第二章 第一話:鼻歌
カウンター越しに、白い湯気が立ち上る。
家系ラーメン特有の、濃い豚骨と醤油の匂いが、店内にどっしりと居座っていた。
笹木咲は、珍しく迷いもなく箸を取り、麺を持ち上げる。
ずるる、と音を立てて啜る。
――重い。
脂も塩気も、全部が主張してくる。
(……たまにこういうの、食べたくなるねんな……)
胸焼けの予感すら含めて、嫌いじゃない。
むしろ、今日はこれくらい雑な味がちょうどよかった。
卓上のニンニクを見るか見ないかで一瞬だけ迷い、結局入れずに水を飲む。
大人になった、というより、明日を考えるようになった自分が少しだけ気に食わない。
カウンターの上の小さなテレビから、ニュースキャスターの落ち着いた声が流れてきた。
『――本日、ヘルエスタ王国第三皇女が来日。友好親善を目的とした公式訪問で――』
画面には、空港の映像。
フラッシュの嵐の中心で、銀色の髪を持つ少女が微笑んでいた。
作り物みたいに整った顔立ち、淡い色のドレス。
その一挙一動に、周囲の空気が張り詰めているのが、テレビ越しでも分かる。
そのすぐ隣。
皇女を半歩後ろから守るように立つ、赤髪の女性。
短く切り揃えられた髪に、ボーイッシュなスーツ姿。
視線は鋭く、けれど所作は無駄がなくて綺麗だった。
笹木は、ラーメンをもう一口啜りながら、ぼそりと呟く。
「……うちには縁のない話やんな……」
画面の向こうは、別世界だ。
王族だの外交だの、警護だの――自分の生活とは、線路が最初から違う。
どんぶりの底に沈むスープを見下ろしながら、ふっと肩の力が抜けた。
「小市民で良かったわ……」
ラーメン屋のカウンター。
脂と湯気と、夜のニュース。
ここには、命を賭ける理由も、国の名前も出てこない。
あるのは、明日の予定と、ちょっと濃すぎるスープだけだ。
テレビの中で、皇女が軽く会釈をする。
赤髪の側近は一瞬だけ周囲を見渡し、何事もないことを確認すると、静かに歩き出した。
笹木はそれを横目に、最後の麺を啜りきる。
店を出る直前、テレビの音声がもう一度、耳に引っかかった。
『――日本で楽しみにしていることは?』
インタビューに応じるヘルエスタ第三皇女は、少し考える素振りを見せてから、柔らかく微笑む。
『やはり、楽しみにしているのは……友人との食事ですかね』
その言葉に、スタジオがわずかに和む。
「意外と庶民的ですね」なんて、キャスターが無難な相槌を打っていた。
笹木は暖簾をくぐりながら、鼻で小さく笑う。
「皇女様と親しい友達なんて……どんなセレブなんやろなぁ……」
自動ドアが閉まり、ラーメン屋の匂いとニュースの音が、ぱたりと遮断される。
夜風が頬に当たり、フードの中に冷たい空気が流れ込んだ。
駅から少し外れた住宅街。
街灯の明かりはまばらで、アスファルトの影がやけに長い。
(友人との食事、ねぇ……)
頭のどこかで、さっきの皇女の笑顔が引っかかる。
けれどすぐに、「まぁええか」と思考を切り替え、アパートの方向へ足を進めた。
その途中。
「はぁ!? もう売れちゃったぁ!?」
甲高く、よく通る女性の声が路地に響いた。
思わず視線をやると、道沿いにある小さな古本屋。
年季の入った木の看板、色褪せたショーウィンドウ。
その前で、金髪の女性がカウンターに両手をついて身を乗り出している。
「この間は取っといてくれるって言ったじゃん! えー!? 聞いてない聞いてない!」
くるくる変わる表情。
金色の髪はふわっと巻かれていて、服装はどこか派手め。
声も身振りも大きくて、夜の静けさにまったく馴染んでいない。
カウンターの向こうで、店主らしき老人が困ったように肩をすくめる。
「いやぁ……別のお客さんがどうしても、って言うもんでね……」
「そんなぁ……! もうどこ探しても無いのにぃ……!」
金髪の女性は、その場でがくりと項垂れた。
