大通りの喧騒を背に、二人は少し奥まった細い路地へと足を踏み入れた。
途端に、空気が変わる。
赤羽は、理由の分からない寒気に、無意識に腕を抱いた。
皮膚の表面をなぞるような冷えではなく、体の内側からじわりと冷えてくる感覚。
(……まだ、冬が完全に終わってないからかな……)
そう思おうとしたが、
吐いた息は白くならない。
風も、吹いていない。
なのに――寒い。
靴音が、やけに遅れて響く。
自分の足が地面に触れてから、一拍遅れて音が追いついてくるような、奇妙なズレ。
そのとき。
「……来たな」
江良が、低く呟いた。
その声だけが、やけにはっきりと聞こえた。
「え……? な、何がですか……?」
赤羽が振り返ると、
江良は何も答えず、腕を持ち上げる。
「時計、見てみ」
促されるまま、赤羽は視線を向ける。
――腕時計は、そこにあった。
針も、デジタル表示も、確かに視界に入っている。
なのに。
脳が、それを“時計”として認識しない。
数字が、意味を持たない。
形は見えているのに、「時間」という概念が、すり抜けていく。
(……なに、これ……)
瞬きをしても、状況は変わらない。
ふと気づく。
路地全体が、どこか青みがかっている。
夕方でも、曇りでもない。
色温度が狂ったような、冷たい青。
コンクリートの壁は、湿っているわけでもないのに、
まるで水の底に沈んでいるかのように、輪郭が滲んで見える。
遠くで聞こえていたはずの車の音が、いつの間にか消えている。
代わりに――
低く、一定の音。
ぶうん……
ぶうん……
何かの機械音のようで、心臓の鼓動のようでもある。
どこから鳴っているのか、分からない。
赤羽の喉が、ひくりと鳴る。
「……え……?」
「……なに、ここ……?」
足元を見ると、影の向きがおかしい。
光源が定まっていないのに、影だけが勝手に伸び縮みしている。
時間が、歪んでいる。
空間が、噛み合っていない。
理解するより先に、
本能が「ここはおかしい」と告げていた。
江良は、赤羽を一瞥し、口角を上げる。
「ちょっくら、行ってくるわ!」
その手にあった、小さな瓶。
赤い絵の具のようだった液体が、
ぱち、と光を放った次の瞬間――
消えた。
液体も、瓶も、
最初から存在しなかったかのように、跡形もなく。
「え――!?」
赤羽が声を上げる間もなく、
江良は路地の奥へと駆け出す。
だが、その走りは、途中でおかしくなった。
地面を蹴ったはずの足が、
次の瞬間には――
浮いている。
ふわり、という生易しいものではない。
重力そのものが、そこだけ切り取られたように、
江良の身体は前へ、上へ、滑るように移動していく。
「……っ!」
赤羽の視界の端で、
江良の姿が、青い空気の向こうへ溶ける。
路地の向こう側が、
まるで別の層につながっているかのように歪み、
そこへ吸い込まれるように――
江良は、消えた。
残された赤羽の周囲で、
低い音が、少しだけ大きくなる。
ぶうん……
ぶうん……
時計は、まだ見えている。
けれど、時間は――存在していなかった。
青く歪んだ路地の奥へ消えていった背中を見上げて、赤羽は呆然と呟いた。
「……魔法使いだったんだ……」
納得よりも、現実逃避に近い声音。
次の瞬間、我に返って声を張り上げる。
「ちょ、ちょっと! 置いていかないでくださいよ!」
そう叫び、赤羽は一人、路地の奥へと走り出した。
――だが。
一歩、二歩と踏み出すごとに、感覚がおかしくなる。
足は確かに前へ出ている。
息も、鼓動も、走っているそれだ。
なのに――景色が動かない。
進んでいるはずなのに、距離が縮まらない。
まるで、見えない床の下で何かが逆回転しているような。
ランニングマシン。
その言葉が、唐突に頭に浮かぶ。
