こちら、都市伝説研究センターです。   作:えいどら

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第二章 第伍話:天使

 事務所の扉を開けた瞬間、

 中の空気が――明らかにおかしかった。

 

 照明は点いている。

 だが、人の気配が沈みきっている。

 

 机の前の椅子に、笹木咲がだらりと寄りかかっていた。

 背中は丸まり、腕は力なく垂れ、

 目は開いているのに、どこも見ていない。

 

「……?」

 

 赤羽は一瞬だけ嫌な予感を覚え、それを振り払うように駆け寄った。

 

「ちょ、ちょっと!」

「店長! 起きてください、店長!」

 

 両肩を掴んで、ぐらぐらと揺さぶる。

 

「行ってきましたよ! 閏時!」

「ガチのやつです! 青くなって、赤い月で――!」

 

 だが。

 

「……終わりや……」

 

 笹木の口から、か細い声が零れた。

 

「もう……終わりや……」

 

 揺さぶられても、抵抗する力はない。

 ただ、虚ろな目のまま、天井の一点を見つめている。

 

「早く……引っ越さな……」

 

 まるで、

 “何かを見てしまった人間”のような呟き。

 

 少し離れた場所で、椎名唯華はその光景をじっと眺めていた。

 

 放心状態の笹木。

 揺さぶり続ける赤羽。

 背後で腕を組む江良。

 

(……このままやと、埒あかんな)

 

 椎名は顎に手を当て、数秒だけ考え――

 ふっと、何かを思いついたように目を細めた。

 

 気配を殺し、音も立てずに回り込む。

 赤羽の背後へ。

 

 そして。

 

 両肩に、急に手を置いて――

 

「わっ!!」

 

「きゃあああ!!」

 

 事務所の外まで響くほどの、甲高い悲鳴。

 

 赤羽はその場で跳ね上がり、

 江良が思わず耳を塞ぐほどだった。

 

 同時に。

 

「うわっ!!」

 

 笹木が、魂を引き戻されたみたいに飛び上がる。

 

「お、おお……!」

「ばねさん……どないしたん……?」

 

 焦点の合わなかった目が、ようやく現実に戻る。

 

「あっ……ご、ごめんなさい……!」

 

 赤羽は自分の声の大きさに驚き、

 慌てて両手で口を押さえた。

 

 その様子を見て、笹木は一度深く息を吐き、

 だるそうに視線をずらす。

 

 ――江良の方へ。

 

「……なんやお前……」

「この間、古本屋におったクレーマーやないか……」

 

 力の抜けた声音。

 

「……うわ……」

 

 江良は頭を掻きながら、気まずそうに目を逸らす。

 

「あれ……見られてたのか……」

 

 そして、ぼやくように続けた。

 

「閏時の観察記録、探してたんだよ……」

「あの店主さ……」

 

 肩をすくめる。

 

「取り置きしとくっつったのに……」

 

 江良は、机に軽く腰を預けながら、淡々と説明を続けた。

 

「閏時ってのはな、本来はもっと地味なもんなんだよ」

 

 指で空中に円を描く。

 

「地軸のズレとか、重力の誤差とか……そういう関係で」

「本人が気づかないうちに、ほんの一瞬だけ時間が増えたり減ったりする」

 

 赤羽が黙って頷く。

 

「体感できないレベルで終わるのが普通」

「でも今は……」

 

 江良の視線が鋭くなる。

 

「誰かが、意図的に“体感時間”を引き延ばしてる」

「しかも、特定の場所と人間を選んで」

 

 事務所の空気が、じわりと重くなった。

 

「で、それを調べるにはさ」

「どう考えても、一人じゃ足りない」

 

 江良は一度言葉を切り、続ける。

 

「だから、昼間に赤羽を助けた――」

「白いパーカーの女」

 

 その瞬間。

 

「……その女の話は、やめぇや!!」

 

 震えた声が、事務所に響いた。

 

 一同がはっとして振り向く。

 

 笹木だった。

 

 背中は椅子に預けたまま、

 だが肩は強張り、声だけが必要以上に荒い。

 

「言っとくけどな!!」

 

 語気が、さらに強まる。

 

「うちはもう……」

「あの女とは、関わらんからな!!」

 

 声の奥に、

 はっきりとした恐怖が混じっていた。

 

「調べたいなら、好きにせえや!!」

「勝手にやれ!!」

 

 そう吐き捨てるように言うと、

 笹木は座っていた椅子を――

 

 くるり、と。

 

 窓側へ回した。

 

 背中を向け、

 外の光だけを見るようにして、完全に会話を遮断する。

 

 椎名は、事務所の空気が張り詰めたままなのを感じ取ると、

 何事もなかった顔で一歩下がり、赤羽と江良にだけ分かるように手招きした。

 

 指先で、くい、と外を示す。

 

「……ちょっと来て」

 