さっきまでの勢いが嘘みたいに、背中がしょんぼりと丸まる。
その様子を横目に、笹木は歩きながら小さく呟いた。
「……なんやあいつ……」
半目のまま、特に立ち止まることもなく通り過ぎる。
古本屋の灯りと、やけに賑やかな声は、数歩進めばもう背後だ。
再び、静かな夜道。アパートはもうすぐそこだった。
翌日、昼前の事務所。
カウンター奥から、やけにご機嫌な鼻歌が聞こえてきていた。
リズムも音程も微妙に自由。
だが、歌っている本人はまったく気にしていない様子だ。
赤羽葉子は、エプロン姿のまま前のめりになり、
書類の束をトントンと揃え、ファイルに差し込み、
時折くるりと回っては、また次の雑務に取りかかっている。
いつもより動きが軽い。
というか、明らかにテンションがおかしい。
その様子を、机に腰を下ろした咲が胡乱な目つきで眺めていた。
「……なんや薄気味悪い……」
椅子に深く座り直し、机に肘をつきながらぼそっと呟く。
その声に、赤羽はぴたりと鼻歌を止め――
にこーっ、と満面の笑みで振り返った。
「いやぁ……最近、仕事が楽しくってぇ……」
そのまま、まるで聞いてほしかったと言わんばかりに続ける。
「だって、こないだ……あの加賀美社長がいらしてたって言うじゃないですか!」
がりがり、とコーヒーミルを回しながら、声が一段上ずる。
「すごくないです!? 生・社長ですよ!?
スーツばっちりで、声も低くて、余裕あって……」
粉の落ちる音に合わせて、赤羽のテンションも上がっていく。
「叶君もそうだったけどぉ……
やっぱりこの仕事やってると、イケメンに会える確率、高いんだなぁって……」
完全に浮かれていた。
コーヒー豆を挽く手つきもどこか軽やかで、
湯を沸かす準備まで、やけに手慣れて見える。
笹木は、机に頬杖をついたまま、半目になる。
「……お前、理由それだけでここおんの?」
「えぇ? それ“だけ”って言います?」
赤羽はケトルをセットしながら、くすくす笑う。
「お仕事もちゃんとやりがいありますし?
人の役に立ってる感じもしますし?
ついでに目の保養もあって……一石三鳥じゃないですかぁ」
「価値観が軽すぎるわ……」
笹木はため息をつき、書類を一枚引き寄せる。
けれど、赤羽の様子を見ていると、
以前のどこか張りつめた雰囲気は、確かに薄れていた。
歌はまた再開され、事務所にはコーヒー豆の香ばしい匂いが広がっていく。
「まあ……でも、これだけ元気なら、仕事も捗りそうやな!」
机に肘をついたまま、笹木は軽く笑ってそう言い、
「な! 椎名!」
と、部屋の奥――簡易ベッドの方へ声を投げた。
しかし。
赤羽が前のめりで雑務をこなし、鼻歌まで歌っているのとは対照的に、
椎名唯華はベッドの上で、微動だにせず横たわっていた。
胸の上には、やたらと存在感のある大きな鳩のぬいぐるみ。
両腕でそれをぎゅっと抱きしめたまま、虚空を見つめている。
「……うちは……うちは、もう限界や……」
かすれた声。
返事というより、うわ言に近い。
笹木は眉をひそめ、椅子を少し引いてそちらを見る。
「……どうしたんやこいつ……」
様子を伺うように視線を向けると、
椎名はぬいぐるみに顔を埋めたまま、ぼそぼそと続けた。
「こんな……ぬいぐるみじゃ、もう……接種できひん……」
「……うう……」
意味の分からない単語と、弱々しい呻き声。
笹木はそれ以上近づくこともなく、
ただ半目のまま、その光景を眺めていた。
赤羽がコーヒーの準備を終え、次は来客用の書類を整えようとした、その時。
――ピンポーン。
事務所のチャイムが、静かな空気を軽く揺らした。
「はーい、いらっしゃいま……」
いつもの調子で、赤羽はにこやかに扉を開ける。
――そこで、言葉が一瞬、止まった。
立っていたのは、碧星院高校の紺色の制服を着た少女。
淡い色の髪に、どこか控えめな立ち姿。
