――翌日。
電車の中は、平日の昼間ということもあって比較的空いていた。
座席に並んで座る三人の前を、窓の外の景色が流れていく。
森中は、横に座る加賀美をじっと見つめていた。数秒、無言で観察したあと、率直に口を開く。
「……この人、誰?」
唐突すぎる問いに、加賀美はびくっと肩を震わせる。
視線を泳がせながら、小さく笑って誤魔化す。
「えっ、あ、えっと……」
「やっぱり俺、邪魔じゃないかな……」
声は弱気で、どこか申し訳なさそうだった。
その瞬間――葉加瀬が、遠慮なく加賀美の背中をバン、と叩いた。
そして、胸を張って即答する。
「私のご主人様!」
車内の空気が、一瞬で凍る。
「……ご、ご主人様……?」
森中は目を見開き、明らかに不安そうな声で聞き返した。
手がぎゅっとスカートの裾を掴む。
「だから私の――」
葉加瀬が続きを言いかけた、その瞬間。
「ち、違う!!」
加賀美が慌てて立ち上がりかけ、声を裏返らせた。
「兄です!!」
「えっと、あの、ぎ、義理の……!」
森中は二人を交互に見比べ、困惑した表情のまま小さく呟いた。
「……なんか、よくわからないけど……」
電車は何事もなかったかのように揺れ続け、
三人の間には、気まずさと妙な緊張感が同時に漂っていく。
――ガタン、と電車が減速し、扉が開く。
「……この駅で良いんだよね」
葉加瀬が確認するように言い、三人はホームに降り立った。
改札を抜けると、そこは人影の少ない小さな駅前。
コンビニも見当たらず、遠くで鳥の鳴き声が聞こえるだけだった。
舗装の荒れた田舎道をしばらく歩く。
風に揺れる雑草、錆びたガードレール。
目的地が近づくにつれて、空気がどこか重くなっていく。
やがて――
道の先に、巨大な建物が姿を現した。
高いコンクリートの壁。
古びた外観の研究所。
窓の多くは曇り、所々にひびが走っている。
そして、それを囲うように張り巡らされた柵。
森中は足を止め、建物を見上げながら呟いた。
「……ここだと思うんだけど……」
その声の端には、不安と確信が混じっていた。
隣で加賀美が目を凝らし、低い声で言う。
「……これ、内側に柵が張ってある……」
森中はきょとんとして、柵を改めて見る。
「内側……?」
葉加瀬は一歩前に出て、淡々と説明する。
「普通さ、侵入を防ぐなら外側に柵って張るもんなんだよ」
「でも、これが“内側”に張ってあるってことは……」
言葉を切ったその瞬間、
加賀美の表情がはっと変わった。
「あ……」
「そういえば……ヴァルテスも、内側に張ってあったよね……」
ぽつりとした呟き。
森中はその聞き慣れない名前に反応する。
「……ヴァルテス?」
葉加瀬は振り返りもせず、しれっと答えた。
「言ったでしょ。鎖で繋がれてたって」
「そゆこと」
まるで、天気の話でもするような口調だった。
その瞬間、加賀美は慌てて葉加瀬の方を向く。
「は、葉加瀬さん……!」
「そういうの……あんまり人に言わない方が……!」
必死に声を落とす加賀美に対し、葉加瀬は一瞬だけ不思議そうな顔をしてから、肩をすくめた。
森中は二人のやり取りを黙って見ていた。研究所の無機質な壁と、内側に張られた柵。その異様さが、胸の奥にじわりと染み込んでいく。
――建物の奥へ。
扉の先は、想像以上に荒れ果てていた。
床一面に散らばる割れたガラス片。
天井の隙間から落ちた土と枯葉が積もり、そこを虫たちが住処にしている。
壁際では、羽音が一斉に立ち上がり、三人は思わず足を止めた。
「……うわ」
加賀美が小さく声を漏らす。
「踏むなよ」
葉加瀬は足元を睨みながら、慎重に前へ進む。
ガラスを避け、雑草を踏み分け、朽ちた床を選ぶように歩く。
中に進むにつれ、研究施設だった名残が見えてきた。
錆びた配管、壁に固定された計測機器、
用途のわからない古い制御盤や、ガラス張りの実験室。
葉加瀬はその一つ一つを眺め、ぽつりと呟いた。
「……こんな立派な施設、手放すなんてもったいないな」
その声は、どこか専門家のそれに近かった。
設備の配置、構造、動線――
彼女の目は“恐怖”よりも“評価”をしていた。
そのとき、森中が少し遅れて口を開く。
「……ねえ、思ったんだけど」
葉加瀬が足を止め、振り返る。
「やっぱり……じいじの秘密は、
じいじだけのものにしておいた方がいいのかなって思うの」
森中は視線を落とし、指先を握りしめていた。
葉加瀬は一瞬も迷わず答える。
「そりゃそうだ」
