こちら、都市伝説研究センターです。   作:えいどら

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幕間 第三話:末期の水

 ガチャ――ッ!

 

 ガラス張りの自動ドアが勢いよく開くと同時に、

 制服のスカートを揺らして赤羽葉子が事務所内に駆け込んできた。

 

「ちょっ……ちょっとトイレ……!」

 

 靴を脱ぎ捨てるように脱ぎ、乱れた髪もそのまま、奥の洗面所へ一直線。

 

「お、おう……」

 

 その場にいた椎名唯華は、ちらりと入口を見やりつつ、

 相変わらずの調子でパソコンのキーボードを叩きながら呟いた。

 

「死体でも落ちとったんかいな……」

 

 カチャカチャ……とキーを叩く音だけが響く。

 

「……ほな、警察でも呼ぶか」

 

 乾いた冗談混じりの声。

 しかし表情はほとんど動かず、まるで“いつものこと”のように冷静だった。

 

 しばらくして――

 

 ギィ……

 

 トイレのドアがゆっくりと開く。

 中から出てきた赤羽は、明らかに顔色が悪かった。

 

 頬は青白く、唇にかすかな血の気もない。

 彼女は無言で数歩歩いたあと、ソファに座り込むと、小さな声で口を開いた。

 

「……学校の……地下のパソコンで……」

 

「……ん?」

 

 椎名がパソコンから視線を上げる。

 

 赤羽は喉を一度鳴らし、乾いた声を絞り出すように言った。

 

「……掲示板、読んでたら……あの紙の文字……読めたんだよ、普通に……」

 

「……読めた?」

 

「……意味まで、分かる感じで……。なんか……自然に」

 

 椎名の目がほんのわずかに鋭くなった。

 

「……で?」

 

「で……それで、現場……紙が落ちてた場所に向かったんだけど、

 バス降りた瞬間……急に気持ち悪くなって、立ってらんなくなって……」

 

「……なるほどな」

 

 椎名は椅子の背にもたれ、腕を組んだ。

 

「つまりお前の言いたいんは……

 “特定の場所”で“文字が読めるようになって”、

 そのあと“特定の場所”に入ったら体調崩す、ってことか」

 

「……うん」

 

 赤羽は小さくうなずき、まだどこか震える声で続ける。

 

「まるで“読んだこと”が引き金みたいで……

 もしかして、スレ主も同じ目に遭って、怖くなって投稿を全部消したのかもって……」

 

 だが、そこで椎名は小さく鼻を鳴らして否定した。

 

「……それやと、ちょっと筋が通らんわ」

 

「……へ?」

 

「もし、“意味まで分かった”んやったら、スレ主は“何が書いてあったか”をスレに残すはずやろ」

 

「……!」

 

「しかも、“意味不明な呪文”やったら、それこそ皆に聞くやろ?

 せやのに投稿を一気に“なんでもありませんでした”で埋めて、しかもスレごと消すってのは……

 逆に“何かを読んだ結果”、全部消さなあかん理由ができたって考えるのが妥当やな」

 

 赤羽は、目を見開いたまま、何も言えなかった。

 椎名はそのまま続ける。

 

「……ま、消したのが本人とは限らん。

 たとえばスレ主の友人か家族が、読んだ直後に“おかしく”なったとか。

 せやから、急いで削除した――そういう筋書きも成り立つな」

 

 そう言って、再びパソコンを操作しながら言った。

 

「一応、あのバス停で他に体調崩した奴がおらんか、聞いてみるわ。

 通報記録とか、SNSも掘れば何か出るかもしれんしな」

 

 それから数日が経った。

 

 橋に行くこともできず、調べて回った資料や書き込みはほとんど空振り。

 赤羽葉子は昼下がりの事務所で、ソファに座りながら肩を落としていた。

 

 一通りの報告を終えた後、スマホの画面を見つめたまま、ぽつりと漏らす。

 

「……あれから、色々探ってみたんだけどさ……」

 

 椎名はパソコン前に座り、カタカタとキーを打ち続けている。

 

