こちら、都市伝説研究センターです。   作:えいどら

36 / 44
第三章 第亖話:少女

 夜。

 

 赤羽葉子の部屋は、明かりを消してからずいぶん経っていた。

 

 窓の外では、遠くの車の音が時折流れるだけ。

 時計の針が進む音と、自分の呼吸だけが、静かな部屋に溶けている。

 

 ――そのときだった。

 

 ふと、赤羽は目を開けた。

 

(……?)

 

 理由は分からない。

 夢の続きでもない。

 

 ただ、胸の奥にひっかかるような違和感。

 

 誰かに見られているような――そんな感覚。

 

 赤羽は布団の中で、ゆっくりと目だけを動かした。

 

 暗い部屋。

 机。椅子。カーテン。棚。

 

 いつもの自分の部屋。

 

(……気のせい、かな)

 

 そう思って、目を閉じかけた。

 

 その瞬間。

 

 ――ぞわっ。

 

 背中を冷たいものが這い上がる。

 

 視線が、自然と部屋の隅へ引き寄せられた。

 

 机と壁の間。

 光の届かない、黒い影の溜まり。

 

(……今、動いた?)

 

 赤羽の呼吸が浅くなる。

 

 気のせいだと自分に言い聞かせる。

 暗闇の錯覚。寝ぼけているだけ。

 

 けれど――

 

 そこにある“影”が、ほんのわずかに、揺れた。

 

 まるで、何かが中で――

 

 蠢いているように。

 

「……」

 

 赤羽はゆっくりと布団から起き上がった。

 

 心臓の音がうるさい。

 

 視線を外したら、

 それが突然近くに来る気がして、目が離せない。

 

(……虫?)

 

 そう思おうとする。

 

(大きいゴキブリとか……)

 

 けれど、その影は。

 

 大きすぎる。

 

 赤羽はそっと部屋を出た。

 

 廊下の灯りがやけに明るく感じる。

 

 壁に立てかけてあった、布団叩きを手に取る。

 

(大丈夫……)

 

(虫なら、叩けば……)

 

 震える手で握り直す。

 

 再び、部屋の扉を開ける。

 

 暗い。

 

 静か。

 

 さっきと同じ部屋――

 

 ……のはずだった。

 

 影は、さっきよりもはっきりしている。

 

 そして。

 

 さっきより、大きい。

 

「……え?」

 

 赤羽の足が止まる。

 

 影は、ゆっくりと膨らんでいた。

 

 壁から、床から、天井から。

 

 まるで部屋の暗闇そのものが、

 一つの塊になっていくように。

 

 ぐ……

 ぐ、ぐ……

 

 音はない。

 

 だが、確かに何かが動いている。

 

 赤羽は震えながら布団叩きを持ち上げた。

 

「や、やぁっ!」

 

 影に向かって振り下ろす――

 

 その瞬間。

 

 影が、ぬるりと持ち上がった。

 

 人の形。

 

 いや。

 

 人より遥かに大きい。

 

 天井近くまで膨れ上がった黒い塊が、

 ゆっくりとこちらを向く。

 

 顔はない。

 

 目もない。

 

 それなのに――

 

 確かに、見られている。

 

「……ぁ」

 

 赤羽の喉から、声にならない音が漏れた。

 

 影は、まだ膨らんでいく。

 

 壁を覆い、天井に触れ、

 部屋の半分を飲み込むほどに。

 

 その中心が、ぐにゃりと歪んだ。

 

 赤羽の足から力が抜けた。

 

「……っ」

 

 その場に、どさりと倒れ込む。

 

 布団叩きが、床に転がる。

 

 赤羽は、床に倒れ込んだまま、震える身体でその影を見上げていた。

 

 部屋の半分を覆うほどの黒い塊。

 形は曖昧で、人の輪郭のようでもあり、煙のようにも見える。

 

 それが、ゆっくりとこちらに傾いてくる。

 

 赤羽の喉がかすれた。

 

「な、何よこれ……」

 

 声はほとんど震えている。

 

「私に……何の用……?」

 

 影は、しばらく動かなかった。

 

 やがて。

 

 空気が軋むような、声とも音ともつかない何かが、赤羽の耳元で囁いた。

 

 ――いや。

 

 耳ではない。

 

 頭の奥で、直接響いた。

 

『窶ヲ窶ヲ縺昴≧莉ー繧峨l縺セ縺励※繧や€ヲ窶ヲ』

 

 低く、湿った響き。

 

 どこか礼儀正しく、しかし人間の声ではない。

 

『縺ゅ↑縺溘&縺セ縺ォ縲√◎縺 シ縺セ繧後◆閠 〒縺 』

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 赤羽の胸の奥で、何かが動いた。

 

