しばらくの沈黙のあと、
葉加瀬はふっと力を抜くように姿勢を崩し、椅子の背に体を預けた。
「……まさかさ」
半ば感心、半ば意外そうに、むぎを見る。
「Σに、そんな風に考える子がいるとはねえ……」
夕暮れから夜へ移る光が、窓際で揺れる。
「その感じだとさ」
「あんまり、現場には関わらなさそうだね」
推測するような口調で言い、
大きく伸びをして、肩の力を抜いた。
だが――
「シューターですけど……」
むぎの返答は、あまりにも淡々としていた。
「……」
一瞬、葉加瀬の思考が止まる。
次の瞬間、目を見開いた。
「……いや」
間を置いて、率直に。
「むちゃくちゃ殺すやつじゃん」
言葉を選ぶ余裕もなく。
「てか……なんなら、一番殺るやつじゃん……」
今度は本気で心配するように眉を寄せる。
「……メンタル、大丈夫……?」
少しだけ視線を落とし、
それから、ぽつりと続ける。
「……って言っても」
「私はサブなので……割と、メインの子に任せることが多いんですけど」
自分に言い聞かせるような口調。
「やっぱり、なんか変ですよね」
「私が一番……人のページを、無残に破り捨てているのに」
葉加瀬は、特別な反応をしなかった。
「ふーん」
ただ、それだけ。
「別に、良いんじゃない?」
葉加瀬は何気ない調子で話していた。
「……腹、減ったな……」
独り言みたいに呟いてから、二人を見る。
「ねえ、なんか食べに行かない?」
「さすがに頭使いすぎた」
森中はすぐにスマホを取り出し、指で画面を滑らせる。
「あ、このホテル」
「地下にレストラン街あるらしいよ」
写真を見ながら、軽い調子で続ける。
「和洋中ひと通りあるっぽい」
それを横目で見ながら、むぎが淡々と聞いた。
「……お金、あるの?」
率直すぎる質問。
森中は一瞬だけ詰まりつつ、財布を取り出して中を確認する。
「……まあ」
「多分、大丈夫よ」
そして、どこか楽観的に付け足す。
「多分、もうすぐボーナス出るし」
「へぇ〜!」
むぎが、少しだけ目を見開く。
「あの笹木って人……」
「ボーナスとか、出すんだ〜!」
感心したような、素直な反応だった。
その名前に、葉加瀬がぴくりと反応する。
「……笹木?」
聞き返すと、森中は慌てて手を振った。
「あっ、違う違う」
「モデルの方じゃなくてさ」
言い訳するように続ける。
「あのビルの上にね」
「ちょっと……変なこと調べてる場所があって……」
むぎが無言で頷く。
「そこで副業してて」
「そこの店長が、笹木さんって言うの」
その説明を聞いた葉加瀬は、ほんの一瞬だけ考え込み――
「……笹木って……」
視線を上げる。
「もしかして……」
「笹木咲さん?」
森中は、少し拍子抜けしたように答えた。
「あ、そうそう」
「そんな名前だったと思う」
葉加瀬の表情がほんのわずかに変わった。“思い当たる節がある”という顔。
上着を羽織り、バッグを肩にかけながら、ふと動きを止めた。
「……ねえ」
少し嫌そうに、眉を寄せる。
「もしかしてさ」
「椎名唯華って人も……いる?」
その名前に、あっさりと頷いた。
「いるいる」
「葉加瀬ちゃん、詳しいね〜」
にやっとしながら首を傾げる。
「知り合い?」
葉加瀬は、ほんのり顔を赤らめて、ぷいっとそっぽを向いた。
「……別に……」
それから、小さく息を吐いて。
「……行かなくてよかった……」
ほっとしたような声だった。
三人はホテルの部屋を出て、
地下へ向かうエレベーターへの、静かな廊下を歩き始める。
絨毯を踏む足音だけが、規則正しく響く。話し声のない、夕暮れのホテル特有の静けさ。
「……椎名ママさ」
「私のお母さんになるって――ずっと言い張ってるんだよ」
困ったような、でもどこか諦めた口調。
困ったような、でもどこか諦めた口調。
「高校生の時……」
「私が“家族いない”って言ったらさ」
視線を前に向けたまま、続ける。
「なんか……変なスイッチ入っちゃったみたいで……」
森中はその言葉に「ぶふっ」と吹き出しながらも、少し考えてから聞き返す。
「……おばさん達は?」
葉加瀬は、首を横に振る。
「おばさんとおじさんは……」
「家族って感じじゃない」
淡々と、事実を並べるように。
「初めて会った時の記憶も、だいぶ残ってるし……」
「どっちかって言うと」
言葉を選びながら。
「“親族”って感じがする……」
「それくらいの距離感…」
廊下の突き当たりに、エレベーターのランプが光る。足音が、また三つ分、静かに重なる。
エレベーターを待つ間、
森中が何気なくスマホに視線を落とした、その時だった。
「……は?」
低く、苛立ちの混じった声。
画面には、新着メッセージが一件。
