第三章 第一話:来客
夕暮れの街中。
赤く染まりきらない空の下、仕事帰りの人波と、買い物袋を提げた人々が交差点に溜まっていた。
その中に――やけに浮いた存在がひとり。
「♪い~じわ~るなやつは~
ぬれぞ~きん~」
赤羽葉子は、妙に上機嫌だった。
コンビニの白いレジ袋をぶら下げ、その中にはペットボトルが数本、ガチャガチャと無遠慮な音を立てている。
「に~して~し~ぼれ~♪」
歌詞の物騒さとは裏腹に、声色はやけに軽く、鼻歌の延長のようだ。
「……なんや……物騒な歌やなぁ……」
少し離れた歩道の端で、笹木咲は思わず足を止めていた。
パーカーのフードを被ったまま、呆れたようにその背中を眺める。
(……あれ、ばねさんやんな)
歌いながら歩く姿は、どう見ても「何かを企んでいる」ようには見えない。
ただ、楽しそうに――いや、楽しすぎるくらいに――街を練り歩いているだけだ。
(どっかで遊んでんのか……?)
買い出し帰りにしてはテンションがおかしい。
だが、赤羽葉子という人間を思い返せば、「まあ、いつものことか」とも思えてしまう。
信号は赤。
赤羽は立ち止まり、体重をつま先に乗せたまま、また歌い出す。
「な~きむ~しいじめるあい~つの~」
レジ袋を揺らしながら、くるりと一回転。
「みみもとで~シャウトしよ~♪」
「やめえや!!」
反射的だった。
街の雑音に紛れることなく、はっきりとしたツッコミが飛ぶ。
赤羽の肩が、ぴくりと跳ねた。
「……え?」
きょとんとしたまま振り返り、数秒。
見覚えのあるパーカー姿を認識した瞬間、ぱっと表情が緩む。
「あ、笹木さん」
まるで偶然コンビニで会ったかのような軽さで、赤羽は手を振った。
「こんばんは〜。なにしてるんですか?」
「それはこっちの台詞やっちゅーねん……」
笹木はため息混じりに近づきながら、レジ袋を指差す。
「で、ばねさん。
それ、どっか遊びに行くんか?」
横断歩道を渡り切ったところで、笹木が何気なくそう聞いた。
赤羽は一瞬きょとんとしたあと、ぱっと顔を明るくして、
「あ、笹木さんも来ます?」
軽い調子で言った。
「は?」
笹木は思わず足を止める。
「高坊の遊び場に二十歳が行ったら、不審者やろ」
即座に突っ込むと、赤羽は慌てたように両手をぱたぱたと振った。
「ち、違います違います〜!
ちゃんと大人いますよ〜」
「……誰や」
「森中さんもいますよ〜」
その名前を聞いた瞬間、笹木の肩からふっと力が抜けた。
「……あ、そうなんか……」
ほんの一瞬だけ、警戒が解けたように顔が緩む。
そして、少し間を置いてから、
「……誰と遊んどるんや」
探るように、低く聞いた。
「えっとですね〜」
赤羽は指を折りながら思い出すように言う。
「こないだの……夜見さんと……葉加瀬さんって人と…」
――空気が、止まった。
「……」
笹木の表情から、血の気がすっと引いていく。
目を見開いたまま、数秒、言葉が出ない。
「……あぁ……」
「……」
小さく、ほとんど独り言のように呟く。
そして、視線を逸らし、ぽつりと。
「……帰るわ……」
笹木は踵を返した。
洗面所に白い照明が落ち、鏡の前に立つ森中花咲は、指先で前髪を軽く整えていた。
ドライヤーの余熱がまだ残る空気の中で、頬のラインを確かめるように顔を傾ける。
「……やだ……」
ぽつりと、独り言のように。
「私、美人すぎ……」
その背後。
洗面所の入口にもたれかかり、腕を組んで見ていた葉加瀬冬雪は、即座にため息をついた。
「そういうの良いから……」
呆れを隠そうともしない声。
森中はくるっと振り返り、少しだけムッとしたように眉を上げる。
「いやいや、聞いてよ」
もう一度鏡に向き直りながら、続ける。
「ほら、いっつもさ……
もっと芋くさいと言うか……」
頬に軽く手を当て、考え込むように視線を動かす。
「……だいぶメイク上手くなったなって思って」
