夜。
赤羽葉子の部屋は、明かりを消してからずいぶん経っていた。
窓の外では、遠くの車の音が時折流れるだけ。
時計の針が進む音と、自分の呼吸だけが、静かな部屋に溶けている。
――そのときだった。
ふと、赤羽は目を開けた。
(……?)
理由は分からない。
夢の続きでもない。
ただ、胸の奥にひっかかるような違和感。
誰かに見られているような――そんな感覚。
赤羽は布団の中で、ゆっくりと目だけを動かした。
暗い部屋。
机。椅子。カーテン。棚。
いつもの自分の部屋。
(……気のせい、かな)
そう思って、目を閉じかけた。
その瞬間。
――ぞわっ。
背中を冷たいものが這い上がる。
視線が、自然と部屋の隅へ引き寄せられた。
机と壁の間。
光の届かない、黒い影の溜まり。
(……今、動いた?)
赤羽の呼吸が浅くなる。
気のせいだと自分に言い聞かせる。
暗闇の錯覚。寝ぼけているだけ。
けれど――
そこにある“影”が、ほんのわずかに、揺れた。
まるで、何かが中で――
蠢いているように。
「……」
赤羽はゆっくりと布団から起き上がった。
心臓の音がうるさい。
視線を外したら、
それが突然近くに来る気がして、目が離せない。
(……虫?)
そう思おうとする。
(大きいゴキブリとか……)
けれど、その影は。
大きすぎる。
赤羽はそっと部屋を出た。
廊下の灯りがやけに明るく感じる。
壁に立てかけてあった、布団叩きを手に取る。
(大丈夫……)
(虫なら、叩けば……)
震える手で握り直す。
再び、部屋の扉を開ける。
暗い。
静か。
さっきと同じ部屋――
……のはずだった。
影は、さっきよりもはっきりしている。
そして。
さっきより、大きい。
「……え?」
赤羽の足が止まる。
影は、ゆっくりと膨らんでいた。
壁から、床から、天井から。
まるで部屋の暗闇そのものが、
一つの塊になっていくように。
ぐ……
ぐ、ぐ……
音はない。
だが、確かに何かが動いている。
赤羽は震えながら布団叩きを持ち上げた。
「や、やぁっ!」
影に向かって振り下ろす――
その瞬間。
影が、ぬるりと持ち上がった。
人の形。
いや。
人より遥かに大きい。
天井近くまで膨れ上がった黒い塊が、
ゆっくりとこちらを向く。
顔はない。
目もない。
それなのに――
確かに、見られている。
「……ぁ」
赤羽の喉から、声にならない音が漏れた。
影は、まだ膨らんでいく。
壁を覆い、天井に触れ、
部屋の半分を飲み込むほどに。
その中心が、ぐにゃりと歪んだ。
赤羽の足から力が抜けた。
「……っ」
その場に、どさりと倒れ込む。
布団叩きが、床に転がる。
赤羽は、床に倒れ込んだまま、震える身体でその影を見上げていた。
部屋の半分を覆うほどの黒い塊。
形は曖昧で、人の輪郭のようでもあり、煙のようにも見える。
それが、ゆっくりとこちらに傾いてくる。
赤羽の喉がかすれた。
「な、何よこれ……」
声はほとんど震えている。
「私に……何の用……?」
影は、しばらく動かなかった。
やがて。
空気が軋むような、声とも音ともつかない何かが、赤羽の耳元で囁いた。
――いや。
耳ではない。
頭の奥で、直接響いた。
『窶ヲ窶ヲ縺昴≧莉ー繧峨l縺セ縺励※繧やヲ窶ヲ』
低く、湿った響き。
どこか礼儀正しく、しかし人間の声ではない。
『縺ゅ↑縺溘&縺セ縺ォ縲√◎縺 シ縺セ繧後◆閠 〒縺 』
その言葉を聞いた瞬間。
赤羽の胸の奥で、何かが動いた。
恐怖とは別の感覚。
もっと深いところから、ゆっくりと――
何かが浮かび上がる。
「……」
赤羽の震えが、少しだけ止まる。
呼吸が変わる。
目の奥に、ぼんやりとした確信が灯る。
「……そうだ」
ぽつりと呟いた。
まるで、長い間忘れていたことを思い出したように。
赤羽はゆっくりと腕を持ち上げる。
影へ向かって。
手を差し伸べる。
「お ま え の な ま え は ……」
言いかけた、その瞬間。
――ばっ。
赤羽は跳ねるように起き上がった。
「っ……!」
息が荒い。
全身が汗でびっしょりだった。
