こちら、都市伝説研究センターです。   作:えいどら

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第二章 最終話:胎動

 江良は一瞬、肩に力が入りかけるのを自覚し、深く息を吸ってから言葉を選んだ。

 

「あのね……」

 

 口元だけで笑う。

 だが目は、まったく笑っていない。

 

「悪いけどさ」

「私たち、これから女と女の大事な話するんだよね」

 

 夕焼けの中、わざとらしく肩をすくめる。

 

「野次馬なら悪いんだけど」

「ちょっと後にしてくれないかな」

 

 拒絶の意志は、はっきりしていた。

 

 ――にもかかわらず。

 

「……魔法の撃ち合いなら」

 

 栗色の髪の女性は、首を傾げたまま、不思議そうに言った。

 

「やめといた方がいいと思うよ?」

 

 まるで、

 “日常会話”の延長みたいな軽さ。

 

「打ちどころ、悪いとさ」

「シャレにならないから」

 

 しれっと。

 あまりにも自然に。

 

「……っ」

 

 江良と赤羽の表情が、同時に固まる。

 

 その反応を見て、女性は――

 満足そうに、また笑った。

 

「嫌だ〜」

「そんな顔、しないでよ〜」

 

 手招き。

 さっきより、少し近い。

 

「そうだったら危ないな〜っていう」

「ただの妄想だからさ〜」

 

 声は柔らかい。

 けれど、その言葉が空気に溶けない。

 

 校庭の照明が、ちり、と瞬いた。

 

 江良は一歩、半身になる。

 

「……ただの妄想で」

 

 低く、噛みしめるように。

 

「魔法なんてワード」

「出てくるわけ、ないだろ……」

 

 視線は女性から逸らさない。

 指先に、無意識の力がこもる。

 

 江良は一歩前に出て、栗色の髪の女性を睨み据えた。

 

「第一……どうやって、ここに来た?」

 

 声は低い。

 

「碧星院高校はな」

「正規のゲート通らないと、入れないぞ……」

 

 Σの訓練校。

 立ち入り禁止の閉鎖的な空間。

 

 この校庭に“偶然”辿り着けるはずがない。

 

 それを聞いた女性は、きょとんとした顔で首を傾げ――

 次の瞬間、ぽん、と手槌を打った。

 

「ああ……」

 

 何かを思い出したように、にこりと笑う。

 

「自己紹介が、まだでしたね」

 

 夕暮れの赤に照らされたその笑顔は、

 可愛らしいはずなのに、どこか不釣り合いだった。

 

「閏時ではあんなに楽しく遊んだのに」

 

「名前も名乗ってないなんて、失礼でした」

 

 一歩、ゆっくりと前に出る。

 

「はじめまして」

 

 柔らかく、丁寧な声音。

 

「私は――鈴原るる」

 

 その瞬間。

 

 彼女の指先にあった琥珀色の石が、

 まるで溶けるように、ふっと消えた。

 

 空気が、重く沈む。

 

 瘴気。

 黒とも紫ともつかない靄が、

 彼女の背後から溢れ出し、校庭の地面を這う。

 

 そして、その瘴気が形を持つ。

 

 ぎしり、と嫌な音を立てながら、

 長大な刃が具現化する。

 

 柄は歪み、

 刃は月光を拒むように黒ずみ、

 触れれば魂ごと刈り取られそうな――

 

 大鎌。

 

 それを、彼女は慣れた手つきで握った。

 

 重さなど感じていないかのように。

 

「蒼翼の意を継ぐ」

 

 声は穏やかなまま。

 

「――魔法使いです」

 

 鎌の刃先が、かすかに地面へ向けられる。

 その影が、校庭いっぱいに不自然な形で広がった。

 

 江良の喉が、ひくりと鳴る。

 

 江良が踏み込もうとした、その直前。

 

「……待ってください」

 

 赤羽の声が、校庭に落ちた。

 

 低くも高くもない、

 だが不思議と通る声。

 

 江良も、るるも、動きを止める。

 

 赤羽は椅子から立ち上がり、まっすぐに大鎌を構える少女を見る。

 