「……っ、なに、これ……」
力を込めても、体は前へ行かない。
むしろ、重く、鈍くなっていく。
空気が、さらに冷たくなる。
肺に吸い込むたび、青い霧のようなものが胸の奥に溜まっていく感覚。
やがて、足がもつれる。
「はぁ……っ……はぁ……っ……」
限界だった。
赤羽は路地の途中で膝に手をつき、
そのまま、ずるりと座り込んだ。
「……どうなってんの、ここ……」
声は、驚くほど小さく、頼りない。
冷たい地面の感触が、制服越しに伝わる。
逃げ場のない寒さが、じわじわと身体を包み込み、
意識まで薄く削っていくようだった。
――そのとき。
足音がした。
規則正しく、軽い。
この青い空間には不釣り合いなほど、自然な歩調。
顔を上げると、
白いフードを被った少女が、何事もないようにこちらへ歩いてくる。
影の落ち方が、少しだけおかしい。
輪郭は柔らかく、どこか現実感が薄い。
少女は赤羽の前で立ち止まり、
穏やかな声で言った。
「大丈夫だよ」
それだけ。
慰めるでも、急かすでもない。
まるで、最初からそうなると知っていたかのような声音。
少女は、赤羽の手を取った。
ひんやりしているはずなのに、
触れた瞬間、不思議と恐怖が薄れる。
引き上げられると、赤羽の身体は――
抵抗なく、立ち上がった。
さっきまでの重さが、嘘のように消えている。
「……え……?」
自分の足で立っていることが、信じられない。
「あ……ありがとうございます……」
赤羽は、戸惑いながら礼を言い、
改めて、その少女の顔を見つめた。
フードの影に隠れた表情は、よく見えない。
けれど、どこか落ち着いていて、
この異質な空間に溶け込むような気配だけが、確かにそこにあった。
少女は、何も言わず、
ただ静かに、赤羽を見返した。
白いフードの少女は、来た道をそのまま引き返していった。
足取りは相変わらず自然で、
青く歪んだ空間の中を、まるで普段の路地を歩くかのように進んでいく。
その背中が角を曲がって見えなくなった瞬間――
空気が、ふっと緩んだ。
青みがかった色調が薄れ、
壁のコンクリートは本来の灰色を取り戻し、
遠くで車の走る音や、人の話し声が、じわじわと戻ってくる。
冷たさも、異様な重さも、嘘みたいに消えていた。
「……あ……」
赤羽が息を吐いた、その時。
――ひゅん、と風を切る音。
路地の先、上空から、
江良がそのまま空を滑るように戻ってきた。
地面に着地するや否や、赤羽の方へ駆け寄る。
「大丈夫だった!?」
珍しく、本気で焦った声。
「マジでさ、あの空間で動きすぎると――」
「最後、何もできなくなるから……!」
赤羽は、まだ半分ほど放心したまま、
何度か瞬きをしてから、ようやく頷いた。
「え、ええ……」
「なんとか……」
それから、遅れて実感が追いついたように、江良を見る。
「……江良さん……」
「魔法使いなんですか?」
一拍置いて。
「そっちの方が……驚きなんですけど……」
江良は、あっさりと親指を立てた。
「そっ」
何でもないことのように。
「かざちゃんと、同じだよん」
軽い口調。
それから、さっきまで歪んでいた路地を振り返りながら、続ける。
「今のが――閏時」
短く、しかしはっきりと。
「巷では認識されない、時間のずれだよ」
赤羽は、ごくりと喉を鳴らす。
「本当はね」
「誰も分からないくらい、あっという間になくなるんだけど……」
江良の声が、少しだけ低くなる。
「何故か最近は」
「それを弄って、誰かをその空間に閉じ込めてる奴がいるんだよね」
冗談めかした調子は消え、
代わりに、確かな警戒が滲んでいた。
昼の路地は、もう完全に元通りだった。
その日の夜。
御伽原と別れた赤羽は、少し息を弾ませながら、ガラス張りのビルの前に立っていた。
