――休日の学校。
校舎はひっそりと静まり返っていた。
普段なら子どもたちの声で満ちているはずの場所は今日は空っぽで、風に揺れる木の葉の音すら大きく感じられた。
校舎裏。
ブロック塀と雑草に囲まれた、少し湿った土の匂いのする場所で、
森中花咲はひとり立っていた。
制服のスカートの裾を指でつまみ、何度も視線を校舎の角へ向ける。
……やっぱり、来ないよね
そう思いかけた、その時。
足音が聞こえた。
振り向くと、葉加瀬がひとり、校舎の陰から歩いてきていた。
いつも通りの歩幅、いつも通りの無駄のない動き。
けれど今日は、それが不思議と心強く見えた。
「……!」
森中は目を見開き、思わず声を上げる。
「良いの……? 本当に来てくれるの?」
驚きと不安が入り混じった声。
葉加瀬は足を止めると、少しだけ眉を寄せてから近づき、
軽く森中の頭をコツンと叩いた。
「……あんなこと言われて」
視線を逸らしながら、ぶっきらぼうに続ける。
「放っておけるわけないでしょ」
その言葉に、森中の肩から力が抜けた。
葉加瀬はため息混じりに言う。
「ほら。聞かせてよ」
「……あの人のこと」
一瞬、森中は言葉に詰まった。
けれど、やがて小さく頷くと、葉加瀬の方へ一歩踏み出す。
「……なら」
そっと、その手を取った。
「一緒に来て」
冷たいはずの休日の空気の中で、
二人の手の温度だけが、確かにそこにあった。
――古めかしい門の前。
ぎい……と、軋むような音を立てて、森中が門を押し開く。
門をくぐった瞬間、空気が変わる。
街の匂いが消え、湿った土と草木の匂いが肺の奥に入り込んできた。
「……どんなところに住んでんだよ……」
葉加瀬は思わず小声で呟き、周囲を警戒するように視線を巡らせる。
背の高い木々が空を覆い、まだらに地面を照らしている。
足元には落ち葉が積もり、踏みしめるたびに、かさり、かさりと乾いた音がした。
一方の森中は、慣れた足取りで森の中を進んでいく。枝を避ける動きも、道を選ぶ感覚も迷いがない。
「もうすぐだから」
振り返らずに、そう一言だけ告げる。
葉加瀬はその背中を見ながら、
(……本当に人が住んでるのか、ここ)
と内心で突っ込みつつも、黙って後を追った。
しばらく歩くと、木々の合間が不自然に開ける。
霧が晴れるように視界が広がり――
そこに、それは現れた。
大きな洋館。
石造りの外壁はところどころ色褪せ、年月を感じさせるが、
窓枠は丁寧に磨かれ、庭の低木もきちんと手入れされている。
古びてはいるが、荒れてはいない。
“人の手が、今も確かに入っている”建物だった。
葉加瀬は思わず足を止め、息を呑む。
「……」
森中は門へ向かいながら、ちらりと振り返った。
「……ここだよ」
葉加瀬はゆっくりと頷き、
その洋館を見上げたまま、一歩、また一歩と足を進めた。
重たい扉を押し開けると、わずかに木と埃の混じった匂いが鼻をくすぐった。
天井は高く、シャンデリアは年代物だが丁寧に磨かれている。
床板はきしむものの、割れや沈みはなく、長年住み続けられてきた場所だとわかる。
だが、視線を動かすと――
その「古さ」の中に、はっきりとした生活感が混じっていた。
壁際には新しめのエアコン。
テレビ台の下には最新型のゲーム機とコントローラー。
棚には古書と並んで、最近の漫画や攻略本が雑多に差し込まれている。
「……ちぐはぐだな」
葉加瀬は小さく呟きながら、玄関で靴を脱ぐ。
森中は特に気にした様子もなく、
「適当に座ってて」と言って、リビングのソファを指差した。
葉加瀬は言われるまま腰を下ろす。
革張りのソファは古いが、座面は柔らかく、手入れされているのがわかる。
森中はキッチンの方へ向かいながら振り返る。
「何か飲む?」
少し間を置いて、付け足すように言った。
「腐るものは置いてないけど……」