「じゃあ……」

「あなたが、閏時の時間を引き延ばしていた犯人なんですか?」

 

 問いは、責める調子ではなかった。

 ただ、事実確認。

 

 るるはぱちぱちと瞬きをしてから、

 にこっと笑った。

 

「そうだよ〜」

 

 あまりにも軽い。

 

「最初はね〜」

「イタズラのつもりだったんだけど」

 

 鎌を肩に預け、楽しそうに続ける。

 

「なんかさ、突っかかってくる人がいるから」

「だんだん、面白くなっちゃって〜」

 

 視線が、江良に向く。

 

「そこの魔法使いさんもさ」

「調査しやすかったでしょ?」

 

 悪意はない。

 本当に、“遊び”の延長でしかない声音。

 

 赤羽は、しばらくるるを見つめ――

 理由も、正義も、説教も口にしなかった。

 

「……やめてくれませんか」

 

 ただ、それだけ。

 

 率直で、真っ直ぐな言葉。

 

 るるは一瞬きょとんとしてから、

 拍子抜けしたように笑う。

 

「いいよ〜」

「もう、ちょっと飽きてきたし」

 

「良いのかよ!!」

 

 我慢できず、江良が突っ込む。

 

 だが、るるはその声を気にも留めず、

 くるりと大鎌を持ち替えた。

 

 刃が夕闇を切り裂き、

 瘴気が、再び濃くなる。

 

「まあでも……」

 

 声のトーンが、少しだけ変わる。

 

「その代わり」

 

 鎌を構え直し、無邪気で、残酷な笑みを浮かべた。

 

「――私と、遊んでくれるかな?」

 

 

 

 

 

 

 るるの足元が、爆ぜた。

 

 地面を蹴った瞬間、彼女の身体は鎌ごと宙を裂き、夕闇の校庭に黒い軌跡を残して赤羽へと迫る。

 瘴気をまとった大鎌が振り下ろされる、その刃が空気を切り裂く音すら――

 

 次の瞬間には、なかった。

 

 椅子から立ち上がったはずの赤羽の姿が、消失する。

 

 否、消えたように“見えただけ”。

 

 赤と緑のオッドアイが、空間の層を踏み抜いたのだ。

 

「――っ!?」

 

 鎌は空を切り、地面に衝撃が走る。

 だが、手応えがない。

 

「すごい!」

「それ、どうなってるの!?」

 

 るるは心底楽しそうに声を弾ませ、くるりと回りながら周囲を見回す。

 

 瘴気が校庭を覆い、視界を歪める。

 影が増殖し、どれが本物か分からない。

 

 ――その上。

 

 影の死角、校庭灯の光が届かない空間から、

 赤羽が現れた。

 

 落下。

 

 音もなく、ただ速度だけを伴って。

 

 手にした斧が、重力と意志を乗せて振り下ろされる。

 

 刃が夜を割る。

 

 だが――

 

 るるの姿が、霧のように消えた。

 

 斧は地面を叩き割り、ひび割れが放射状に走る。

 赤羽は即座に後方へ跳ぶ。

 

 校庭の端、距離を取った位置に、るるが再構成される。

 

「いや〜、危ない危ない」

 

 軽い調子で笑いながら、るるは懐に手を入れ、

 琥珀を複数、同時に消した。

 

 ――次の瞬間。

 

 ズンッ!!

 

 赤羽の足元の地面が隆起し、

 瘴気を纏った鋭利な槍が突き出す。

 

 一本ではない。

 二本、三本、四本。

 

 連鎖的に、追尾するように地面を割っていく。

 

 赤羽は跳ぶ。

 

 踏み切り、空中で体勢を変え、さらに跳ぶ。

 

 槍は止まらない。

 赤羽の着地点を読み、先回りして突き出す。

 

 校庭が、まるで生き物のようにうねる。

 

 赤羽は宙を駆ける。

 

 空間の継ぎ目を踏み、視界の外へ、さらに上へ。

 

 槍が、空を裂いて伸びる。

 

「わぁ……!」

「逃げるの、上手だね!」

 

 るるは嬉しそうに鎌を構え直し、

 瘴気が刃から滝のように零れ落ちる。

 