言い訳というより、素直な感想だった。
葉加瀬は無言のまま、一歩前に出る。
そして、横から森中の顔を覗き込むようにして、じっと観察した。
「……」
数秒。
「……モデルなんかになりやがって……」
ぼそっと、低い声で呟く。
さらに視線を逸らしながら、
「あー……変な心配してて損したわ」
吐き捨てるように言った。
森中は一瞬きょとんとしたあと、くすっと小さく笑う。
「なにそれ」
「別に」
葉加瀬はそっぽを向いたまま、ぶっきらぼうに答える。
洗面所から戻ってくると、リビングはすでに「集まり」の形になっていた。
カーペットの上、低い机の前。
赤羽は夜見の横にちょこんと座り、コンビニ袋から買ってきたジュースを次々と取り出して並べている。
「紙コップでよかったですかね〜」
そう言いながら、透明なグラスにオレンジジュースを注ぐ。
とぽとぽと、やけに音がよく響いた。
「お菓子とかも、買ってくれば良かったですね」
どこか申し訳なさそうに言う赤羽に、葉加瀬はカーペットの上に腰を下ろし、机の前に座ったまま、少しだけ間を置いて口を開く。
「あ……いや」
一瞬、言葉を選ぶように視線を泳がせてから、
「森中さんに、スナック菓子とかは……ちょっと……」
その歯切れの悪さに、森中花咲はすぐ反応した。
「大丈夫大丈夫!」
軽いノリで手を振る。
「キッチンの上にあるから、持ってきていいよ」
「え、ほんとですか?」
赤羽は顔を上げて森中を見る。
そして一瞬、納得したように、
「あ〜……」
小さく声を漏らしてから、
「スタイル良いですもんね、森中さん」
悪気のない、素直すぎる感想。
「……」
葉加瀬はぴたりと固まり、
「あ、いや……そうじゃなくて……」
と言いかけて、言葉に詰まる。
説明しようとして、やめたような沈黙。
しばらくしてから、諦めたように小さく息を吐いた。
「……まあ」
視線を逸らしつつ、
「克服したんなら、良いや……」
森中は一瞬だけ目を瞬かせてから、にっと笑う。
「何それ。心配してたの?」
「……別に」
葉加瀬はそっけなく返す。
赤羽はキッチンから戻ってくると、スナック菓子の袋を机の上に置いた。
ポテトチップスと、小さな個包装のお菓子がいくつか。
「どうぞ〜」
そう言ってから、ふと首を傾げるように周囲を見回す。
「あれ……」
リビングを一周見渡してから、
「今日は、むぎさんは呼んでないんですね」
何気ない問いだった。
それに、夜見れなが待ってましたと言わんばかりに身を乗り出す。
「そう!」
少し高めの声で、張り切って言う。
「今日はね、水無月小学校の集まりだからね!」
胸を張って、えっへん、とでも言いそうな勢いで続けた。
「夜見も今日は、末っ子アイドルだからね!」
「……」
その宣言に、赤羽は一瞬だけ固まり、
それから、そっと視線を落とす。
「……プチ同窓会ってことですか?」
小さく問いかけるような声。
「私……いて、良いのかな……」
目を逸らし、カーペットの模様を見つめる。
場違いなんじゃないか、という不安が、その仕草に滲んでいた。
その様子を見て、葉加瀬が机の向こうから軽く手招きする。
「いいよいいよ」
あっさりとした口調。
「なんだかんだ、夜見さんもお世話になったみたいだし」
そう言ってから、ちらりと夜見を見る。
「ね?」
夜見は一瞬だけきょとんとしたあと、
すぐににこっと笑って頷いた。
「うん。赤羽ちゃん、いると助かるし」
赤羽はその言葉に、少しだけ肩の力が抜けたようだった。
「……そっか」
小さく笑って、机の前に座り直す。
森中は、さりげなく夜見の横に寄ると、少しだけ身を屈めて声を潜めた。
「で、どうなったの?」
口元に笑みを浮かべたまま、
「レベル5になれた?」
からかい半分、探る半分。
「っ……!」
夜見は一瞬びくっと肩を跳ねさせ、頬をみるみる赤くする。
「も、もう!
