都内にある一角。
昼どきの学生食堂は、ざわざわとした音で満ちていた。
トレーがぶつかる音。
椅子を引く音。
どこかのテーブルから聞こえてくる笑い声。
赤羽は、少し湯気の立つラーメンを啜りながら、向かいの席に座る江良に話しかけた。
「大学って……」
「良いもんですね」
ぽつりとした感想だった。
江良は頬杖をつき、視線を宙に投げたまま鼻で笑う。
「まあな」
「でも、自由な分――」
一瞬、言葉を選ぶように間を置く。
「自分でやんなきゃいかんことも、多いぞ」
赤羽が「へぇ……」と相槌を打つと、
江良は視線をずらし、どこか苦い表情で続けた。
「……適当に過ごしてるとさ」
「マジで、置いてかれるしな」
妙に実感のこもった口調だった。
そのとき、背後のテーブルから、ひそひそとした声が聞こえてくる。
「なあ、聞いた?」
「行動生理学、持ち込み禁止になるらしいぜ」
江良は、その会話にぴくっと反応し、
箸を止めて小声で呟いた。
「……マジかよ……」
一瞬だけ遠い目をしたあと、
すぐに咳払いして、赤羽に向き直る。
「……で」
声のトーンが、少しだけ変わる。
「見つけたのか」
「閏時を、引き延ばしてるやつ」
赤羽は、ラーメンの丼をそっとテーブルに置き、江良をまっすぐ見た。
「あの夜……」
「駅の方に、いました」
食堂の喧騒の中で、その声だけが少し低くなる。
「あの空間だけ……」
「気配が、明らかに違ったんです」
江良は黙って聞いている。
「わかるんです」
赤羽は、少しだけ息を吸い――
目を開いた。
右が緑。
左が赤。
ほんの一瞬で変わるオッドアイに、
江良は思わず目を見開いた。
「私が、赤い左目で見ると……」
「空間にいる人間の動きとか」
「血の巡りとか……感情の波が、分かるんです」
怖がらせるつもりはない。
事実を、そのまま言葉にしているだけだった。
江良は、無意識に唾を飲み込み、
こめかみにじんわりと汗を滲ませる。
「……お前のそれは……」
視線を逸らし、低く呟く。
「……ちょっと、普通じゃないな」
少し間を置いてから、真剣な目で赤羽を見る。
「魔法使い、なのか?」
「それとも……」
「お前のそれは、対価とか供物を必要としないのか?」
問いは、探るようでいて、
どこか警戒も含んでいた。
赤羽は、首を横に振る。
「違います」
はっきりと。
「霊能力者なんです」
江良の眉が、わずかに動く。
「最初は……」
「使い方も、何も分からなくて」
赤羽は、両手を軽く握りしめる。
「でも最近……」
「段々と、できることを“思い出してきて”……」
自分でも不思議そうに、言葉を選びながら。
「話すと……ちょっと、長くなるんですけど……」
そこで言葉を切り、
赤羽は小さく笑った。
昼休みの時間帯が終わり、
学生食堂のざわめきは、潮が引くみたいに静まっていった。
空いたテーブル。
片付け途中の食器。
さっきまでの雑音が嘘のようだ。
赤羽は、少し俯いたまま、ぽつりと続けた。
「……ただ、それだけじゃないんです」
江良の視線が向く。
「白いパーカーの人が……助けてくれたんです」
言葉を確かめるように、ゆっくり。
「御伽原さんと二人でいた時に……」
「手を取って、私を引っ張り上げてくれて」
昼間の青い空間。
あの冷たさと、ぬくもり。
「夜の時も……」
「私を、励ましてくれて……」
言い終わると、赤羽は顔を上げた。
江良は、箸を持ったまま動かない。
眉を寄せ、じっと赤羽を見つめる。
「……ひょっとして」
声が低くなる。
「そいつが、犯人なんじゃね?」
疑い。
魔法使いとしての、直感。
だが、赤羽はすぐに首を横に振った。
「……それは、違うと思います」
迷いはなかった。
「駅にいた人とは……」
「感じが、全然違いました」
言葉を探しながら、続ける。
「なんというか……」
「誰も寄せ付けないような……歪な雰囲気で……」
江良は黙って聞いている。
少しの沈黙の後、赤羽は考え込むように言った。
「……駅にいた人は……」
一度、息を吸う。
「寄せ付けない、というより……」
「罠を張ってる蜘蛛、みたいな……」
甘くて、逃げ道のない感じ。
「優しそうで……」
「でも、近づいたら終わり、みたいな……」
そして、赤羽は言葉を選ぶように、しばらく黙った。
迷い。
躊躇。
それでも、口を開く。
