事務所の扉を開けた瞬間、
中の空気が――明らかにおかしかった。
照明は点いている。
だが、人の気配が沈みきっている。
机の前の椅子に、笹木咲がだらりと寄りかかっていた。
背中は丸まり、腕は力なく垂れ、
目は開いているのに、どこも見ていない。
「……?」
赤羽は一瞬だけ嫌な予感を覚え、それを振り払うように駆け寄った。
「ちょ、ちょっと!」
「店長! 起きてください、店長!」
両肩を掴んで、ぐらぐらと揺さぶる。
「行ってきましたよ! 閏時!」
「ガチのやつです! 青くなって、赤い月で――!」
だが。
「……終わりや……」
笹木の口から、か細い声が零れた。
「もう……終わりや……」
揺さぶられても、抵抗する力はない。
ただ、虚ろな目のまま、天井の一点を見つめている。
「早く……引っ越さな……」
まるで、
“何かを見てしまった人間”のような呟き。
少し離れた場所で、椎名唯華はその光景をじっと眺めていた。
放心状態の笹木。
揺さぶり続ける赤羽。
背後で腕を組む江良。
(……このままやと、埒あかんな)
椎名は顎に手を当て、数秒だけ考え――
ふっと、何かを思いついたように目を細めた。
気配を殺し、音も立てずに回り込む。
赤羽の背後へ。
そして。
両肩に、急に手を置いて――
「わっ!!」
「きゃあああ!!」
事務所の外まで響くほどの、甲高い悲鳴。
赤羽はその場で跳ね上がり、
江良が思わず耳を塞ぐほどだった。
同時に。
「うわっ!!」
笹木が、魂を引き戻されたみたいに飛び上がる。
「お、おお……!」
「ばねさん……どないしたん……?」
焦点の合わなかった目が、ようやく現実に戻る。
「あっ……ご、ごめんなさい……!」
赤羽は自分の声の大きさに驚き、
慌てて両手で口を押さえた。
その様子を見て、笹木は一度深く息を吐き、
だるそうに視線をずらす。
――江良の方へ。
「……なんやお前……」
「この間、古本屋におったクレーマーやないか……」
力の抜けた声音。
「……うわ……」
江良は頭を掻きながら、気まずそうに目を逸らす。
「あれ……見られてたのか……」
そして、ぼやくように続けた。
「閏時の観察記録、探してたんだよ……」
「あの店主さ……」
肩をすくめる。
「取り置きしとくっつったのに……」
江良は、机に軽く腰を預けながら、淡々と説明を続けた。
「閏時ってのはな、本来はもっと地味なもんなんだよ」
指で空中に円を描く。
「地軸のズレとか、重力の誤差とか……そういう関係で」
「本人が気づかないうちに、ほんの一瞬だけ時間が増えたり減ったりする」
赤羽が黙って頷く。
「体感できないレベルで終わるのが普通」
「でも今は……」
江良の視線が鋭くなる。
「誰かが、意図的に“体感時間”を引き延ばしてる」
「しかも、特定の場所と人間を選んで」
事務所の空気が、じわりと重くなった。
「で、それを調べるにはさ」
「どう考えても、一人じゃ足りない」
江良は一度言葉を切り、続ける。
「だから、昼間に赤羽を助けた――」
「白いパーカーの女」
その瞬間。
「……その女の話は、やめぇや!!」
震えた声が、事務所に響いた。
一同がはっとして振り向く。
笹木だった。
背中は椅子に預けたまま、
だが肩は強張り、声だけが必要以上に荒い。
「言っとくけどな!!」
語気が、さらに強まる。
「うちはもう……」
「あの女とは、関わらんからな!!」
声の奥に、
はっきりとした恐怖が混じっていた。
「調べたいなら、好きにせえや!!」
「勝手にやれ!!」
そう吐き捨てるように言うと、
笹木は座っていた椅子を――
くるり、と。
窓側へ回した。
背中を向け、
外の光だけを見るようにして、完全に会話を遮断する。
椎名は、事務所の空気が張り詰めたままなのを感じ取ると、
何事もなかった顔で一歩下がり、赤羽と江良にだけ分かるように手招きした。
指先で、くい、と外を示す。
「……ちょっと来て」
声は低く、周囲に溶けるように。
「同じ階にさ、外見える広間あるやろ」