 赤羽は空中で体を反転させ、

 オッドアイで全体を見渡す。

 

 彼女はさらに加速する。

 

 追い縋る槍の群れが、

 赤羽の残像だけを貫いていく。

 

 赤羽は着地と同時に、深く息を吸った。

 

 足裏が、確かに地面を捉える。

 揺れる校庭、迫る瘴気、そのすべてを一度、切り離す。

 

 ――斧を、手放した。

 

 重たい金属音が地面に落ちるより早く、

 赤羽の両手に、淡い光が集まり始める。

 

 確かに“生”の気配を持つオーラ。

 

 空気が、軋む。

 

 赤羽は、何かを掴むように両腕を広げ――

 次の瞬間、それを引き裂く動作をした。

 

 見えない刃が、走る。

 

 ――ズンッ!!

 

 衝撃が空間ごと叩き割り、

 るるの身体が、後方へと吹き飛ばされた。

 

 地面を転がり、土煙が上がる。

 

「……っ!」

 

 一瞬、静寂。

 

 だが。

 

 るるは、ゆっくりと立ち上がった。

 

 膝に手をつき、肩で息をしながら、

 額にははっきりと冷や汗。

 

 それでも――笑っている。

 

「うおっ……すごいよ!」

 

 息を整えながら、楽しそうに声を上げる。

 

「これ、めっちゃ効くね!」

「びっくりした〜!」

 

 鎌を杖代わりにして体勢を立て直し、

 その刃に、再び瘴気が絡みつく。

 

 その瞬間。

 

 赤羽は、もう動いていた。

 

 落とした斧を拾い上げ、

 踏み込み、間合いを一気に詰める。

 

 ――斬撃。

 

 横薙ぎ、上段、連続した振り下ろし。

 

 だが、るるは逃げない。

 

 大鎌を構え、金属音とともに斧を受け止める。

 

 刃と刃が噛み合い、

 火花が散る。

 

「っ……!」

 

 赤羽は力を込める。

 腕が震え、地面に足跡が刻まれる。

 

 るるは、その力を真正面から受けず、

 角度をずらし、滑らせるように流した。

 

 鍔迫り合い。

 

 距離は、吐息がかかるほど近い。

 

「いいね……!」

 

 るるの声は、少し掠れている。

 

 赤羽は答えない。

 ただ、歯を食いしばり、再び斧を振る。

 

 るるは鎌を返し、

 刃の内側で斧を絡め取るように受け流す。

 

 重たい金属同士がぶつかる音が何度も響く。

 

 るるは、鍔迫り合いの隙に一歩引きながら、スカートのポケットを指で探った。

 

「あっ……やべ……」

 

 一瞬だけ、何かを思い出したような声。

 だがそのまま、琥珀を数粒取り出し――消す。

 

 次の瞬間。

 

 ぼん、ぼん、と乾いた破裂音とともに、

 るるの周囲に火の玉が浮かび上がった。

 

 黒い炎は大きく、密度が異様に高い。

 空気を焼き、校庭の表面がじり、と音を立てて焦げる。

 

 るるが手を振ると同時に、

 火の玉が高速で砲弾のように赤羽へ殺到した。

 

 だが――

 

 赤羽の足元の影が、蠢いた。

 

 地面に落ちた影から、

 赤黒い触手が一斉に伸び上がる。

 

 ぬめりを帯びた、しかし鋼のように硬い触手が、

 火の玉を正面から叩き潰す。

 

 ――バンッ! バンッ!

 

 爆ぜる炎。

 だが、赤羽には一切届かない。

 

「……っ!」

 

 るるが目を見開く間もなく、

 赤羽はその触手を足場にした。

 

 影を蹴り、

 影を踏み、

 影を走る。

 

 赤羽の身体が、空中へ跳ね上がる。

 

 赤羽は両手にオーラを集め、

 今度は手を合わせ、指を二本ずつ、すっと立てた。

 

 形作られるのは――

 刀。

 

 刃は見えない。

 だが、空間がそれを“刃だと理解している”。

 

 赤羽は、空中で一閃。

 

 ――切り裂く動作。

 