鞄を両手で持ち、視線は少し下向きだった。
赤羽は一拍置いてから、戸惑い気味に声をかける。
「えっと……」
「碧星院高校の方……ですよね?」
制服に見覚えはあるが、顔に覚えはない。
しかし少女は、その問いには答えず――
少しだけ間を置いてから、ぽつりと口を開いた。
「……かざちゃん、います?」
呼び方が、妙に近い。
「その……森中花咲」
名前を呼ぶとき、ほんの少しだけ言い淀む。
どこか、タイミングを間違えたみたいな声音だった。
赤羽はきょとんとしたまま、背後の事務所内をちらりと見回す。
「えっと……」
「今は……非番ですかね……」
その言葉を聞いて、少女は小さく肩を落とした。
「……なんだ……」
視線を外し、ぽつぽつと独り言のように続ける。
「せっかく、勉強教えてほしい人がいるって……」
「教官から言われたから、来たのに……」
赤羽は、その制服と、今出た「勉強」という単語を頭の中で結びつけ――
はっと、目を見開いた。
「……あっ」
そして、一歩だけ前に出て、驚いたように声を上げる。
「もしかして……あなたが、むぎさん!?」
赤羽は慌てて身を引き、事務所の中へむぎを招き入れた。
「ど、どうぞ……こちらに……」
応接用の椅子を引き、座るよう促すと、むぎは素直に腰を下ろす。
姿勢は良いが、どこか力が抜けていて、来客というより“用事ついで”といった雰囲気だった。
「すぐコーヒー淹れますね」
そう言って、赤羽はカウンターの奥へ回る。
ミルに豆を入れ、ハンドルを回すと、がり、がり、と乾いた音が事務所に響いた。
「……そういえば……」
独り言の延長みたいな軽い調子で、赤羽は話し始める。
「私、この前……リリさんと、違法ドラッグ追ってたんですけど……」
がり、がり。
「……あれって……どうなったんですかね……?」
首を傾げるような声。
「えっと……名前……」
「カールなんとか……みたいな名前だったと思うんですけど……」
豆を挽く手は止まらない。
ただの世間話のつもりだった。
その問いに、むぎは一拍も置かず、涼しい顔のまま口を開く。
「カール・マッカートニー?」
確認するような、けれど確信に満ちた声音。
赤羽が「あ、たぶんそれです」と言うより早く、むぎは続けた。
「私が殺してきたよ」
あまりにも平坦で、
あまりにも事務的な言い方だった。
がり、がり、がり――
ミルの音が、途中で止まる。
「ひっ……」
喉の奥から、息がひきつる音が漏れた。
赤羽の背筋を、氷水が一気に流れ落ちたような感覚。
指先が、わずかに震える。
赤羽の脳裏に、ふいに声が蘇った。
(今頃は……この世にはいないよ)
あの時の、叶の何でもない調子。
冗談みたいで、冗談じゃなかった一言。
「……そうだった……」
顔から、すっと血の気が引く。
「……聞くんじゃなかった……」
小さく呟き、赤羽はそれ以上考えるのをやめるように、
黙ってドリッパーに挽いた豆を移した。
お湯を注ぐと、ふわりと立ち上るコーヒーの香り。
それだけが、今の現実感を繋ぎ止めてくれる。
カップを二つ用意し、慎重にむぎのもとへ運ぶ。
「ど、どうぞ……」
カップを差し出しながら、赤羽は言いかけて、口を閉じた。
「そういえば……」
――視線が、ふとむぎの制服に向く。
むぎさん……パジャマじゃないんですか……なんて
やっぱり……殺し屋さんには聞けないよなぁ……
頭の中で浮かんだ言葉を、慌てて引っ込める。
「何?」
むぎが、変わらない調子で首を傾げる。
一歩、ほんの少しだけ距離を取り、ぺこりと頭を下げた。
「な、何でもありません……」
「申し訳ありませんでした……」
場違いなくらい丁寧な声音。
その瞬間――
「あれ、むぎちゃん?」
事務所の奥、事務所の外から、間の抜けた声が飛んできた。
「今日は制服着て来たんだ〜」
呑気で、いつも通りの森中花咲の声だった。