「……なんでもいい」
葉加瀬は短く答え、室内を改めて見回した。
古い柱、分厚いカーテン、年代物の時計。
それらが“住居”として自然に使われていることに、違和感を覚える。
キッチンから、やかんに水を入れる音が聞こえる。
火にかけられたお湯が、ゆっくりと温まっていく気配。
「……いつも、こんなところにいるの?」
怪訝そうに尋ねると、
森中は茶葉の瓶をいくつか並べながら、あっさり答えた。
「うん。結構、夏は涼しいんだよ」
「外の木が多くてさ。緑のカーテンみたいになってるから」
確かに、窓の外からは濃い緑が見え、
直射日光はほとんど遮られている。
森中は茶葉の瓶を一つ手に取り、少し考えるように首を傾げる。
そして、見慣れない色合いの茶葉をティーポットに入れた。
赤でも黒でもない、わずかに紫がかった、不思議な色。
お湯を注ぐと、ポットの中でゆっくりと色が広がっていく。
やがて、カップが二つ、テーブルに置かれた。
「どうぞ」
葉加瀬の前に差し出された紅茶は、
光を受けて、深い翡翠色にも、薄い琥珀にも見える。
葉加瀬はそれをじっと見つめ、
「……変な色」と正直に言った。
森中は少しだけ笑った。
「でも、美味しいよ」
静かな空間に、カップが受け皿に触れる小さな音が響いた。
葉加瀬は一口、紅茶を口に含む。
予想よりも癖がなく、ほのかに甘い後味が残った。
「……で」
カップを置き、眉を寄せる。
「正直、わけが分からない」
視線を森中に向けて、はっきりと言った。
「第一、その“じいじ”について、私に何をしてほしいんだ」
渋々、という調子だったが、投げやりではない。
森中はその言葉を受けて、少しだけ安心したように息を吐いた。
「……何から話そうかな」
両手で自分のカップを包み、しばらく考え込む。
やがて、ぽつりと切り出した。
「じいじ、ずっと寝てるんだ」
葉加瀬は眉を動かす。
「昼も寝てて……滅多に会えないの」
森中は視線を落とし、続ける。
「だから……吸血鬼、なのかなって……」
「……いや」
葉加瀬は即座に突っ込んだ。
「夜勤じゃないの?」
森中は首を横に振る。
動きは小さいが、きっぱりしていた。
「夜も寝てるの」
「たまに起きてるときもあるけど……私が聞いても、何も教えてくれない」
その言葉に、葉加瀬は少しだけ真剣な表情になる。
「……じゃあ、どうやって生活してんの?」
森中は困ったように眉を下げた。
「それも……よく分からない」
カップを見つめたまま、ぽつぽつと言葉を落とす。
「家事関係は、専門の人を雇ってるみたいで……」
「あと、たまに家を出ていくの。
だから、そのときに何か仕事してるのかも……」
声の端に、不安が滲んでいた。
葉加瀬は何も言わず、再び紅茶を一口飲む。
葉加瀬は即答する。
「病院、行った方がいいんじゃない?」
あまりにも率直な言い方だったが、
森中の表情が一瞬で曇るのを見て、葉加瀬は言葉を止めた。
カップに視線を落とし、少し考える。
「……いや」
トーンを落として続ける。
「その人さ、家以外にどこか居場所とか、知らないの?」
森中は首を横に振りかけて、動きを止める。
葉加瀬はそれを見て、ひとり納得したように息を吐いた。
「あー……でも」
「家族、いないんだっけ?」
森中が小さく頷く。
「……施設みたいな場所があるわけでも、ないしね」
その言葉は、何気なく零したはずだった。
けれど――
「……そっか」
森中が、はっきりと反応した。
ほんの一瞬、目を伏せ、何かを飲み込むように。
葉加瀬はその変化に気づき、視線を上げる。
「……なに?」
森中はしばらく黙っていたが、
やがて意を決したように、ゆっくり口を開いた。
「……1つだけ」
「手掛かり、あるかもしれない」
葉加瀬はカップを置き、身を乗り出す。
「……聞かせて」