その即答に、森中の顔がわずかに曇る。
罪悪感と、迷いが滲む。
だが、葉加瀬は続けた。
「……それでも」
「なんとかしたくて、ここに来たんだろ」
森中は顔を上げる。
「お前はいいやつだよ」
「自分の育ててくれた人の心配して、子供だけでこんなところまで来てさ」
「私なんて……自分のことばっかりだった」
「自分が良くなりたいからって周りの大人のことを巻き込んでさ」
思い出すように、葉加瀬はそう呟く。その顔はどこか儚い。
しかし、不意に俯いていた顔をまっすぐ上げて、
「でもな、これだけは忘れちゃいけない」
「私たちがいくら不合理だ、とか、意味わかんない、とか思うことをされたとしても――」
「もし迷うようなことがあったら――」
葉加瀬は、歩きながら淡々と語る。
「それを導ける存在になりたいって、大人はみんな思ってるんだ」
「……こないだ、先生が言ってた」
少しだけ声の調子が柔らぐ。
「私が……大好きな先生」
その言葉に、森中は首を傾げた。
「へえ……」
「そんな先生、いたかなぁ……」
研究所の奥へ奥へと進むにつれ、空気が変わっていった。
埃と湿気、金属の古い匂いが混じり合い、音はやけに吸い込まれるように小さくなる。
葉加瀬は、廊下の突き当たりで足を止めた。
「……この部屋」
扉に手を当て、眉をひそめる。
「すごい分厚い扉だな……」
鉄製で、取っ手も無骨。
力を込めて押すが、びくともしない。
「俺もやるよ」
加賀美が横に並び、二人で体重をかける。
ぎ……ぎぃ……っ、と、長年閉ざされていた音を立てて、
ようやく扉が開いた。
だが――中にあったのは、さらに同じような扉。
「……二重?」
葉加瀬は一瞬だけ目を細め、考える。
「放射線の実験でもやってたのかな……遮蔽目的かも」
今度は言葉もなく、加賀美と息を合わせて再び扉を押し開ける。
重たい音とともに、最後の扉が開いた瞬間、
光が、そこで途切れた。
中は真っ暗だった。
外の明かりが一切差し込まない、防音された空間。
音が異様なほど吸い込まれ、三人の呼吸だけが妙に大きく聞こえる。
目を凝らすと、輪郭が浮かび上がってくる。
部屋は――ガラスの壁で、手前と奥に分かれていた。
奥側の空間は、床や壁が液体の跡で汚れている。
乾いて固まった染み、何度も洗われた痕跡。
ただの埃とは明らかに違う。
葉加瀬はガラスに近づき、しゃがみ込んで観察する。
「……奥が実験室で、手前が観察室かな」
「鏡像認知のテストとか……」
指で空中に図を描くようにしながら続ける。
「動物がガラスに体当たりしてできた汚れ……かも」
理屈を積み上げるように、言葉を並べる。
怖さよりも、理解しようとする癖が先に出ていた。
だが――
その背後で。
森中は、一歩も動けずにいた。
ガラス越しの奥を見つめたまま、瞳が揺れ、
呼吸が浅くなっていく。
「……ぁ……」
声にならない音が漏れた瞬間、
膝から力が抜ける。
「森中!?」
加賀美が振り返った時には、
森中はその場に崩れ落ちるように倒れ込んでいた。
床に手をつき、肩を震わせ、
視線はなおも、ガラスの向こうの暗闇から離れない。
「……っ」
駆け寄るのに迷いはない。
床に膝をつき、森中の肩を支えながら意識と呼吸を確認する。
脈はある。だが速く、浅い。顔色は悪く、冷や汗が滲んでいる。
「過換気……違うな、ショック反応に近い……」
低く、独り言のように呟きながら、顎を軽く持ち上げて気道を確保する。
加賀美が固まっているのを、鋭い声で現実に引き戻す。
「社長!」
びくっと肩を震わせた加賀美に向かって、即座に指示を飛ばす。
「AED……は流石にないか」
一瞬で判断を切り替え、声を張る。
「外出て! 救急車呼んで!!」
「わ、わかった!」
加賀美は弾かれたように走り出した。
葉加瀬は森中の体を慎重に抱え上げ、自分の背に回す。
小柄だが、力が抜けた体は思った以上に重い。
それでも歯を食いしばり、立ち上がる。
「……行くよ」
防音室を出て、二重扉を押し開け、崩れた廊下を駆ける。
ガラス片を避け、雑草を踏み越え、息を切らしながら外を目指す。
その途中、背中からかすれた声が聞こえた。
「……あ……の……」
森中が何かを言おうとしている。
葉加瀬は走る速度を落とさず、短く言い切った。
「今はしゃべるな」
それだけ。
声は冷静で、強かった。
研究所の出口が見える。
外の光が、やけに眩しく感じられる。
葉加瀬はただ前を見据え、
森中を背負ったまま、全力で外へと走り続けた。