件名――
「果たし状」
嫌な予感しかしない。
開くと、そこには。
負けヒロイン森中
喧嘩上等
明日 渋谷駅で待つ
by 勝ちヒロイン 御伽原江良
「……っっ」
森中は一瞬、顔を引きつらせてから、露骨にイラッとした表情になる。
隣を歩いていたむぎが、その様子に気づいて首を傾げた。
「……何かあったの?」
森中は答える代わりに、無言でスマホの画面を見せる。
むぎはそれを読み、数秒だけ間を置いてから、
「……負けヒロインって、何……?」
本気で分からない、という顔で首を傾げた。
その横で、葉加瀬が一瞬――
吹き出しそうになって、慌てて口元を押さえる。
「……っ、いや……」
「ごめ……」
肩がわずかに震えている。
森中は、スマホをぎゅっと握りしめた。
「クッソ……」
だが、むぎは冗談として受け取らなかった。
淡々と、冷ややかな声で言う。
一拍。
「行くんだったら……」
事務的な口調で。
「2年以上5年以下の懲役刑だね」
脅しでも忠告でもない。
ただの、事実の提示。
森中が「うっ」と言葉に詰まる、そのとき。
メッセージの、さらに下。
スクロールすると、小さな文字が追加されていた。
ごめんちゃい
閏時の調査のために、協力してくだちゃい
「…………」
三人の視線が、同時にそこへ落ちる。
数秒の沈黙。
森中は深く息を吐き、
さっきまでの苛立ちを一度、飲み込む。
「……まあ」
トーンを落として。
「協力くらいなら……」
「大丈夫じゃない?」
翌日の夕暮れ。
碧星院高校の校庭は、完全に貸し切られていた。
高いフェンスの向こうには誰の姿もなく、広いグラウンドを橙色の光が静かに染めている。
その中央で、江良は腕を組んで立っていた。
苛立ちを隠そうともせず、何度目か分からない時計確認。
「……遅い」
短く吐き捨てる。
「決闘の場に遅れてくるなんて、どういうことだよ!」
「せっかく渋谷駅まで来てやったのに!」
言葉には完全に私情が混じっていた。
一方、校庭の端。
パイプ椅子に腰掛けた赤羽は、夕焼けを背にのんびりとそれを眺めている。
「まあまあ……」
両手を軽く上げて宥めるように。
「モデルの仕事なんだし、仕方ないでしょ」
「急に時間ズレるの、よくあるじゃないですか」
まるで他人事。
江良は舌打ちしそうになるのを堪え、空を仰いだ。
夕暮れの空は穏やかだ。
だが、この校庭でこれから起きることは――
とても“穏やか”とは言えそうになかった。
フェンスの影が、ゆっくりと地面に伸びていく。
赤羽の言葉に対し、江良は苛立ちと不安がない混ぜになった顔で地面を蹴った。
「……まさか、あいつ……バックれた!?」
語気は強いが、どこか芯がない。
「いや、そりゃさ……」
「決闘罪になることくらい、私でもわかるけど!」
言い訳するように、早口になる。
「でもこれ、調査に必要なことだし……その……」
「魔法撃ち合うのも、まあ……危ないは危ないけど……」
言葉を重ねるほど、声はしぼんでいく。
「……でも……」
「それなら、先に行ってろ、とかさ……」
「騙すこと、ないじゃん……」
最後は、ほとんど独り言だった。
夕焼けに染まった校庭は、やけに広く、静かだ。
風が吹くたび、乾いた土の匂いが立ち上る。
――そのとき。
コツ……コツ……
校庭の外、フェンスの向こうから、靴音が聞こえた。
一定のリズム。
早くも遅くもない。
だが、歩くたびに音が不自然に大きくなっていく。
江良は眉をひそめ、音のする方を振り向いた。
「……うっす」
校庭の入口。
そこに、栗色の髪の女性が立っていた。
夕暮れの逆光の中で、顔の輪郭は柔らかく霞み、
けれど“そこにいる”という存在感だけが、異様に濃い。
女性は、ゆっくりと手を上げる。
手招き。
指先の動きは軽やかなのに、
影だけが地面にべったりと貼りつき、異様に長く伸びていた。
「……お暇ですか〜?」
声は明るい。
不釣り合いなほど、柔らかく、親しげ。
口元は笑っているのに、
目元だけが、まるで焦点が合っていない。
「お暇なら〜」
一歩、こちらへ踏み出す。
その瞬間、
周囲の音が、すっと遠のいた。
風の音が消え、
遠くの街のざわめきも、鳥の声も、途切れる。
「……私と、遊びませんか〜?」
笑顔のまま、そう言った。
夕焼けの光を受けて、栗色の髪が艶やかに揺れる。
だがその影は、本人の動きに一拍遅れ、
まるで別の意思を持っているかのように蠢いていた。
――この女。
ただ立っているだけなのに、
校庭そのものが、じわじわと侵食されている気がした。
赤羽は椅子に座ったまま、その光景を見つめている。
夕暮れの校庭に現れた“それ”は、
明らかに――
待っていた相手とは、別の何かだった。