そういうのは卒業したの!!」
ぷい、とそっぽを向いて反論するが、声は少し上ずっていた。
「えー?」
森中は一歩も引かず、ニヤニヤしながら追撃する。
「あんな必死に練習してたのにー?」
「……っ」
夜見は言い返そうとして、言葉を飲み込み、
「……まぁ……」
と、前を向いたまま、小さく呟く。
そして、両手を膝の上に置き、指同士をそっと近づける。
ぱち、と。
指先の間に、青白い電流がわずかに走った。
光るというより、滲むような、不安定な放電。
「……こんな感じ」
視線は前のまま。
「別にさ、鍛えたからって、たくさん使えるわけじゃないんだよね」
赤羽は思わず身を乗り出し、目を瞬かせる。
「おお……凄い……」
純粋な感嘆。
それを見て、葉加瀬が楽しそうに口元を緩める。
「他のも見せてやんなよ」
軽い調子で、
「この二人に見せたの、それだけでしょ」
「えっ」
夜見は慌てて振り向き、頬を膨らませる。
「いやっ!!」
両手を胸の前でばってんにして、
「マジックの鳩じゃないんだから!
そんなことしませーん!!」
「はいはい」
森中はくすくす笑いながら一歩下がる。
夜見は、少しだけ考えるように視線を彷徨わせてから、
「……じゃあ、ちょっとだけ」
そう言って、赤羽のほうを向いた。
そして――
じっと、目を見る。
距離は近いが、触れない。
ただ、視線だけを合わせたまま、しばらくその状態が続く。
「……?」
赤羽は瞬きを繰り返し、きょとんとした顔で固まった。
「え……なんですか?
その……なにしてるんですか……?」
問いかけても、夜見は答えない。
――数秒。
ふっと、夜見の動きが止まる。
次の瞬間、ぱっと顔を離し、
「……コホン」
わざとらしい咳を一つ。
そして、さっきまでのふざけた空気を切り替えるように、
少し真剣な目で赤羽を見る。
「君……なんか変だね」
「……え?」
赤羽は一瞬、意味が分からず固まる。
「へ……?」
あたふたと視線を泳がせてから、声を落として、
「あっ……!
あの、私……普通の人間じゃなくて……」
言い訳のように、小さく。
だが、夜見はすぐに首を横に振った。
「いや、そういうことじゃなくて」
きっぱりと否定する。
そして、少し考えるように顎に指を当ててから、淡々と続けた。
「あんたさ……
自分で自分の中の何かを、見ないようにしてるね」
「……?」
赤羽の目が揺れる。
夜見は言葉を選ぶように、一拍置いてから続ける。
「あ、勘違いしないでほしいんだけどさ」
軽く手を振り、
「別にね、怖いことがあったから、それを直視しないようにしてるって言いたいんじゃないよ」
視線は、赤羽の胸の奥を見透かすようで、
「あんた、自分の中の何かを……
自分でも忘れてる」
赤羽は、息を呑んだ。
「今の記憶の他に、また別の何かが潜んでる」
夜見は肩をすくめる。
「でも、それがなんなのかは――」
少しだけ、いつもの調子に戻って、
「私も知りませーん」
そう言って、ふっと距離を取る。
場の空気が、わずかに緩む。
「……まぁ、ただの勘だから」
夜見はそう付け足し、何事もなかったようにジュースへ手を伸ばした。
赤羽は、胸の奥に残ったざわつきを抱えたまま、身を乗り出す。
「それって……!」
問い詰めるような声になりかけた、その瞬間。
「あ!」
夜見が、わざとらしいほど明るい声を上げた。
「冬雪も森中さんも、お酒空っぽじゃーん!」
テーブルの上の缶を指差し、にこっと笑う。
「おかわりしないの〜?」
あまりにも唐突な話題転換。
「……」
赤羽は言葉を飲み込んだまま、固まる。
葉加瀬は一瞬だけ夜見を見る。
ほんのわずかな間――何かを察したような目。
そして、自然な声で言った。
「じゃあ夜見さん、森中さんと二人で買ってきて」
「え?」
森中が顔を上げる。
「夜見さん、未成年だから買えないでしょ」
さらっとした口調だが、そこにははっきりとした意図があった。
「……あー、そっか」
森中はすぐに理解し、小さく笑う。