 声は低く、周囲に溶けるように。

 

「同じ階にさ、外見える広間あるやろ」

「そこで待っとこ。今ここおっても、話にならんし」

 

 笹木の背中には、それ以上声をかけない。

 その判断の早さが、逆に“慣れ”を感じさせた。

 

 三人は事務所を出る。

 

 扉が閉まる音は、小さく、やけに乾いて響いた。

 

 同じ階の通路は静かだった。

 夜でもなく、完全な業務時間外でもない中途半端な時間帯。

 人の気配はほとんどなく、足音が無駄に反響する。

 

 ガラス張りの広間へ向かう途中――

 江良が、歩きながら赤羽の横顔をちらりと見る。

 

「てかさ」

 

 声は低め。

 

「お前……」

「そんなパーカーの女のこと、よく信じる気になったな」

 

 責めるというより、純粋な疑問だった。

 

 赤羽は一瞬、言葉に詰まる。

 

 視線を前に向けたまま、

 それから少しだけ、目を逸らして答えた。

 

「……一応……」

「助けてもらったんで」

 

 それだけ。

 

 理由としては、あまりに単純で、

 危うい。

 

 江良は何か言いかけて、結局黙った。

 

 二人の足は、静かなビルの通路の奥へと進んでいく。

 

 同じ階の広間に足を踏み入れると、そこには――何もなかった。

 

 ガラス張りの外壁越しに、夕暮れへ移り変わりつつある街の光。

 空調の低い音だけが、やけに大きく響く。

 

 静かすぎる。

 

 ……そう思った、その正面。

 

 白いパーカーの少女が、いつの間にか立っていた。

 

 赤羽が息を呑むより早く、

 少女は二人を見て、にこっと笑う。

 

「“信じる気になったな”なんてさ〜」

「ちょっと酷いな〜」

 

 軽い。

 昼間も夜も変わらない、あの声音。

 

「そんな不審者みたいに扱わないでよ〜」

 

 そう言った――次の瞬間。

 

 少女の姿が、ふっと消えた。

 

「――っ!?」

 

 反射的に身構えた、その直後。

 

「ねっ!」

 

 背後から、軽く肩を叩かれる。

 

「ひっ!!」

 

 江良が、思わず素の声を上げて跳ねる。

 

 振り返ったそこに、

 何事もなかったように立つ白いパーカー。

 

「……お前……」

 

 江良は一歩引き、困ったように眉を寄せる。

 

「やっぱり怪しいやつやろ……」

「何が目的やねん……」

 

 警戒と苛立ちが、はっきり混じった声。

 

 そのとき。

 

「ちょいちょい」

 

 物陰から、ひょこっと顔を出す影。

 

 椎名だった。

 

「そいつはな……」

 

 一拍置いて、当たり前のことを言うみたいに。

 

「夜見れなさんやで……」

 

 その紹介に合わせるように、

 白いパーカーの少女は、フードに手をかける。

 

 すっと、フードを外す。

 

 白と黒のローツインテ。

 柔らかい笑顔。

 どこか人懐っこいのに、底が見えない赤い眼差し。

 

「どうも〜」

 

 軽く手を振る。

 

 広間の静けさの中で、

 その存在だけが、妙に“馴染んで”見えた。

 

 

 

 

 

 

 ビルの地下に広がるレストラン街は、夕方に差しかかる時間帯でほどよく賑わっていた。

 食事を終えた会社員、カフェに流れていく学生、行き交う人の話し声が天井に反響している。

 

 その中を、森中花咲はむぎの手首を軽く引きながら歩いていた。

 

「ねぇ〜」

 制服姿のむぎが、半目で口を開く。

 

「赤羽さんに、勉強教えなくて良いの〜?」

「私……忙しいんですけど〜」

 

 露骨に面倒くさそうな声。

 

 森中は足を止め、むぎの正面に回り、

 くしゃっとなっていた制服のネクタイを直しながら答える。

 

「それはあとでいいの」

「ちょっとね、むぎちゃんに会わせたい人がいて」

 

「……はぁ?」

 

 納得していない顔のまま、むぎはついていく。

 

 二人はレストラン街の端にある、少し落ち着いた雰囲気のカフェへ入った。

 木目調の内装、控えめな照明。

 森中は一歩中へ入ると、きょろきょろと辺りを見回す。

 

 すると――

 一人用の席に、ひときわ目を引く女性が座っていた。

 

 黒い袖なしのワンピース。

 その上に白いカーディガンを羽織り、

 長い銀髪が背中に静かに流れている。

 

 姿勢は良く、手元のカップを眺めながら、どこかぼんやりしている様子。

 

 少し離れた位置で立ち止まり、むぎが小声で囁く。

 

「……誰?」

「かざちゃんの知り合い?」

 

 森中は視線を逸らしつつ、同じく小声で返す。

 