「……やべっ……!」

 

 るるは反射的に大鎌を構える。

 

 だが。

 

 次の瞬間、

 パキンという乾いた音とともに、

 大鎌は――真っ二つに割れた。

 

「……あ」

 

 刃の断面が、ぼろりと崩れ、

 瘴気が霧のように散る。

 

 るるは即座に判断し、

 鎌を消滅させる。

 

 刃が完全に消えると同時に、

 身を低くして、赤羽の斬線から滑り出る。

 

 紙一重。

 

 赤羽は着地し、すぐに追わない。

 

 代わりに――

 掌を、前に向けた。

 

 遠くまで距離を取ったるるの方へ。

 

 その仕草を見た瞬間、

 るるの顔色が、はっきりと変わる。

 

「……マジ……!?」

 

 思わず、片手で頭を抱える。

 

 体勢が、ほんの少しだけ崩れる。

 

「あはは……」

 

 乾いた笑い。

 

「ちょっと……」

「ヤバいかも……」

 

 息は荒く、

 額から汗が伝い落ちる。

 

 赤羽が一歩、距離を詰めようとした瞬間だった。

 

 るるは、慌てたように赤羽へ手のひらを向ける。

 

「……待って……」

 

 肩で大きく息をしながら、

 声は少し掠れている。

 

「ちょ、ちょっと……タンマ……」

 

 それでも口元は、どこか楽しそうだった。

 

 赤羽は動きを止め、首を傾げる。

 

「……もう、良いんですか……?」

 

 まだ余力がある。

 そう言外に伝わる立ち姿。

 

 るるはそれを見て、くすっと笑った。

 

「うん……もう、いいや……」

 

 息を整えようともせず、

 素直に認める。

 

「私もさ……」

「ちょっと……ガス欠だし……」

 

 そう言って、スカートのポケットをつまみ、

 ひらひらと裏返してみせた。

 

 ――中は、空っぽ。

 

 琥珀は一つも残っていない。

 

「……」

 

 疲れたように、でも満足げに息を吐き、

 るるは赤羽を見つめる。

 

「君さ……」

 

 一拍。

 

「……人間じゃ、ないでしょ……」

 

 それだけ言い残すと、るるは背を向けた。夕闇に溶ける栗色の髪だけが揺れる。

 

 彼女はそのまま、碧星院高校の校庭を横切り――

 

 何事もなかったかのように、

 出口へ向かって歩いていった。

 

 赤羽は、ふっと力を抜いた。

 

「……まあ、一応……」

 

 それから、横にいる江良の方を見る。

 

「これで、閏時の一件は……」

「解決、ですかね」

 

 校庭に残るひび割れや焦げ跡とは裏腹に、

 その声音はあまりにも穏やかだった。

 

 江良はというと――

 完全に固まっていた。

 

 目を見開いたまま、

 赤羽をまじまじと見つめ、

 

「……つっよ……」

 

 思わず、素で呟く。

 

 赤羽が一歩近づくと、

 江良は反射的に、一歩後ずさった。

 

 距離を取るように。

 

「……?」

 

 赤羽は不思議そうに首を傾げる。

 

「御伽原さん……?」

 

「あっ、いやいや!」

 

 江良は慌てて手を振り、

 露骨に取り繕うような笑顔を作った。

 

「ああ、ごめんごめん!」

「びっくりしただけ! 本当に!」

 

 そして、わざと明るい声で続ける。

 

「いやぁ〜、赤羽さんの修行に付き合うつもりがさ」

「まさか、事件そのものが解決しちゃうとはね!」

 

 肩をすくめる。

 

「これはもう……」

「地下で寿司、奢るしかないわ!」

 

 ぽん、と赤羽の背中を軽く叩く。

 

 赤羽は少しきょとんとしたあと、小さく笑った。

 

「……じゃあ、遠慮なく」

 

 

 

 

 

 

 

 校庭の外――フェンス越しの通路を、息を切らしながら一人の影が駆けてくる。

 

「ごめん……!」

「遅れたわ!」

 

 森中花咲だった。

 

 額に浮かんだ汗をそのままに、校庭の中へ視線を走らせる。

 