「じゃ、行こっか」
夜見は一瞬だけ赤羽を見て、
何も言わず、すぐにいつもの顔に戻る。
「うん、行こ行こ〜」
立ち上がり、パーカーを整える。
「すぐ戻るからね」
軽く手を振り、森中と並んで玄関へ向かう。
ドアが閉まる音。
リビングに残ったのは、赤羽と葉加瀬だけ。
少しだけ、静かになる。
玄関のドアが閉まったあと、赤羽は少しだけ間を置いてから、葉加瀬の方を向いた。
「……森中さん、お菓子嫌いなんですか?」
素朴な疑問だった。
葉加瀬は、机の上のスナック菓子の袋を指先でつつきながら、
「そだよ〜」
軽い調子で答える。
しかし、すぐに「あ」と小さく声を漏らした。
「ああ、でも……今は平気って言ってたよな」
ついさっきのやり取りを思い出すように、視線を上に向ける。
「サッカロフォビア……って言っていいのか分からないけど、そんな感じだった」
「さっかろ……?」
赤羽が首を傾げる。
「私も上級生の子から聞いただけだけどさ」
葉加瀬は少し姿勢を崩しながら続ける。
「水無月小って、そういうの敏感だから……」
「敏感?」
「うん。森中さんのいたクラス、
他のクラスでは普通にもらえるお菓子とか、もらえなかったり」
「え」
「コーヒー牛乳の日も、そのクラスだけ無くなってたり。
遠足のソフトクリームも無し」
淡々と語られる内容に、赤羽の顔がしかめられる。
「うわっ……」
思わず口を押さえる。
「つまんな……」
苦い顔。
しかし、葉加瀬はポテトチップスの袋を開けながら、首を横に振った。
「いや」
ぱり、と一枚取りながら続ける。
「ぶっちゃけ、みんなそういう日は他のクラスまで取りに行ってて、それが公認されてたんだよ」
「え?」
「先生も本人も保護者も、それは知ってた」
ぱり、ともう一枚。
「だからさ、陰湿なそれとは違うと思う」
葉加瀬はポテトチップスの袋を閉じ、視線をふっと窓のほうへ逸らした。
「まあ、仲良くしてやってよ」
ぶっきらぼうにそう言ってから、少しだけ間を置く。
「なんか……あいつ、こないだ会った時さ」
言葉を探すように、目の上に手を当てる。
「雰囲気的に、中学高校くらいは楽しくやってんのかなーとか思ってたけど」
赤羽は静かに聞いている。
「全然喋らないんだよね……中学高校の話」
「……」
「あり得る?」
ぱっと赤羽を見る。
「普通さ、楽しかったら、小学校時代の反動とかもあって、むっちゃ喋るじゃん!?」
身振りが少し大きくなる。
「“あの時はさー!”とか、“あいつマジでさー!”とか」
そこで、手を額に当てたまま、小さく息を吐く。
「……絶対なんかあったんだよなぁ……」
困ったような、苛立ちと心配の混じった声。
赤羽はその言葉を聞きながら、ふと別の顔を思い出していた。
夕陽リリ。
家長むぎ。
あのとき聞いた断片的な話。
どこか歪で、どこか閉じた高校生活。
「……碧星院高校……」
無意識に、口からこぼれる。
葉加瀬はその単語にぴくりと反応し、
「あー……」
短く声を漏らす。
「マジであの人、あの後も貧乏くじばっかりだったんだなぁ……」
ソファの背に体を預け、天井を見上げる。
「私や夜見も、恵まれてはなかったけどさ」
少しだけ笑うが、それは軽いものではない。
「やっぱり一番は……」
言葉が途中で止まる。
何を言いかけたのか、赤羽には分からない。
けれど、その続きを言わなかった理由だけは、なんとなく分かる気がした。
コンビニの袋を片手に、夜見は住宅街の細い道を歩いていた。
春先の夜風が、髪をさらりと揺らす。
隣では森中が、少し頬を赤らめながらふらりと歩いている。
「……ちょっと飲みすぎたかも」
と、笑い混じりに呟く森中。
夜見はその横顔をちらりと見て、くすっと笑った。
「あれ、放っておくと大変なことになるかもね」
さらりと言う。
「……なんのこと……?」
森中はぼんやりと問い返す。
夜見は、街灯の下で足を止めると、口元に薄く笑みを浮かべた。
「あの子、ちょっとヤバイよ」
「……は?」
