江良は一瞬、肩に力が入りかけるのを自覚し、深く息を吸ってから言葉を選んだ。
「あのね……」
口元だけで笑う。
だが目は、まったく笑っていない。
「悪いけどさ」
「私たち、これから女と女の大事な話するんだよね」
夕焼けの中、わざとらしく肩をすくめる。
「野次馬なら悪いんだけど」
「ちょっと後にしてくれないかな」
拒絶の意志は、はっきりしていた。
――にもかかわらず。
「……魔法の撃ち合いなら」
栗色の髪の女性は、首を傾げたまま、不思議そうに言った。
「やめといた方がいいと思うよ?」
まるで、
“日常会話”の延長みたいな軽さ。
「打ちどころ、悪いとさ」
「シャレにならないから」
しれっと。
あまりにも自然に。
「……っ」
江良と赤羽の表情が、同時に固まる。
その反応を見て、女性は――
満足そうに、また笑った。
「嫌だ〜」
「そんな顔、しないでよ〜」
手招き。
さっきより、少し近い。
「そうだったら危ないな〜っていう」
「ただの妄想だからさ〜」
声は柔らかい。
けれど、その言葉が空気に溶けない。
校庭の照明が、ちり、と瞬いた。
江良は一歩、半身になる。
「……ただの妄想で」
低く、噛みしめるように。
「魔法なんてワード」
「出てくるわけ、ないだろ……」
視線は女性から逸らさない。
指先に、無意識の力がこもる。
江良は一歩前に出て、栗色の髪の女性を睨み据えた。
「第一……どうやって、ここに来た?」
声は低い。
「碧星院高校はな」
「正規のゲート通らないと、入れないぞ……」
Σの訓練校。
立ち入り禁止の閉鎖的な空間。
この校庭に“偶然”辿り着けるはずがない。
それを聞いた女性は、きょとんとした顔で首を傾げ――
次の瞬間、ぽん、と手槌を打った。
「ああ……」
何かを思い出したように、にこりと笑う。
「自己紹介が、まだでしたね」
夕暮れの赤に照らされたその笑顔は、
可愛らしいはずなのに、どこか不釣り合いだった。
「閏時ではあんなに楽しく遊んだのに」
「名前も名乗ってないなんて、失礼でした」
一歩、ゆっくりと前に出る。
「はじめまして」
柔らかく、丁寧な声音。
「私は――鈴原るる」
その瞬間。
彼女の指先にあった琥珀色の石が、
まるで溶けるように、ふっと消えた。
空気が、重く沈む。
瘴気。
黒とも紫ともつかない靄が、
彼女の背後から溢れ出し、校庭の地面を這う。
そして、その瘴気が形を持つ。
ぎしり、と嫌な音を立てながら、
長大な刃が具現化する。
柄は歪み、
刃は月光を拒むように黒ずみ、
触れれば魂ごと刈り取られそうな――
大鎌。
それを、彼女は慣れた手つきで握った。
重さなど感じていないかのように。
「蒼翼の意を継ぐ」
声は穏やかなまま。
「――魔法使いです」
鎌の刃先が、かすかに地面へ向けられる。
その影が、校庭いっぱいに不自然な形で広がった。
江良の喉が、ひくりと鳴る。
江良が踏み込もうとした、その直前。
「……待ってください」
赤羽の声が、校庭に落ちた。
低くも高くもない、
だが不思議と通る声。
江良も、るるも、動きを止める。
赤羽は椅子から立ち上がり、まっすぐに大鎌を構える少女を見る。
「じゃあ……」
「あなたが、閏時の時間を引き延ばしていた犯人なんですか?」
問いは、責める調子ではなかった。
ただ、事実確認。
るるはぱちぱちと瞬きをしてから、
にこっと笑った。
「そうだよ〜」
あまりにも軽い。
「最初はね〜」
「イタズラのつもりだったんだけど」