「そこで待っとこ。今ここおっても、話にならんし」
笹木の背中には、それ以上声をかけない。
その判断の早さが、逆に“慣れ”を感じさせた。
三人は事務所を出る。
扉が閉まる音は、小さく、やけに乾いて響いた。
同じ階の通路は静かだった。
夜でもなく、完全な業務時間外でもない中途半端な時間帯。
人の気配はほとんどなく、足音が無駄に反響する。
ガラス張りの広間へ向かう途中――
江良が、歩きながら赤羽の横顔をちらりと見る。
「てかさ」
声は低め。
「お前……」
「そんなパーカーの女のこと、よく信じる気になったな」
責めるというより、純粋な疑問だった。
赤羽は一瞬、言葉に詰まる。
視線を前に向けたまま、
それから少しだけ、目を逸らして答えた。
「……一応……」
「助けてもらったんで」
それだけ。
理由としては、あまりに単純で、
危うい。
江良は何か言いかけて、結局黙った。
二人の足は、静かなビルの通路の奥へと進んでいく。
同じ階の広間に足を踏み入れると、そこには――何もなかった。
ガラス張りの外壁越しに、夕暮れへ移り変わりつつある街の光。
空調の低い音だけが、やけに大きく響く。
静かすぎる。
……そう思った、その正面。
白いパーカーの少女が、いつの間にか立っていた。
赤羽が息を呑むより早く、
少女は二人を見て、にこっと笑う。
「“信じる気になったな”なんてさ〜」
「ちょっと酷いな〜」
軽い。
昼間も夜も変わらない、あの声音。
「そんな不審者みたいに扱わないでよ〜」
そう言った――次の瞬間。
少女の姿が、ふっと消えた。
「――っ!?」
反射的に身構えた、その直後。
「ねっ!」
背後から、軽く肩を叩かれる。
「ひっ!!」
江良が、思わず素の声を上げて跳ねる。
振り返ったそこに、
何事もなかったように立つ白いパーカー。
「……お前……」
江良は一歩引き、困ったように眉を寄せる。
「やっぱり怪しいやつやろ……」
「何が目的やねん……」
警戒と苛立ちが、はっきり混じった声。
そのとき。
「ちょいちょい」
物陰から、ひょこっと顔を出す影。
椎名だった。
「そいつはな……」
一拍置いて、当たり前のことを言うみたいに。
「夜見れなさんやで……」
その紹介に合わせるように、
白いパーカーの少女は、フードに手をかける。
すっと、フードを外す。
白と黒のローツインテ。
柔らかい笑顔。
どこか人懐っこいのに、底が見えない赤い眼差し。
「どうも〜」
軽く手を振る。
広間の静けさの中で、
その存在だけが、妙に“馴染んで”見えた。
ビルの地下に広がるレストラン街は、夕方に差しかかる時間帯でほどよく賑わっていた。
食事を終えた会社員、カフェに流れていく学生、行き交う人の話し声が天井に反響している。
その中を、森中花咲はむぎの手首を軽く引きながら歩いていた。
「ねぇ〜」
制服姿のむぎが、半目で口を開く。
「赤羽さんに、勉強教えなくて良いの〜?」
「私……忙しいんですけど〜」
露骨に面倒くさそうな声。
森中は足を止め、むぎの正面に回り、
くしゃっとなっていた制服のネクタイを直しながら答える。
「それはあとでいいの」
「ちょっとね、むぎちゃんに会わせたい人がいて」
「……はぁ?」
納得していない顔のまま、むぎはついていく。
二人はレストラン街の端にある、少し落ち着いた雰囲気のカフェへ入った。
木目調の内装、控えめな照明。
森中は一歩中へ入ると、きょろきょろと辺りを見回す。
すると――
一人用の席に、ひときわ目を引く女性が座っていた。
黒い袖なしのワンピース。
その上に白いカーディガンを羽織り、
長い銀髪が背中に静かに流れている。
姿勢は良く、手元のカップを眺めながら、どこかぼんやりしている様子。
少し離れた位置で立ち止まり、むぎが小声で囁く。
「……誰?」
「かざちゃんの知り合い?」
森中は視線を逸らしつつ、同じく小声で返す。
「待ち合わせしたの、あそこだから……」
「多分、そうだと思うんだけど……」
一瞬、深呼吸。