「待ち合わせしたの、あそこだから……」

「多分、そうだと思うんだけど……」

 

 一瞬、深呼吸。

 

「……うわぁ……」

「なんか、緊張してきた……」

 

 むぎが「今さら?」という顔をする中、

 森中は意を決したように足音を殺し、女性の背後へ回り込む。

 

 そして――

 思い切って、両肩をがしっと掴んだ。

 

「よっ! 久しぶり!」

 

「へっ……え……!?」

 

 女性は驚いたように肩を跳ねさせ、

 振り返りながら、訳が分からないという顔で森中を見上げる。

 

「だ、誰……!?」

 

 数秒。

 視線が森中の顔をなぞり、

 記憶と現実を照らし合わせるように、まじまじと見つめ――

 

「……森中さん……!?」

 

 目を大きく見開いた。

 

 森中は、にっと笑う。

 

「そっ」

「森中花咲だよ」

 

 その瞬間、女性の表情がぱっと変わる。

 

「おお……」

「……美少女になったやん……」

 

 感心したように、少し身を乗り出して見上げる。

 

 女性が椅子から立ち上がると、二人の視線は自然と身長へ向いた。

 

 森中は、つま先を少し伸ばすようにして眺めながら、にやっと笑う。

 

「ん〜……」

「私の方が、ちょっと上かな〜?」

 

 それに対して、女性は眉をひそめ、不服そうに返す。

 

「えぇ……?」

「同じくらいじゃない?」

 

 軽く肩を並べるように立ってみせ、納得いかないといった表情だ。

 

 それからふと思い出したように、女性はカフェの中、さらにその奥に続くレストラン街へと視線を巡らせる。

 人通りは少なく、どこか落ち着かない空気。

 

「そういえばさ」

「夜見さんも、日本戻って来てるって聞いて……」

 

 小さく肩をすくめる。

 

「ひょこっと会おうかと思ったんだけど」

「どこで、何してるか全然分からなくてね」

 

「……あ、そうだ」

 

 女性が森中を見る。

 

「会わせたい人って……誰?」

 

 その問いに、森中はくるっと振り返り、

 少し離れたところで立っていたむぎに向かって手招きした。

 

「むぎちゃん、こっち来て〜」

 

 むぎは小さくため息をつきつつも、歩き出す。

 

 その歩き方は、やけに無駄がなく、

 一歩一歩が均等で、どこか機械的な正確さを帯びていた。

 

 制服のラインも相まって、

 人混みの中でも妙に目立つ。

 

 それを見た女性は、じっと観察するように目を細め、

 

「……ふぅん……」

 

 と、小さく頷く。

 

 何かを理解したような、納得の仕方だった。

 

 むぎが二人の前に立つと、森中はにこっと笑って紹介する。

 

「この人ね」

「葉加瀬冬雪ちゃん」

 

 女性の方を示しながら、

 

「私の、小学校の後輩ちゃん」

 

 そう言ってから、むぎの方を見る。

 

「どうも」

「葉加瀬冬雪です」

 

 声は落ち着いていて、どこか理知的。

 

「科学と……ちょっと変なものが好きな」

「ただの大学生です」

 

 肩の力が抜けた、自己紹介だった。

 

 森中はそれを聞いて、すぐにむぎの方を向く。

 

「で、この子が――」

「家長むぎちゃん」

 

 ぽん、と軽くむぎの肩に手を置きながら、

 

「葉加瀬さんみたいな子だからさ」

「なんか、仲良くなれそうだな〜って思って」

 

 むぎは特に否定も肯定もせず、無表情のまま立っている。

 

「……ふぅん……」

 

 葉加瀬は、少しだけ眉を上げた。

 完全に納得しているわけではなさそうだが、興味はある――そんな反応。

 

 それから、唐突に話題を変える。

 

「ところでさ」

「去年の学術論文で、何か気になったやつとかある?」

 

 試すような問い。

 

 むぎは一瞬だけ考える素振りを見せてから、淡々と答えた。

 

「あんまり、マニアックなものは見れてないですけど……」

 

 視線を少しだけ宙に向ける。

 

「最近は、人間中心主義を再考する動きが」

「かなり多く見られましたね」

 

 言葉を選びながら、続ける。

 

「AI倫理とか」

「安楽死の是非とか……」

「議論が、活発になってきている印象です」

 

 感情の乗らない、しかし要点を外さない話し方。

 

 それを聞いて、葉加瀬は小さく頷いた。

 

「……そっち系か……」

 

 一度納得したように目を伏せてから、

 少しだけ口元を緩める。

 

「でも――」

 

 ふと、興味を滲ませた声音で。

 

「安楽死は、ちょっと興味あるね……」

 

 ビルの地下街を抜け、三人は人の流れの少ない通路を歩きながら、エスカレーターのある方へ向かっていた。

 

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