――その日の夜。
救急車のサイレンも、研究所の埃の匂いも、
すべてが一段落して、
葉加瀬と加賀美は家の近くの道を並んで歩いていた。
街灯のオレンジ色の光が、アスファルトに長い影を落とす。
昼間の出来事を思い出せば重くなるはずなのに、
葉加瀬は、あえて軽い口調で話を振った。
「そういえばさ」
ポケットに手を突っ込んだまま言う。
「社長が欲しいって言ってたやつ、買取四千五百円になってたよ」
加賀美は一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに苦笑した。
「……もう結果残しちゃってるからね」
少し間を置いて、肩をすくめる。
「でも、もういいや」
「みんな使ってるカードで勝っても、楽しくないしさ」
その声音は、どこか強がっているようにも聞こえた。
葉加瀬は歩く速度を変えず、ちらりと横目で加賀美を見る。
「……酸っぱいリンゴ?」
見透かすような一言。
「ち、違うよ……!」
加賀美は慌てて否定し、視線を街灯の先へ逸らす。
「ほんとに、そういうんじゃなくて……」
葉加瀬はそれ以上追及せず、
ただ小さく鼻で笑った。
「はいはい」
二人の足音が、静かな住宅街に規則正しく響く。
昼間の重さを直接口に出さなくても、こうしてどうでもいい話をできること自体がどこか救いだった。
加賀美は、歩きながら少し間を置いてから口を開いた。
「……気になる? 森中さんのお父さんの話」
その問いに、葉加瀬は一瞬だけ足を緩めた。
昼間の、防音室の暗闇と、倒れ込む森中の姿が脳裏に蘇る。
「……もういいや」
顔をしかめ、吐き捨てるように言う。
「場違いな方向に飛んでって」
「余計なことまで考えて」
「その結果、誰も望まないような苦しみを味わった……」
声が低く落ちる。
「……バカな、女」
自分でも驚くほど冷たい言葉だった。
歩きながら、思考が勝手に巡り始める。
――もし、自分が彼女の立場だったら。
「じいじ」のことを、そこまでして何とかしたいと思うだろうか。
加賀美のこと。
あの両親のこと。
荒木のこと。
担任の先生の、あの視線の奥にあったもの。
もし彼らの“秘密”を知ったとして、
その苦しみを消したいと、本気で思うだろうか。
……分からない。知ることと、背負うことは違う。
助けたいと思うことと、踏み込むことは違うとも思う。
答えは、どこにも見つからない。
葉加瀬は顔を上げる。
沈みかけた太陽が、街の端で赤く滲んでいた。
その光に背を向けるように、
何も言わず、ただ前へ歩き続ける。
足元に伸びる影だけが、
やけに長く、静かに揺れていた。
葉加瀬は、何かを思いついたように足を緩め、
横を歩く加賀美をちらりと見た。
「……ねえ、社長」
「ん?」
「知りたいと思う?」
間を置いて、淡々と続ける。
「私のこと」
「柵のある施設に捕まってた時のこと」
「鎖で繋がれてた時のこと」
軽く言っているようで、その声はやけに静かだった。
試すようでもあり、突き放すようでもある。
加賀美はすぐには答えなかった。
歩みを止めはしないが、視線は前方のアスファルトに落ちている。
数秒――いや、もっと長く感じる沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「……俺は、そうは思わないな」
「……ただ」
それきり、また黙り込む。
足音だけが、二人分、規則正しく響く。
葉加瀬はその沈黙を面白がるように、顔を寄せてくる。
「ただ?」
「何? どうしたの?」
口元ににやにやとした笑み。からかう時の、いつもの表情――
……のはずだった。
だが、ふと目に入った加賀美の横顔を見て、その笑みをすっと引っ込めた。
「……社長?」
覗き込むように、顔を近づける。
夕日の赤が、彼の頬に影を落とす。
何も言わず、再び歩き出した。
――彼のその顔は、しばらく見たくはなかったのだ。