が少し詰まる。
「最近、体調が悪くて。ご飯もあんまり食べなくなって、夜は良いんですけど、昼は顔色がすごく悪くなるんです」
葉加瀬は黙って聞いていた。
花咲は俯いたまま、絞り出すように続ける。
「じいじは“吸血鬼”なんです。
本当にそう思ってて……。
もしかしたら、あなたなら……何かわかるかも、って思って」
その言葉を聞いた瞬間、
葉加瀬の表情に、わずかに困惑と戸惑いが入り混じる。
「いや……」
彼女は額に手を当て、小さくため息をついた。
「生物学上、いない訳じゃないから」
「え……?」
花咲が顔を上げると、葉加瀬は淡々と、少し冷めた調子で続けた。
「“親がいない”ってのは比喩よ――本当に“いない”ってわけじゃない。私を産んだ女と、そいつと交尾した男なら、ちゃんといるよ」
その現実的で乾いた言葉に、花咲の瞳が一瞬だけ揺れる。
彼女は何かを言いかけて口を閉じ、視線を落とした。
まだ校庭には朝露の残る風が通り抜けていて、
登校してきた児童たちのざわめきが遠くに聞こえる。
その中で、階段をゆっくりと降りていく二人の少女。
葉加瀬冬雪と、緑髪の森中花咲。
静かな階段の上で、森中がぽつりと口を開いた。
「でも、じいじは……本当に“いない”の」
葉加瀬が眉をひそめ、横目でちらりと見る。
森中の声は淡く、どこか遠くの世界を見ているようだった。
「知らない誰かが、自分を“作った”って言ってた。
昔はね、いろいろ教えてくれたんだけど……最近は、ほとんど話してくれなくなって」
葉加瀬は足を止めずに、手すりに軽く触れながら階段を降りる。
「つまり――“クローン”ってこと?」
淡々とした声。
「もしその“じいじ”が本当にクローンなら、科学の歴史がめちゃくちゃになるけど」
森中は少し首を傾げて、申し訳なさそうに首を振る。
「それは……よくわからない。じいじも、自分が“誰かを元に作られた”のか、“誰かの術式でゼロから作られた”のかは知らないって。ただ、知り合いのおじさんが言ってたの。あの人は、私たちとは身体ごと違う存在だから、わからないって……」
その言葉を聞いて、葉加瀬は小さくため息をついた。
……完全に非科学的。“術式でゼロから作る”とか、そんなのもうSFどころか日朝のアニメかよ。
けれど、森中は至って真剣な表情をしている。
それがかえって、葉加瀬にはどう扱っていいのかわからなかった。
「……ふーん」
それだけ言って、彼女は階段を降り続ける。
やがて二人は古い校舎の方へ出た。
新校舎とは違い、木の床はところどころ軋み、
壁の掲示板には色褪せたお知らせが残っている。
下駄箱の近くまで来ると、森中は一度立ち止まり、
ぼんやりと曇りガラス越しの校庭を眺めた。
――古い校舎の下駄箱前。
朝のざわめきが遠くに聞こえ、
ここだけ別の空気が流れているようだった。
葉加瀬は腕を組み、森中の話を聞きながら、
ついに堪えきれずに呆れたような声を漏らす。
「……あ〜、つまり私はガキ共の遊びに付き合わされてるってこと?」
その口調には明らかな倦怠と皮肉が混じっていた。
森中は少し困ったように笑い、視線を逸らした。
「……そう思っても仕方ないかもね」
二人は靴を履き替えて、そのまま校舎裏へ出る。
裏庭はまだ朝露に濡れ、土の匂いが残っていた。
誰もいない場所――そこに、森中は立ち止まる。
「……話、聞いてほしいだけなんだ」
森中の声は静かで、さっきまでの曖昧な調子とは違っていた。
「葉加瀬さんだって、“普通では信じられないような生き方”してきたって聞いてたから」
葉加瀬は一瞬だけ表情を引き締めた。
だが、それもすぐに半信半疑の視線に戻る。
森中は答えず、制服のポケットから小さなカプセルを取り出した。
中には、乾いた虫の死骸のようなものが入っている。
次の瞬間――
カプセルが、ふっと消えた。
音もなく、
跡形もなく。
ただ、その空間が一瞬だけ、熱を帯びたように歪む。
葉加瀬は思わず息を呑む。
森中はその反応を確かめるように見つめ、
今度はブロック塀の方へ片手を向けた。
彼女の掌の前に、薄い緑色の光が集まり、
やがて炎の塊へと変わっていく。
「……え?」
緑の炎弾が放たれた。
ブロック塀に当たると、ボウッと音を立てて黒く焦げ跡が残る。
煙の匂いが風に乗って広がった。
森中はゆっくりと手を下ろし、
真剣な表情で葉加瀬の方を見つめた。
「……私は、魔法使いだから」
その声音には、冗談の影は一切なかった。
葉加瀬は、ただその場で立ち尽くす。
焦げた壁、漂う熱気、まだ空気に残る緑の光――
目の前の出来事が、現実として処理できない。
「……マジか」
それだけを、呆然とした声で零した。
科学でも、理屈でもなく――ただ「見た」事実として。
森中は静かに頷いた。
その瞳の奥には、どこか寂しげな光があった。
――焦げた匂いが、まだ空気に残っていた。
ブロック塀には黒い痕。
葉加瀬はその前に立ち尽くしたまま、唖然とした表情で森中を見ている。
科学的な説明の通らない光景を前に、思考が追いつかない。
「……ほんとに、燃えた……」
声に出しても、信じきれない響きが混じっていた。
その時――
「ふゆき〜?」
背後から、明るい声。
振り返ると、制服姿の夜見れながが廊下の影からひょっこり現れた。
相変わらずの笑顔を浮かべて、焦げた匂いの漂う空気をくんくんと嗅ぐ。
「こんなとこでどうしたの?」
首を傾げて、鼻をひくひく。
「花火ならもう大分季節外れになっちゃったけど……」
軽口を叩くその調子に、葉加瀬は反応できずにまばたきを繰り返す。
しかし森中は違った。
彼女は夜見をじっと見つめ、わずかに身を引く。
その表情は警戒そのもの。
「……あなた、誰?」
夜見はその問いに答えず、代わりににやりと笑った。
「やっぱり、ふゆきと一緒にいたら退屈しないなぁ」
一瞬、空気が変わった。
森中の肩がピクリと動く。
まるで本能的に感じ取ったように――“何かが普通じゃない”。
夜見は楽しそうに、ポケットから小さなサイコロを取り出した。
「ふゆきは――夜見のものなんですけど!」
指で弾いた瞬間、
サイコロは空気を裂くような鋭い音を立てて飛んだ。
――ヒュッ!!