昼間とは違い、ビルの外壁は夜の光を反射して、どこか無機質にきらめいている。
「……やっぱり、気になるよね……」
独り言のように呟き、そのまま中へ入る。
ロビーには、仕事を終えたサラリーマンたちが三々五々、
ネクタイを緩め、スマホを見ながら出口へ向かっていた。
その流れを逆行するように、赤羽は足早にエレベーターへ乗り込む。
扉が閉まる直前、疲れた表情の男性と目が合い、
何となく気まずくなって視線を逸らした。
――ウィン。
目的の階で扉が開く。
赤羽はほとんど小走りで廊下を進み、
いつもの事務所の前まで来て、ぴたりと足を止めた。
中は暗い。
ガラス越しに見えるはずの照明は点いておらず、
ドアノブを軽く引くと、鍵がかかっている感触が返ってきた。
「……え?」
思わず、もう一度だけ確かめる。
――やっぱり、閉まっている。
スマホの時計を見る。
まだ夜遅くと呼ぶほどの時間じゃない。
赤羽は、しばらくその場に立ち尽くしてから、
小さく肩を落として呟いた。
「……本当、この事務所って……」
「やる気、無いよなぁ……」
廊下の静けさが、その言葉を吸い込んでいった。
ガラスの向こうの暗闇を見つめたまま、
赤羽は、その場から動けずにいた。
ビルを背に、赤羽は夜道を歩き出した。
「……こんなんで、本当に儲かってんのかな……」
誰に聞かせるでもない小言を、ぶつぶつと零しながら。
ガラス張りのビルはすぐ背後に遠ざかり、街灯の間隔も少しずつ広がっていく。
しばらく歩いて、赤羽はふと違和感を覚えた。
――人が、いない。
夜遅くというほどの時間じゃない。
本来なら、仕事帰りの人や、飲みに向かうグループがぽつぽついるはずなのに、
通りには足音も、話し声も、車の走る音すらほとんどない。
静かすぎる。
その事実が、じわじわと不安を煽る。
「……私も、はやく帰ろ……」
無意識に歩幅を速める。
その瞬間――
ぞくり、と。
背中を撫でるような寒気。
赤羽は肩をすくめ、腕を抱いた。
「……さむ……」
言葉にした瞬間、はっとする。
(……あれ?)
さっきまで、寒さなんて感じていなかった。ただ歩いていたはずなのに。
空を見上げる。
――月が、赤い。
見間違いではない。
白でも、橙でもない。
血を薄めたような、不自然な赤。
雲がかかっているわけでもなく、
街のネオンが反射しているわけでもない。
月そのものが、赤い。
「……っ」
喉が鳴る。
その瞬間、気づく。
この寒さ――
昼間、あの路地で感じたものと、同じだ。
皮膚の表面ではなく、
身体の内側から締め付けてくる、あの冷え。
足元を見ると、黒ではなくどこか赤みを帯び、濡れてもいないのに、光を吸い込むように沈んで見える。
街灯の光が、妙に弱い。
照らされているはずの場所が、
一歩先で、すっと闇に溶けていく。
遠くの建物が、歪む。
直線だったはずの輪郭が、
ゆっくりと呼吸するように、膨らんだり縮んだりしている。
音が、消える。
自分の足音が、途中で途切れる。
コツ、……、……。
最後まで返ってこない。
赤羽の心臓が、嫌に大きく脈打つ。
(……まさか……)
脳裏に、昼間の言葉が蘇る。
――閏時。
夜の街のはずなのに、
ここはもう「夜」ではない。
赤い月が照らす空間は、
時間から切り離された、薄暗い箱の中みたいだった。
赤羽は立ち尽くす。
寒さに、ではない。
この場に閉じ込められたという確信に。
影が、足元で不自然に伸びる。
光源の位置を無視して、
赤羽の影だけが、じりじりと後ろへ這っていく。
逃げなきゃ、と思うのに、
足に力が入らない。
昼間よりも、ずっと深い。
誰の気配もない夜の街で――意図せず、再び閏時の中に、迷い込んでいた。
赤い月に照らされた街の中で、赤羽は荒く息をついた。
――逃げる?
――隠れる?