「凄い霊能力の持ち主だけどさ」
袋を揺らしながら、軽い口調で続ける。
「本人がそれに気づいてない」
「……」
「気づいていないっていうか……」
夜見は空を見上げた。
「本人はその“力”が、霊能力者として当たり前だと思ってる」
森中は足を止め、夜見をまっすぐ見る。
「……どういうこと?」
酔いは残っているが、目は少しだけ真剣だ。
夜見はにやりと笑う。
「ぶっちゃけると〜」
わざと語尾を引き延ばし、森中の焦れた視線を楽しむ。
そして、くすくす笑いながら言った。
「あの子は、本来“あの子”として生まれてない」
「……は?」
「“赤羽葉子”としての記憶は、どこかからは本当で、どこかまでは偽物」
さらりと、とんでもないことを言う。
「スワンプマン、知ってる?」
夜見は振り返らずに続ける。
「あんな感じ」
森中は数秒、沈黙した。
「……は?」
「もちろんね」
夜見は少しだけ肩をすくめる。
「今はもう、赤羽さんは赤羽さんで、他の誰でもないんだけど」
「……」
森中は、しばらく夜見の横顔を見つめる。
街灯の光で、夜見の瞳は淡く光っていた。
夜見は、どこか楽しげに空を見上げながら言った。
「これから面白くなりそう……」
森中が怪訝そうに横目で見る。
「ディノニクス、メガロサウルス、エオラプトル。」
夜見はくすくすと笑いながら続ける。
「全部、特別な恐竜だけどね」
夜風が二人の間を抜ける。
「その誰もがみんな、終わりの瞬間に立ち会えたわけじゃないからね」
森中の眉がわずかに寄る。
「……?」
意味を探ろうとするように、夜見を見る。
夜見は少しだけ歩みを緩め、森中の一歩前で立ち止まった。
「あの子、放っておいたら、もしかするとさ……」
振り返る。
視線は森中ではなく、夜空へ向けられている。
「この星において、大量絶滅はそんなに珍しいことじゃない」
声は穏やかで、まるで豆知識でも語るかのよう。
「むしろ、一部の人間に進化を促したり、急激な変化を与えるからね」
その言葉を聞いた瞬間、森中の表情から酔いの色が消えた。
「ちょっと、やめてよ……」
真顔で夜見を凝視する。
夜風だけが、二人の間を通り抜けていった。
午後三時を少し回ったころ。
ガラス張りの事務所に、外光が斜めに差し込んでいた。
受付脇の観葉植物が影を落とし、奥のソファでは椎名がだらりと背もたれに身体を預けている。
ドアが開く。
笹木が入ってくると同時に、椎名が顎で奥を指した。
「懐かしいやつ来てるで」
「は?」
咲がそちらを見る。
ガラス越しの陽を背にして、ソファの反対側に座っていたのは――
きっちりとしたスーツ姿。
柔らかく巻いた茶色の髪は肩で揺れ、以前より少しだけ大人びた化粧。けれど、大きな瞳と人懐っこい笑みは変わらない。
その女性は、ぱっと顔を上げて手を振った。
「さくちゃん、久しぶり〜!」
その声は、三年前と同じ明るさだった
咲は、目をぱちくりとさせる。
「……」
一拍。
二拍。
脳内で、制服姿で学校にいたあの少女と、目の前のスーツ姿がようやく重なる。
「ひ……ひまちゃん!?」
思わず一歩前に出る。
「こんなところまで来て……どうしたん!?」
ひまわりは立ち上がり、にこにこと笑う。
「えへへ〜、ちゃんとアポ取って来ました〜。社会人なので!」
「社会人アピールいらんわ!」
咲は思わずツッコむが、視線はまだどこか信じられない様子だ。
三年前、芝生でサボりを咎めてきた“陽キャ代表”
あの頃よりも背筋が伸び、言葉の端々に責任の匂いがある。
椎名はソファの背から身を起こし、面倒くさそうにひらひらと手を振った。
「で、ほんひま。今日は何? まさかマナー講座?」
「ちがうよ〜」
ひまわりは少しだけ表情を引き締める。
「ちゃんと“お仕事”の話」
その言い方に、咲の眉がぴくりと動いた。
「……お仕事?」
ガラス越しの午後の光が、三人の間に静かに落ちる。
ひまわりは、鞄からクリアファイルを取り出し、テーブルの上に置いた。
「さくちゃんに、お願いがあって来たの」