「やっぱり進展ないんだよね……やっぱ、もう一回“あの橋”に行かなきゃダメなのかなぁって思ってるんだけど……」

 

 その言葉に、椎名はカタッとキーを止めた。

 

 ゆっくりとイスにもたれ、背を反らせるようにして手を組む。

 

「……それがな」

 

 少しだけ視線を横に向けて、静かに言う。

 

「何も分からへんねん」

 

「……え?」

 

 赤羽が顔を上げる。

 

「うちも、橋の周辺とか情報掘ってはみたけどな、

 何も出てけえへん。“無風”や。あんなん普通ない」

 

「……じゃ、じゃあ……」

 

「でな、ばねさん」

 

 椎名は、いつもの調子でにこやかに笑いながらも、どこか線引きをするような口調で言う。

 

「バイト君の体調、悪くさせるわけにはいかんねん。

 せやから――もう打ち切ることにしたんや。この件は、な」

 

 言い終えると、パソコンの電源を落とすようにボタンを押し、「ふぅ」と小さく息を吐いた。

 

「ほなお大事に〜」

 

 まるで誰かに電話応対しているかのように、椎名は軽く手を振って終わらせようとする。

 

 だが――

 

「いやいやいやいやいや!!」

 

 立ち上がった赤羽の声が、事務所に響いた。

 

「私ここまで調べたんですけど!? スレも、投稿者も、目撃証言も……

 橋について調べるって、椎名さん言いましたよね!?」

 

「言うたなぁ」

 

「置いた人の“その後”くらい分かるでしょう!? 何か掴んだんじゃないんですか!?」

 

「さぁ?」

 

 椎名は涼しげに答えると、隣の棚に手を伸ばし、

 そこから一つの大きなぬいぐるみを取り出した。

 

 白と黒のパンダ。首からは名札がぶら下がっている。

 そこには――「店長代理」と手書きされた紙。

 

「ま、お給料出すから観念し」

 

「は?」

 

 赤羽は呆気にとられたようにそのぬいぐるみを見る。

 

 椎名は「しゃーないねぇ」とばかりに笑い、パンダのぬいぐるみをソファに座らせる。

 

「店長代理も、もう“お疲れ”やて。

 しゃあないやん、うちにできるのはここまでや」

 

 にこやかに笑うその顔は、いつも通りに見える。

 

 けれど――誤魔化してる。

 

 赤羽は直感でそう思った。

 椎名は“何か”に触れた。だがそれをあえて伝えていない。

 

 ガチャ―――

 

 バタン。

 

 コロコロ…

 

 赤羽が事務所の扉をバンッと音を立てて閉めて出て行ってから、数分が経っていた。

 

 室内には沈黙が流れていたが――

 その沈黙を、ストローが刺さる小さな「ちゅー……」という音が破った。

 

「……で?」

 

 ソファの端で、紙パックの牛乳をストローで吸っていた森中花咲が、ゆるく言葉をこぼす。

 

「本当に、“何もない”の?」

 

 椎名唯華は、目線を落としたまま返す。

 

「……んなわけ、ないやろ」

 

 そう言って、机の下から一枚の新聞を取り出す。

 パサッ……と静かに広げ、無言のまま森中の方へ滑らせた。

 

 森中は眉を寄せて、それを手に取り、視線を落とす。

 

 しばらくの沈黙――

 

「…………えっ」

 

 牛乳のパックを握ったまま、森中の手が震える。

 

「ちょ、これ……ばねちゃん、知ってるの!?」

 

 瞬間、声を潜めつつも、半ば詰め寄るように椎名に言う。

 

 だが椎名は、パソコンに背を向けたまま、ゆっくりと首を横に振った。

 

「……多分、知らへん。

 知ってたら、あの“橋の下”調べろって言うときに、なんか一言あるやろ」

 

「……っ」

 

 森中の眉が険しくなり、新聞の一部をぎゅっと握りしめる。

 

「でも……この名前……」

 

「“赤羽葉子”なんて、ようある名前やからな」

 