鎌を肩に預け、楽しそうに続ける。
「なんかさ、突っかかってくる人がいるから」
「だんだん、面白くなっちゃって〜」
視線が、江良に向く。
「そこの魔法使いさんもさ」
「調査しやすかったでしょ?」
悪意はない。
本当に、“遊び”の延長でしかない声音。
赤羽は、しばらくるるを見つめ――
理由も、正義も、説教も口にしなかった。
「……やめてくれませんか」
ただ、それだけ。
率直で、真っ直ぐな言葉。
るるは一瞬きょとんとしてから、
拍子抜けしたように笑う。
「いいよ〜」
「もう、ちょっと飽きてきたし」
「良いのかよ!!」
我慢できず、江良が突っ込む。
だが、るるはその声を気にも留めず、
くるりと大鎌を持ち替えた。
刃が夕闇を切り裂き、
瘴気が、再び濃くなる。
「まあでも……」
声のトーンが、少しだけ変わる。
「その代わり」
鎌を構え直し、無邪気で、残酷な笑みを浮かべた。
「――私と、遊んでくれるかな?」
るるの足元が、爆ぜた。
地面を蹴った瞬間、彼女の身体は鎌ごと宙を裂き、夕闇の校庭に黒い軌跡を残して赤羽へと迫る。
瘴気をまとった大鎌が振り下ろされる、その刃が空気を切り裂く音すら――
次の瞬間には、なかった。
椅子から立ち上がったはずの赤羽の姿が、消失する。
否、消えたように“見えただけ”。
赤と緑のオッドアイが、空間の層を踏み抜いたのだ。
「――っ!?」
鎌は空を切り、地面に衝撃が走る。
だが、手応えがない。
「すごい!」
「それ、どうなってるの!?」
るるは心底楽しそうに声を弾ませ、くるりと回りながら周囲を見回す。
瘴気が校庭を覆い、視界を歪める。
影が増殖し、どれが本物か分からない。
――その上。
影の死角、校庭灯の光が届かない空間から、
赤羽が現れた。
落下。
音もなく、ただ速度だけを伴って。
手にした斧が、重力と意志を乗せて振り下ろされる。
刃が夜を割る。
だが――
るるの姿が、霧のように消えた。
斧は地面を叩き割り、ひび割れが放射状に走る。
赤羽は即座に後方へ跳ぶ。
校庭の端、距離を取った位置に、るるが再構成される。
「いや〜、危ない危ない」
軽い調子で笑いながら、るるは懐に手を入れ、
琥珀を複数、同時に消した。
――次の瞬間。
ズンッ!!
赤羽の足元の地面が隆起し、
瘴気を纏った鋭利な槍が突き出す。
一本ではない。
二本、三本、四本。
連鎖的に、追尾するように地面を割っていく。
赤羽は跳ぶ。
踏み切り、空中で体勢を変え、さらに跳ぶ。
槍は止まらない。
赤羽の着地点を読み、先回りして突き出す。
校庭が、まるで生き物のようにうねる。
赤羽は宙を駆ける。
空間の継ぎ目を踏み、視界の外へ、さらに上へ。
槍が、空を裂いて伸びる。
「わぁ……!」
「逃げるの、上手だね!」
るるは嬉しそうに鎌を構え直し、
瘴気が刃から滝のように零れ落ちる。
赤羽は空中で体を反転させ、
オッドアイで全体を見渡す。
彼女はさらに加速する。
追い縋る槍の群れが、
赤羽の残像だけを貫いていく。
赤羽は着地と同時に、深く息を吸った。
足裏が、確かに地面を捉える。
揺れる校庭、迫る瘴気、そのすべてを一度、切り離す。
――斧を、手放した。
重たい金属音が地面に落ちるより早く、
赤羽の両手に、淡い光が集まり始める。
確かに“生”の気配を持つオーラ。
空気が、軋む。
赤羽は、何かを掴むように両腕を広げ――
次の瞬間、それを引き裂く動作をした。
見えない刃が、走る。
――ズンッ!!