「……うわぁ……」
「なんか、緊張してきた……」
むぎが「今さら?」という顔をする中、
森中は意を決したように足音を殺し、女性の背後へ回り込む。
そして――
思い切って、両肩をがしっと掴んだ。
「よっ! 久しぶり!」
「へっ……え……!?」
女性は驚いたように肩を跳ねさせ、
振り返りながら、訳が分からないという顔で森中を見上げる。
「だ、誰……!?」
数秒。
視線が森中の顔をなぞり、
記憶と現実を照らし合わせるように、まじまじと見つめ――
「……森中さん……!?」
目を大きく見開いた。
森中は、にっと笑う。
「そっ」
「森中花咲だよ」
その瞬間、女性の表情がぱっと変わる。
「おお……」
「……美少女になったやん……」
感心したように、少し身を乗り出して見上げる。
女性が椅子から立ち上がると、二人の視線は自然と身長へ向いた。
森中は、つま先を少し伸ばすようにして眺めながら、にやっと笑う。
「ん〜……」
「私の方が、ちょっと上かな〜?」
それに対して、女性は眉をひそめ、不服そうに返す。
「えぇ……?」
「同じくらいじゃない?」
軽く肩を並べるように立ってみせ、納得いかないといった表情だ。
それからふと思い出したように、女性はカフェの中、さらにその奥に続くレストラン街へと視線を巡らせる。
人通りは少なく、どこか落ち着かない空気。
「そういえばさ」
「夜見さんも、日本戻って来てるって聞いて……」
小さく肩をすくめる。
「ひょこっと会おうかと思ったんだけど」
「どこで、何してるか全然分からなくてね」
「……あ、そうだ」
女性が森中を見る。
「会わせたい人って……誰?」
その問いに、森中はくるっと振り返り、
少し離れたところで立っていたむぎに向かって手招きした。
「むぎちゃん、こっち来て〜」
むぎは小さくため息をつきつつも、歩き出す。
その歩き方は、やけに無駄がなく、
一歩一歩が均等で、どこか機械的な正確さを帯びていた。
制服のラインも相まって、
人混みの中でも妙に目立つ。
それを見た女性は、じっと観察するように目を細め、
「……ふぅん……」
と、小さく頷く。
何かを理解したような、納得の仕方だった。
むぎが二人の前に立つと、森中はにこっと笑って紹介する。
「この人ね」
「葉加瀬冬雪ちゃん」
女性の方を示しながら、
「私の、小学校の後輩ちゃん」
そう言ってから、むぎの方を見る。
「どうも」
「葉加瀬冬雪です」
声は落ち着いていて、どこか理知的。
「科学と……ちょっと変なものが好きな」
「ただの大学生です」
肩の力が抜けた、自己紹介だった。
森中はそれを聞いて、すぐにむぎの方を向く。
「で、この子が――」
「家長むぎちゃん」
ぽん、と軽くむぎの肩に手を置きながら、
「葉加瀬さんみたいな子だからさ」
「なんか、仲良くなれそうだな〜って思って」
むぎは特に否定も肯定もせず、無表情のまま立っている。
「……ふぅん……」
葉加瀬は、少しだけ眉を上げた。
完全に納得しているわけではなさそうだが、興味はある――そんな反応。
それから、唐突に話題を変える。
「ところでさ」
「去年の学術論文で、何か気になったやつとかある?」
試すような問い。
むぎは一瞬だけ考える素振りを見せてから、淡々と答えた。
「あんまり、マニアックなものは見れてないですけど……」
視線を少しだけ宙に向ける。
「最近は、人間中心主義を再考する動きが」
「かなり多く見られましたね」
言葉を選びながら、続ける。
「AI倫理とか」
「安楽死の是非とか……」
「議論が、活発になってきている印象です」
感情の乗らない、しかし要点を外さない話し方。
それを聞いて、葉加瀬は小さく頷いた。
「……そっち系か……」
一度納得したように目を伏せてから、
少しだけ口元を緩める。
「でも――」
ふと、興味を滲ませた声音で。
「安楽死は、ちょっと興味あるね……」
ビルの地下街を抜け、三人は人の流れの少ない通路を歩きながら、エスカレーターのある方へ向かっていた。