 椎名はそう言いながら、ようやく森中の方へ視線を向ける。

 その目は、普段の脱力した印象とは裏腹に、ひどく冷静で研ぎ澄まされていた。

 

「……人違いかもしれへん」

 

 その言葉には、“そうであってほしい”という微かな願いも混じっていた。

 

 森中は、深くため息をついて立ち上がると、

 紙袋の中から乾いた何かを取り出した。

 

「……今度、おごりだかんな」

 

 それは――乾燥したサゴワームのチップ。

 

 彼女はそれを指先でつまみ、目の前にかざす。

 

 チップがかすかに光を帯び――

 

 ぱんっという軽い破裂音とともに、

 森中の姿がふっと掻き消えた。

 

 まるで、そこに“最初からいなかった”かのように。

 

 椎名はその残響を見送ることもなく、再び新聞を畳み、静かに胸元で息を整えた。

 

 事務所には、再び静寂が戻る。

 その静寂の中で、何かがもう、止められない場所に動き始めていることを、

 この二人だけが知っていた。

 

 

 

 

 

 

 翌日、昼休みの教室。

 

 ガタン、と少し乱暴に椅子を引いた赤羽葉子は、自分の弁当箱を開けながら小さく舌打ちした。

 

「……はぁ、なんなのあの人。こっちは命がけで動いてんのにさ……」

 

 隣の席では、友人の女子生徒が苦笑しながらサンドイッチを頬張っていた。

 

「え、何? バイトの話?」

 

「うん……まぁ、ちょっと……依頼の話でさ……色々あって……」

 

 声のトーンを抑えつつも、葉子はあからさまにイライラしていた。

 眉間に皺を寄せながら、唐揚げをフォークで突いている。

 

「せっかく調べてやってんのに、“もう打ち切りでーす”とかさ……

 意味分かんないでしょ……私だけ蚊帳の外って、マジでムカつく……」

 

「でもさ、ちゃんとお給料もらえてるんでしょ?」

 

「……それは、まあ……もらえてるけどさ」

 

「じゃあ、いいじゃん。ね?」

 

 そう言って微笑んだ友人に、葉子は少しだけ不満そうな顔を見せたが、何も言い返さなかった。

 

 すると、友人が鞄から小さな封筒を取り出して、ひょいと差し出す。

 

「はい、これ。昨日の放課後に撮ってきたやつ」

 

「……え?」

 

「例の橋の写真。ばねちゃんの代わりに行っといたからさ。

 “行ったことにして報告しときなよ”って思って」

 

 そう言って渡された封筒の中には、橋の欄干、足元、立て看板、周囲の公園など――

 それなりに角度を変えながら撮られた数枚の写真が丁寧に収められていた。

 

「……マジで? ……ありがと」

 

「うん。あんま無理しないでね」

 

「……はぁ、ほんと、“あの事務所”めんどくさいわ……」

 

 そうぼやきながらも、葉子は写真の入った封筒を大事そうに鞄へしまった。

 

 夕焼けが空一面を染め上げていた。

 燃えるような赤――だがそれは美しさよりも、不気味さの方が強かった。

 血の色に近い、どこかざわつくような赤。

 

 帰り道を歩きながら、赤羽葉子は鞄の中の封筒を取り出しかけて、

 吹きつける風に揺れるそれを慌てて押さえた。

 

「……やめよ。家帰ってから見る……」

 

 強い風。舞い散る砂。

 写真を落としたら最後、二度と拾えないような気がした。

 赤羽は封筒を押し戻し、チャックをしっかり閉める。

 

 夕焼けの赤が、アスファルトや建物の壁に滲んで見える。

 見慣れたはずの帰路なのに、何かが違う。

 風の音も、人の足音も、遠くの車の音も――全部が微妙に薄く、歪んで聞こえる。

 

「……早いとこ帰ろ……」

 

 自分に言い聞かせるように呟く。

 

 だが、どうしても頭をよぎるのは**“橋”**のことだった。

 椎名の様子、スレの連投、読めてしまった文字、橋の前で襲われた吐き気。

 