「……何というか……むしろ……」
視線が、江良に向く。
「江良さんや……」
「森中さんの方が……」
小さく、しかしはっきり。
「駅にいた人と……」
「似た感じが、したんです」
その瞬間。
「……お前、それってどういう――」
江良の目が鋭くなる。
一瞬、苛立ちが表に出た。
だが。
次の瞬間、江良の表情が変わる。
――はっとしたように。
「……あ」
箸を置き、低く呟く。
「……そうか」
視線が、テーブルの一点に落ちる。
「犯人も……」
「魔法使い、ってことか」
学生食堂の静けさの中で、その言葉だけが、重く残った。
赤羽は、少し迷うように視線を泳がせてから、江良に声をかけた。
「……御伽原さん……」
「なんか……ゲームで見たことある気がするんですけど……」
言い終わる前に――
「待ちな」
江良が、ぴしっと手を上げて制した。
その表情は、さっきまでの軽さが抜け落ちている。
「作戦会議するんならさ」
「まず、そのパーカーの女を探さない?」
赤羽が瞬きをする。
「お前の読みじゃ――」
「そいつ、魔法使いじゃないんだろ?」
確認するような口調。
「霊能力者か、他の何かかは知らんけど……」
一拍置いて、続ける。
「多分な」
「そいつが敵じゃないなら――」
江良の視線が、まっすぐ赤羽に向く。
「閏時を攻略するための、手掛かりになる」
それは提案というより、ほとんど結論だった。
江良は、トレーを片付けるでもなく、そのまま立ち上がる。
「私も行くよ」
迷いはない。
「だからさ――」
「一旦、あんたのバイト先に戻ろっか」
軽く顎で示す。
「情報は多い方がいいし」
「……何より、あそこなら“変な話”しても浮かないだろ」
赤羽は一瞬きょとんとしたあと、
小さく笑って頷いた。
「……確かに……」
学生食堂には、もう人影はまばらだった。
ガラス張りのビルの自動ドアが、静かに開く。
中へ足を踏み入れた瞬間、外の空気とは切り離されたような、ひんやりとした空調の気配が肌を撫でた。
床に反射する照明は均一で、磨かれすぎたロビーは生活感がなく、音が吸い込まれていく。
通勤時間帯はとうに過ぎているのだろう。
広いロビーに人の姿はなく、聞こえるのは靴底が床を叩く音だけだ。
受付の脇では、制服姿の警備員が一人、モニターを眺めながら巡回している。
視線が一瞬こちらに向くが、すぐに興味を失ったように戻される。
それ以外には、誰もいない。
ロビーの奥に並ぶエレベーターの前に立ち、呼び出しボタンを押す。
電子音が一つ鳴り、表示が静かに変わった。
扉が開く。
中に入り、無機質な操作盤へ指を伸ばす。
上の階――目的の階のボタンを押すと、低く鈍い音と共に扉が閉まった。
次の瞬間、身体がふっと浮く。
足元から重力が抜けるような感覚。
エレベーターは滑るように、しかし確かな速度で上昇していく。
耳が、きん、と鳴る。
数字が次々と切り替わり、階数はあっという間に跳ね上がっていく。
時間の感覚が、少しだけ曖昧になる。
――チン。
短い到着音。
体感では、ほんの一瞬だった。
だが表示は、すでに目的の階を示している。
扉が左右に開き、
静まり返った廊下が、その向こうに姿を現した。
廊下を進んでいくと、やがてガラス張りの扉が視界に入る。
白い文字で記された看板。
――都市伝説研究センター。
中の様子は、ガラス越しにはよく見えない。
照明は点いているが、人影はぼんやりとした輪郭しか分からなかった。
その扉に、誰かの手がかかる。
ガチャ、と小さな音。
続いて、扉が開いた瞬間――
カラン、カラン。
ドアベルの軽い音が、センター内に響いた。
誰かが、そのまま中へ足を踏み入れる。
その姿を認識した瞬間だった。
「……お……」
中にいた笹木咲が、目を見開く。
「お……おま……」
声が喉で引っかかり、
次の言葉が出てこない。
「お前ぇ!!」
露骨な驚愕と、
反射的な拒絶が混じった表情。
「あっ……」
一歩、後ずさる。
「ああっ……!!」
指を突き出したまま、
驚きが身体のバランスを奪い――
どさっ、と。
笹木はその場で尻もちをついてしまった。
床に座り込んだまま、
震える指で“それ”を指し示し、
目だけは逸らせずにいる。
センター内には、
ドアベルの余韻だけが、
ちりん……と、遅れて消えていった。