心臓が、胸を叩き壊しそうなほど速く打っている。
部屋は――いつもの自分の部屋だった。
机。
椅子。
カーテン。
壁の時計。
暗闇の隅にも、何もない。
巨大な影も、蠢く気配も。
「……夢……?」
赤羽は震える手で額を拭う。
汗がぽたぽたと落ちた。
静かだ。
夜の音だけが、遠くで鳴っている。
しばらくして、赤羽はゆっくりと布団に座り直した。
胸の鼓動はまだ早い。
だが、それ以上に――
胸の奥に、妙な感覚が残っていた。
さっき、確かに。
自分は。
何かの名前を思い出しかけていた。
昼下がりの電車は、そこまで混んではいなかった。
窓の外を流れる街並みを背に、三人は並んで座っている。
しばらく揺れに身を任せていた笹木が、ふと赤羽の方を見て言った。
「なんやかんや、ばねさんと2人だけで行動すんのも初めてな感じやなぁ」
どこかしみじみした口調。
しかし赤羽は、スマホを見ながらあまり興味なさそうに答える。
「いつも家でゲームしてますもんねー」
「ぐっ」
即座に刺さる。
その横から、ひまわりが身を乗り出した。
「えぇ、そうなの~?」
にこにこしながら追い打ちをかける。
「不労所得なんて羨まし~」
「そんなことあらへんわ!」
笹木が慌てて身を起こす。
「うちやって……その……色々と忙しいんや」
「例えば?」
「え?」
「忙しいこと」
「……」
笹木は一瞬黙り、視線を泳がせる。
「い、色々や!」
無理やり言い切る。
その直後、はっとしてひまわりを指差した。
「てか、なんでお前までいるんや!」
ひまわりは少し肩をすくめ、照れくさそうに笑った。
「いやぁ……」
窓の外をちらっと見てから、
「二人で行くなら、ついていった方が面白そうかなって思って」
さらっと言う。
笹木は呆れ顔で天井を仰いだ。
「遠足ちゃうねんぞ……」
電車はガタン、と揺れながら次の駅へ向かって進んでいった。
電車は都心を離れるにつれて、徐々に車窓の景色が変わっていった。
高いビルが消え、住宅がまばらになり、やがて緑が増えていく。
そして――
ガタン、ゴトン。
急に、揺れ方が変わった。
「わっ……」
赤羽が思わず窓枠に手をつく。
さっきまでの滑らかな走りとは違う、線路を直に踏んでいくような感覚。
その様子を見て、笹木が得意げに笑った。
「こっから東京じゃなくなるからな」
「え?」
「凄いやろ」
窓の外を指差す。
「こーんな都会の電車が、山ん中走っていくんやで」
赤羽は窓の外を見る。
確かに、さっきまでの景色とは全く違う。
遠くに山。
線路の脇には木々。
ところどころに小さな駅と集落。
「へぇ……」
少しだけ興味を持った様子で、赤羽はしばらく外の景色を眺めていた。
電車はまた揺れながら、小さな駅に滑り込む。
ホームは短く、人もまばら。
赤羽は何気なく、窓の外に目を向けた。
――その瞬間。
視界の端に、金色が映る。
「……?」
ホームの端に、見知った顔が立っていた。
金色の髪。
小柄な体格。
どこか人形のように整った顔立ち。
え……りりむ…?
何してんの…?
最初は、ただの見間違いかと思った。
だが。
着ているのは、見覚えのある井ノ原総合学園の制服。
「……あっ!!」
赤羽は反射的に立ち上がった。
ドアの方へ駆けようとする。
だが。
――プシュー。
扉が閉まり、電車が動き出す。
「え、ちょっ……!」
ホームが、ゆっくりと遠ざかる。
窓越しに、もう一度その少女を見る。
金髪の小さな少女は、じっと電車を見上げていた。
その表情は、どこか不思議で――
まるで、最初から赤羽を見ていたかのようだった。
次の瞬間、駅は木々の向こうに流れていった。
「……」
赤羽はそのまま立ち尽くす。
隣から、ひまわりが顔を覗き込む。
「どうかしたの~?」
「えっ」
赤羽は慌てて視線を逸らした。
「あっ……いや、なんでもないです」
少し早口で言い繕う。
ひまわりは「ふーん?」と首を傾げるが、それ以上は聞かなかった。
電車は山の中を、ガタンゴトンと揺れながら進んでいく。
赤羽はもう一度、窓の外を見た。
けれど――
彼女の姿は、もうどこにも見えなかった。