(……本当に、何なんだろ)

 

 気づけば、葉子は近くの公園に足を向けていた。

 

 夕暮れの公園には誰もいない。

 風に揺れるブランコの鎖が、きぃ……と微かに鳴る。

 

 赤羽は木製のベンチに腰を下ろし、落ち着かない息を整えたあと、

 封筒をゆっくり取り出して、中の写真を一枚ずつ手に取った。

 

 その瞬間――

 

「……っ……!」

 

 激しい頭痛が、突然、脳を裂くように襲った。

 

 視界が揺れ、吐き気がこみ上げ、喉の奥がひりつく。

 写真を落としかけ、ベンチの端を必死に掴む。

 

 ……なに、これ……っ!?

 

 同時に――

 “忘れていたはずの記憶”が、叩きつけられるようによみがえる。

 

 暗い場所。

 

 湿った空気。

 

 橋の下で誰かの影が自分の前に立っている。

 

 自分は地面に蹲り、

 目をぎゅっと閉じている。

 

 そして――

 首元に走る、焼けつくような激痛。

 

「っ……!」

 

 葉子は息を呑んだまま固まり、

 身体が細かく震え始めた。

 

 震える唇が勝手に動く。

 

「……そうだ……」

 

「私……」

 

 

 

 

 

 

「あの橋の下で……殺されたんだ……」

 

 

 

 

 

 

 夕焼けの赤は、いつのまにか夜の暗さへ沈みかけていた。

 

 

 

 

 

 

 

 家の玄関を開けた瞬間、

 温かい匂いと、いつも通りの母親の声が迎えてくれた。

 

「葉子ちゃんおかえり〜。今日お父さん遅いからね、

 お風呂最後に落としてから出てきてね〜」

 

 まるで何事もなかったかのように、いつも通りのテンポ、いつも通りの笑顔。

 台所では味噌汁の湯気が立ち、夕食の準備の音が聞こえる。

 

 赤羽葉子は靴を脱ぎながら、

 どこか現実感のない足取りでリビングへと進んだ。

 

 そこで――目に入る。

 

 誰も祀られていない、きれいすぎる新しい仏壇。

 

 黒光りする扉。

 何も飾られていない中身。

 存在理由のわからない“空の祭壇”。

 

 ……これ……

 

 喉がひりつき、背中に冷たい汗が流れた。

 

 これ……私の……

 

 誰に聞かれたわけでもないのに、確信に近い言葉が頭に浮かぶ。

 胸がぎゅっと縮むように痛む。

 

「葉子ちゃん、ご飯すぐできるからね〜?」

 

 母親は赤羽の異変に気づく様子もなく、いつも通り。

 その明るさが、今はただ恐ろしく感じる。

 

 赤羽はか細い声で答えた。

 

「……今……あんま食欲ないから……置いといて……」

 

「え? 大丈夫? じゃああとで温めるから〜」

 

 その声を背に、赤羽は足早に自室へ向かった。

 

 扉を閉めると、

 鞄の中にある封筒を乱暴に引きずり出す。

 

 橋の写真。

 その景色。

 その証拠。

 

 見た瞬間、頭痛と吐き気を呼び覚ます“現場”の記録。

 

 ビリッ……ビリビリビリッ!!

 

 何枚も、何枚も。

 破れる音が部屋に響き、紙片がベッドや床に散っていく。

 

 最後の一片まで破り捨て、

 それらを掻き集めてゴミ箱に勢いよく投げ込んだ。

 

「……いや……もう……やだ……」

 

 そのままベッドに倒れ込み、

 布団を頭までかぶって、

 世界を遮断するように丸まる。

 

 呼吸が浅くなる。

 心臓の音がやたら大きく響く。

 

 思い出したくない。

 

 知りたくなかった。

 

 夕食の匂いも、家の中の生活音も、

 今の赤羽には遠い世界のもののように感じられた。

 

 その夜、彼女は布団から出られなかった。

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