 だが、その前に――

 

「あっ!」

 

 るるが森中を見つけ、ぱっと表情を明るくした。

 

「森中さん!」

 

 さっきまでの戦いなど存在しなかったかのように、

 軽い足取りで駆け寄る。

 

「うわぁ……」

「雑誌で見るより、綺麗……!」

 

 屈託のない笑顔。

 純粋な感嘆。

 

「あ……は、はい……」

 

 森中は完全に不意を突かれ、

 一瞬言葉に詰まりながらも、慌てて頭を下げる。

 

「ありがとうございます……」

 

 それだけ言うのが精一杯だった。

 

 るるは満足そうに頷き、

 手を軽く振る。

 

「応援してますから!」

 

 そうして挨拶を終えると、

 るるは何の未練もなさそうに、校庭を抜けていく。

 

 ――学園のゲート。

 

 その場所で、るるは懐から一冊の手帳を取り出した。

 

 白い革の表紙。蒼く輝く翼の紋章。

 

 それを、何気ない仕草でかざす。

 

 その光景を――森中は、たまたま見てしまった。

 

「……え……?」

 

 あの紋章。見覚えが、ありすぎる。

 

 無意識に息を殺し、小さく恐る恐る呟いた。

 

「……ヘルエスタの……」

「第三皇女の、友人って……」

 

 言葉が、途中で途切れる。

 

「……まさか……」

 

 るるの背中は、もう人混みの向こうに溶けかけていた。

 

 

 

 

 

 

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「……見た?」

「あの子の絵……」

 

 都内の閑静な住宅地に居場所を構える建造物。

 

 東都芸術大学。

 

 その天井の高い広めの教室には、乾ききらない絵の具の匂いが重く漂っていた。

 

 中央に据えられた巨大なキャンパス。その前に立つ女子大生――鈴原るるは、迷いのない手つきで筆を動かしている。

 

 描かれているのは――人の形をしているようで、していないもの。

 

 歪んだ骨格。

 幾重にも重なった肉の線。

 眼とも口ともつかない穴が、キャンパスの奥からこちらを覗き返してくる。

 

 色彩は赤と黒が支配的だが、ただの血の色ではない。

 内臓を思わせる濁りの中に、なぜか透明感があり、

 光を受けるたび、微妙に表情を変えて見える。

 

 教室の外――

 ガラス越しにその光景を一瞬だけ覗いた学生たちが、足を止め、ひそひそと声を落とす。

 

「かなり、きてるよね……」

「正直、ちょっと……見たくないかも……」

 

 引いたような視線。

 けれど彼らは長く留まらず、足早にその場を通り過ぎていく。

 

 教室の中では、当の本人はまったく気にしていなかった。

 

 淡い色の長い髪が肩から滑り落ち、

 無防備な笑みを浮かべたまま、筆先に集中している。

 

 服の袖やスカートには、赤い絵の具が点々と跳ねていた。

 だが、それを払おうとする様子もなく、

 まるで気づいていないかのようだ。

 

 恐ろしい。

 けれど、目を逸らせない。

 

 キャンパス全体から漂うのは、

 単なる嫌悪ではなく、引き込まれるような美しさだった。

 

 教室内の照明が、その絵に当たるたび、

 赤は深く、黒は艶を帯び、

 まるで“生きている”かのように輝きを増す。

 

 るるは、筆を走らせながら、楽しそうに呟く。

 

「……昨日はぁ……」

「良いもの、見られたな〜」

 

 独り言とは思えないほど、機嫌の良い声音。

 

 最後に太い線を一筆入れ、そこでようやく動きを止める。

 

 少し離れて、キャンパス全体を眺め――満足そうに、くすりと笑った。

 

「次は……いつ会えるかな〜」

 

 期待を含んだ、甘い声。

 

「……霊能力者ちゃんっ」

 

 その呟きは、

 誰に聞かせるでもなく、

 ただ、完成したばかりの“それ”に向けられていた。

 

 教室の時計は、静かに時を刻んでいる。

 

 だが、そのキャンパスの中だけは――まるで、別の時間が流れているかのようだった。

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