衝撃が空間ごと叩き割り、
るるの身体が、後方へと吹き飛ばされた。
地面を転がり、土煙が上がる。
「……っ!」
一瞬、静寂。
だが。
るるは、ゆっくりと立ち上がった。
膝に手をつき、肩で息をしながら、
額にははっきりと冷や汗。
それでも――笑っている。
「うおっ……すごいよ!」
息を整えながら、楽しそうに声を上げる。
「これ、めっちゃ効くね!」
「びっくりした〜!」
鎌を杖代わりにして体勢を立て直し、
その刃に、再び瘴気が絡みつく。
その瞬間。
赤羽は、もう動いていた。
落とした斧を拾い上げ、
踏み込み、間合いを一気に詰める。
――斬撃。
横薙ぎ、上段、連続した振り下ろし。
だが、るるは逃げない。
大鎌を構え、金属音とともに斧を受け止める。
刃と刃が噛み合い、
火花が散る。
「っ……!」
赤羽は力を込める。
腕が震え、地面に足跡が刻まれる。
るるは、その力を真正面から受けず、
角度をずらし、滑らせるように流した。
鍔迫り合い。
距離は、吐息がかかるほど近い。
「いいね……!」
るるの声は、少し掠れている。
赤羽は答えない。
ただ、歯を食いしばり、再び斧を振る。
るるは鎌を返し、
刃の内側で斧を絡め取るように受け流す。
重たい金属同士がぶつかる音が何度も響く。
るるは、鍔迫り合いの隙に一歩引きながら、スカートのポケットを指で探った。
「あっ……やべ……」
一瞬だけ、何かを思い出したような声。
だがそのまま、琥珀を数粒取り出し――消す。
次の瞬間。
ぼん、ぼん、と乾いた破裂音とともに、
るるの周囲に火の玉が浮かび上がった。
黒い炎は大きく、密度が異様に高い。
空気を焼き、校庭の表面がじり、と音を立てて焦げる。
るるが手を振ると同時に、
火の玉が高速で砲弾のように赤羽へ殺到した。
だが――
赤羽の足元の影が、蠢いた。
地面に落ちた影から、
赤黒い触手が一斉に伸び上がる。
ぬめりを帯びた、しかし鋼のように硬い触手が、
火の玉を正面から叩き潰す。
――バンッ! バンッ!
爆ぜる炎。
だが、赤羽には一切届かない。
「……っ!」
るるが目を見開く間もなく、
赤羽はその触手を足場にした。
影を蹴り、
影を踏み、
影を走る。
赤羽の身体が、空中へ跳ね上がる。
赤羽は両手にオーラを集め、
今度は手を合わせ、指を二本ずつ、すっと立てた。
形作られるのは――
刀。
刃は見えない。
だが、空間がそれを“刃だと理解している”。
赤羽は、空中で一閃。
――切り裂く動作。
「……やべっ……!」
るるは反射的に大鎌を構える。
だが。
次の瞬間、
パキンという乾いた音とともに、
大鎌は――真っ二つに割れた。
「……あ」
刃の断面が、ぼろりと崩れ、
瘴気が霧のように散る。
るるは即座に判断し、
鎌を消滅させる。
刃が完全に消えると同時に、
身を低くして、赤羽の斬線から滑り出る。
紙一重。
赤羽は着地し、すぐに追わない。
代わりに――
掌を、前に向けた。
遠くまで距離を取ったるるの方へ。
その仕草を見た瞬間、
るるの顔色が、はっきりと変わる。
「……マジ……!?」
思わず、片手で頭を抱える。
体勢が、ほんの少しだけ崩れる。
「あはは……」
乾いた笑い。
「ちょっと……」
「ヤバいかも……」
息は荒く、
額から汗が伝い落ちる。
赤羽が一歩、距離を詰めようとした瞬間だった。
るるは、慌てたように赤羽へ手のひらを向ける。
「……待って……」
肩で大きく息をしながら、
声は少し掠れている。
「ちょ、ちょっと……タンマ……」
それでも口元は、どこか楽しそうだった。
赤羽は動きを止め、首を傾げる。
「……もう、良いんですか……?」
まだ余力がある。
そう言外に伝わる立ち姿。
るるはそれを見て、くすっと笑った。
「うん……もう、いいや……」
息を整えようともせず、
素直に認める。
「私もさ……」
「ちょっと……ガス欠だし……」
そう言って、スカートのポケットをつまみ、
ひらひらと裏返してみせた。
――中は、空っぽ。
琥珀は一つも残っていない。
「……」
疲れたように、でも満足げに息を吐き、
るるは赤羽を見つめる。
「君さ……」
一拍。
「……人間じゃ、ないでしょ……」
それだけ言い残すと、るるは背を向けた。夕闇に溶ける栗色の髪だけが揺れる。
彼女はそのまま、碧星院高校の校庭を横切り――
何事もなかったかのように、
出口へ向かって歩いていった。
赤羽は、ふっと力を抜いた。
「……まあ、一応……」
それから、横にいる江良の方を見る。
「これで、閏時の一件は……」
「解決、ですかね」
校庭に残るひび割れや焦げ跡とは裏腹に、
その声音はあまりにも穏やかだった。