森中の頬を掠め、後方の空気が一瞬だけ焦げたように熱を帯びる。
視線を動かす間もなく、サイコロは空中でパッと燃え上がり、
光の粒となって消えた。
静寂。
森中は目をぱちぱちと瞬かせ、震える声で呟いた。
「ちょ、超能力者……!?」
夜見はその焼け跡を見て、軽く頬を膨らませた。
「あー……やっぱり、アニメみたいにはできないなぁ」
燃えたサイコロの灰が、ゆっくりと風に溶けていく。焦げ跡の残るブロック塀を背に、空気はまだ少しだけピリッと熱を帯びていた。
森中は驚きの余韻を引きずったまま、距離を取って夜見を見ている。
一方で葉加瀬は、もう驚く気力も尽きたように静かに夜見へ近づき、
軽くその肩をぽんと叩いた。
「……どこでそんなん覚えたの」
夜見は振り向いて、満面の笑み。
「学校の図書館〜! 施設の本棚よりも、たっくさん本読めるからさ!」
妙に誇らしげに胸を張る夜見。
その顔には“褒められるのを待ってる”オーラがありありと浮かんでいた。
だが葉加瀬は、冷静そのもの。
「……それ、危ないからやめな」
「えぇ〜〜!?」
夜見はほっぺを膨らませ、目を丸くする。
「夜見、レベル5になりたいのにぃ……」
その発言に、葉加瀬は目を細めた。
「……お前、それ、なんかの小説に影響されてるだろ」
葉加瀬はひとつため息を吐いて、夜見の方に顔を戻す。
「……わかった、手伝うよ。夜見さんが“キレない範囲”でなら」
その言葉に夜見は一瞬ピタリと動きを止め、
次の瞬間、じとっと森中の方を睨むように視線を滑らせる。
「……夜見、キレそう」
葉加瀬は即座にツッコミを入れた。
「ヤキモチだろそれ」
「違うもん〜〜!」と夜見は頬を膨らませるが、
葉加瀬は半分呆れたように口の端を上げる。
「……あんな服着てたくせに、施設で人助けしろって教わらなかったのか」
夜見は一瞬だけ視線を逸らして、サラッと答えた。
「言われた。
耳にタコできてた」
葉加瀬は肩をすくめ、静かに締めくくる。
「なら我慢しろ」
夜見は不満げに唇を尖らせつつも、結局は何も言い返さない。
森中はまだ、二人のやり取りを見つめていた。
――夕方。
加賀美家のダイニングは、照明の柔らかな光に包まれていた。
この日は両親もハヤトも出かけていて、
広い食卓を囲んでいるのは、葉加瀬と夜見の二人だけ。
テーブルの上には、ハウスキーパーが用意していった夕食が整然と並んでいる。
白い皿に唐揚げとサラダ、味噌汁に冷ややっこ。
湯気が静かに立ち上るたびに、油と出汁の香りがふわりと漂った。
夜見は椅子に腰掛け、姿勢を正すと、手を組み、目を閉じた。
「過ちを犯した、罪深い私に施しをくださったことに感謝して、食事をいただきます……」
静かな声が、リビングの天井に反響する。
「償いの日々を送るために、私の心と身体を支える糧となってください……」
その祈りの言葉は、いつもの夜見の呑気な声とは違って、
どこか宗教的で、儀式のような厳かさを帯びている。
隣で見ていた葉加瀬は、箸を持ったまま、これだぁ……と小さく呟いた。
昼間、夜見に言われた言葉――施設の歩き方だから――が頭をよぎる。
あの場所で身につけた、身体の癖。
夜見が祈りをやめられないように、自分もまた、あの歩き方から抜け出せていない。
今さら直せるわけでもないけど、
急に意識してしまって、落ち着かない。
姿勢を少し崩そうとしてみるが、結局どこが「普通」なのか分からず、
中途半端な体勢で箸をいじるだけになってしまう。
その横で、夜見はもういつもの調子に戻っていた。
「ふゆき〜、食欲ないの〜?」
「……別に」
「じゃあさ、この唐揚げもらっていい〜?」
夜見が目を輝かせて、葉加瀬の皿の上の唐揚げを狙う。
その手が伸びるよりも早く、
葉加瀬は唐揚げを一個つまんで、口に放り込んだ。
「ダメ」
もぐもぐと噛みながら、淡々とそう言う。
夜見は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑って箸を振る。
「けち〜! じゃあ夜見、サラダいっぱいもらうもん!」
「どうぞ」
淡々としたやり取り。
けれどその空気には、奇妙な静けさと安心が同居していた。