そのどちらでもない、と気づいた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
(……そういえば)
思えば――
まだ試していない。
赤羽は、静かに目を閉じる。
恐怖ではなく、集中。
意識を、自分の“内側”へと沈めていく。
そして、目を開いた。
右目が、鈍い緑。
左目が、深い赤。
夜の闇の中で、そのオッドアイが微かに光を宿す。
――世界が、裏返った。
視界はもはや、形や色だけではない。
空間そのものが、情報として流れ込んでくる。
建物の中に残った人の気配。
遠くの路地を歩く誰かの足取り。
さらにその奥――
血の巡り。
心拍の速さ。
肺の膨らみ。
不安、苛立ち、安堵、虚無。
感情が、温度や重さを持って伝わってくる。
数百メートル――
いや、数キロ先まで。
赤羽の感覚は、街全体に薄く広がっていった。
(……いる)
駅の方角。
人間の形をしている。
だが、どこか歪んだ存在感。
感情が、妙に平坦で、
血の流れが、滑らかすぎる。
生きているのに、
生き物らしくない。
赤羽の口元が、わずかに引きつった。
「……見つけた」
声は低く、確信に満ちていた。
次の瞬間――地面を蹴る。
音は、遅れてやってきた。
赤羽の身体は、
もはや“走る”という動作を超えている。
街灯が、線になる。
建物が、壁のように流れ去る。
重力の感覚が曖昧になり、
足が地面についているのかさえ分からない。
それでも、方向は完璧だった。
血の匂い。
感情のざらつき。
異物のような存在感。
それらを“第六感”として掴み取りながら、
赤羽葉子は――赤い月の下、人並み外れた速度で獲物へ向かって、飛ぶように駆けていった。
赤い月の下を裂くように駆けていた、その最中。
――前方から、声がした。
「ヤベ……見つかっちゃった!」
軽い。
切迫感があるはずなのに、どこか冗談めいた響き。
次の瞬間。
赤羽の第六感に引っかかっていた異物のような気配が、
ぶつりと途切れた。
感情のざらつきも、
不自然な血の流れも、
まるで最初から存在しなかったかのように――消える。
「……っ」
同時に、世界が軋み始める。
空気の青みが薄れ、
歪んでいた建物の輪郭が、ゆっくりと正しい形に戻っていく。
飛ぶような疾走が、
走りに変わり、
やがて、ただの足取りになる。
最後に一歩踏み出したところで、赤羽は立ち止まった。
――音が、戻る。
車のエンジン音。
遠くの踏切。
誰かの笑い声。
夜の街の喧騒が、
何事もなかったかのように、耳へ流れ込んでくる。
赤羽は、しばらくその場で息を整えた。
心臓の鼓動が、ようやく普通の速さに戻る。
「……」
ゆっくりと、自分の手を見る。
指を開き、閉じ、確かめるように動かす。
足元。
靴。
制服。
全部、いつも通りなのに――身体の奥だけが、まだ熱を帯びていた。
「……おお……」
思わず、声が漏れる。
「……こんなことも、できるんだ……」
赤と緑だった視界は、いつの間にか元の色に戻っている。
だが、感覚の残滓だけが、まだ消えない。
遠くを見れば、さっきまで追っていた“何か”が、確かにそこにいたという確信だけが残っていた。
夜の街が完全に日常の顔を取り戻した、その少し後。
人の流れの隙間を縫うようにして、
遅れて――白いパーカーの少女が、こちらへ歩いてきた。
昼間と同じ、何事もなかったかのような足取り。
まるで最初から、この場所に“来る予定だった”みたいに。
「……今度は、大丈夫そうだね」
柔らかく、けれど断定的な声。
赤羽のすぐそばまで来ると、
少女は夜の街を一度だけ見回し、続ける。
「そう」
「力がある子が、空間に呑まれずに向かっていけば――」
少しだけ、声を落とす。
「たとえ閏時でも、そんなに怖くないの」
その言葉には、慰めよりも事実の説明に近い響きがあった。
赤羽は、まだ高鳴りの残る胸を押さえながら、少女を見る。
「……御伽原さんが言ってた人……」
「見つけました」
夜風に紛れそうな声で、けれど確かに。
「あれが……例の『死神』なんですかね……」
すぐには答えない。ただ、赤羽の言葉を否定も肯定もせず、静かに聞いている。
赤羽は、言葉を続けた。
「でも……」
「なんで、こんなことするんだろ……」
昼間の青い空間。
赤い月。
それらを思い返すたび、胸の奥がざわつく。
「……早く止めないと」
「大変なことになりそうです」
少女は、少しだけ首を傾げる。フードの影に隠れた表情は、やはりよく分からない。
けれど、その雰囲気だけが、どこか――
柔らかさと、得体の知れなさを同時に帯びていた。
少女は、赤羽に近い距離で立ち止まり、
静かに、しかし確かな調子で告げる。
「理由はね……」
「たいていの場合、そんなに立派なものじゃないよ」
夜の喧騒の中で、その声だけが、不思議と澄んで聞こえた。
「でも――」
そこで、ほんの一瞬だけ、少女の口元が緩む。
「止めたいって思えたなら」
「もう、君は“巻き込まれる側”じゃない」
その言葉が、
赤羽の胸の奥に、静かに沈んでいった。
夜の街は、何も知らないまま、いつも通りに動き続けている。