江良はというと――
完全に固まっていた。
目を見開いたまま、
赤羽をまじまじと見つめ、
「……つっよ……」
思わず、素で呟く。
赤羽が一歩近づくと、
江良は反射的に、一歩後ずさった。
距離を取るように。
「……?」
赤羽は不思議そうに首を傾げる。
「御伽原さん……?」
「あっ、いやいや!」
江良は慌てて手を振り、
露骨に取り繕うような笑顔を作った。
「ああ、ごめんごめん!」
「びっくりしただけ! 本当に!」
そして、わざと明るい声で続ける。
「いやぁ〜、赤羽さんの修行に付き合うつもりがさ」
「まさか、事件そのものが解決しちゃうとはね!」
肩をすくめる。
「これはもう……」
「地下で寿司、奢るしかないわ!」
ぽん、と赤羽の背中を軽く叩く。
赤羽は少しきょとんとしたあと、小さく笑った。
「……じゃあ、遠慮なく」
校庭の外――フェンス越しの通路を、息を切らしながら一人の影が駆けてくる。
「ごめん……!」
「遅れたわ!」
森中花咲だった。
額に浮かんだ汗をそのままに、校庭の中へ視線を走らせる。
だが、その前に――
「あっ!」
るるが森中を見つけ、ぱっと表情を明るくした。
「森中さん!」
さっきまでの戦いなど存在しなかったかのように、
軽い足取りで駆け寄る。
「うわぁ……」
「雑誌で見るより、綺麗……!」
屈託のない笑顔。
純粋な感嘆。
「あ……は、はい……」
森中は完全に不意を突かれ、
一瞬言葉に詰まりながらも、慌てて頭を下げる。
「ありがとうございます……」
それだけ言うのが精一杯だった。
るるは満足そうに頷き、
手を軽く振る。
「応援してますから!」
そうして挨拶を終えると、
るるは何の未練もなさそうに、校庭を抜けていく。
――学園のゲート。
その場所で、るるは懐から一冊の手帳を取り出した。
白い革の表紙。蒼く輝く翼の紋章。
それを、何気ない仕草でかざす。
その光景を――森中は、たまたま見てしまった。
「……え……?」
あの紋章。見覚えが、ありすぎる。
無意識に息を殺し、小さく恐る恐る呟いた。
「……ヘルエスタの……」
「第三皇女の、友人って……」
言葉が、途中で途切れる。
「……まさか……」
るるの背中は、もう人混みの向こうに溶けかけていた。
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「……見た?」
「あの子の絵……」
都内の閑静な住宅地に居場所を構える建造物。
東都芸術大学。
その天井の高い広めの教室には、乾ききらない絵の具の匂いが重く漂っていた。
中央に据えられた巨大なキャンパス。その前に立つ女子大生――鈴原るるは、迷いのない手つきで筆を動かしている。
描かれているのは――人の形をしているようで、していないもの。
歪んだ骨格。
幾重にも重なった肉の線。
眼とも口ともつかない穴が、キャンパスの奥からこちらを覗き返してくる。
色彩は赤と黒が支配的だが、ただの血の色ではない。
内臓を思わせる濁りの中に、なぜか透明感があり、
光を受けるたび、微妙に表情を変えて見える。
教室の外――
ガラス越しにその光景を一瞬だけ覗いた学生たちが、足を止め、ひそひそと声を落とす。
「かなり、きてるよね……」
「正直、ちょっと……見たくないかも……」
引いたような視線。
けれど彼らは長く留まらず、足早にその場を通り過ぎていく。
教室の中では、当の本人はまったく気にしていなかった。
淡い色の長い髪が肩から滑り落ち、
無防備な笑みを浮かべたまま、筆先に集中している。
服の袖やスカートには、赤い絵の具が点々と跳ねていた。
だが、それを払おうとする様子もなく、
まるで気づいていないかのようだ。
恐ろしい。
けれど、目を逸らせない。
キャンパス全体から漂うのは、
単なる嫌悪ではなく、引き込まれるような美しさだった。
教室内の照明が、その絵に当たるたび、
赤は深く、黒は艶を帯び、
まるで“生きている”かのように輝きを増す。
るるは、筆を走らせながら、楽しそうに呟く。
「……昨日はぁ……」
「良いもの、見られたな〜」
独り言とは思えないほど、機嫌の良い声音。
最後に太い線を一筆入れ、そこでようやく動きを止める。
少し離れて、キャンパス全体を眺め――満足そうに、くすりと笑った。
「次は……いつ会えるかな〜」
期待を含んだ、甘い声。
「……霊能力者ちゃんっ」
その呟きは、
誰に聞かせるでもなく、
ただ、完成したばかりの“それ”に向けられていた。
教室の時計は、静かに時を刻んでいる。
だが、そのキャンパスの中だけは――まるで、別の時間が流れているかのようだった。