 恐怖とは別の感覚。

 

 もっと深いところから、ゆっくりと――

 

 何かが浮かび上がる。

 

「……」

 

 赤羽の震えが、少しだけ止まる。

 

 呼吸が変わる。

 

 目の奥に、ぼんやりとした確信が灯る。

 

「……そうだ」

 

 ぽつりと呟いた。

 

 まるで、長い間忘れていたことを思い出したように。

 

 赤羽はゆっくりと腕を持ち上げる。

 

 影へ向かって。

 

 手を差し伸べる。

 

「お ま え の な ま え は ……」

 

 言いかけた、その瞬間。

 

 ――ばっ。

 

 赤羽は跳ねるように起き上がった。

 

「っ……!」

 

 息が荒い。

 

 全身が汗でびっしょりだった。

 

 心臓が、胸を叩き壊しそうなほど速く打っている。

 

 部屋は――いつもの自分の部屋だった。

 

 机。

 椅子。

 カーテン。

 壁の時計。

 

 暗闇の隅にも、何もない。

 

 巨大な影も、蠢く気配も。

 

「……夢……?」

 

 赤羽は震える手で額を拭う。

 

 汗がぽたぽたと落ちた。

 

 静かだ。

 

 夜の音だけが、遠くで鳴っている。

 

 しばらくして、赤羽はゆっくりと布団に座り直した。

 

 胸の鼓動はまだ早い。

 

 だが、それ以上に――

 

 胸の奥に、妙な感覚が残っていた。

 

 さっき、確かに。

 

 自分は。

 

 何かの名前を思い出しかけていた。

 

 

 

 

 

 

 

 昼下がりの電車は、そこまで混んではいなかった。

 

 窓の外を流れる街並みを背に、三人は並んで座っている。

 

 しばらく揺れに身を任せていた笹木が、ふと赤羽の方を見て言った。

 

「なんやかんや、ばねさんと2人だけで行動すんのも初めてな感じやなぁ」

 

 どこかしみじみした口調。

 

 しかし赤羽は、スマホを見ながらあまり興味なさそうに答える。

 

「いつも家でゲームしてますもんねー」

 

「ぐっ」

 

 即座に刺さる。

 

 その横から、ひまわりが身を乗り出した。

 

「えぇ、そうなの~?」

 

 にこにこしながら追い打ちをかける。

 

「不労所得なんて羨まし~」

 

「そんなことあらへんわ!」

 

 笹木が慌てて身を起こす。

 

「うちやって……その……色々と忙しいんや」

 

「例えば?」

 

「え?」

 

「忙しいこと」

 

「……」

 

 笹木は一瞬黙り、視線を泳がせる。

 

「い、色々や!」

 

 無理やり言い切る。

 

 その直後、はっとしてひまわりを指差した。

 

「てか、なんでお前までいるんや!」

 

 ひまわりは少し肩をすくめ、照れくさそうに笑った。

 

「いやぁ……」

 

 窓の外をちらっと見てから、

 

「二人で行くなら、ついていった方が面白そうかなって思って」

 

 さらっと言う。

 

 笹木は呆れ顔で天井を仰いだ。

 

「遠足ちゃうねんぞ……」

 

 電車はガタン、と揺れながら次の駅へ向かって進んでいった。

 

 電車は都心を離れるにつれて、徐々に車窓の景色が変わっていった。

 

 高いビルが消え、住宅がまばらになり、やがて緑が増えていく。

 

 そして――

 

 ガタン、ゴトン。

 

 急に、揺れ方が変わった。

 

「わっ……」

 

 赤羽が思わず窓枠に手をつく。

 

 さっきまでの滑らかな走りとは違う、線路を直に踏んでいくような感覚。

 

 その様子を見て、笹木が得意げに笑った。

 

「こっから東京じゃなくなるからな」

 

「え?」

 

「凄いやろ」

 

 窓の外を指差す。

 

「こーんな都会の電車が、山ん中走っていくんやで」

 

 赤羽は窓の外を見る。

 

 確かに、さっきまでの景色とは全く違う。

 

 遠くに山。

 線路の脇には木々。

 ところどころに小さな駅と集落。

 

「へぇ……」

 

 少しだけ興味を持った様子で、赤羽はしばらく外の景色を眺めていた。

 

 電車はまた揺れながら、小さな駅に滑り込む。

 

 ホームは短く、人もまばら。

 

 赤羽は何気なく、窓の外に目を向けた。

 

 ――その瞬間。

 

 視界の端に、金色が映る。

 

「……?」

 

 ホームの端に、見知った顔が立っていた。

 

 金色の髪。

 小柄な体格。

 どこか人形のように整った顔立ち。

 

 え……りりむ…?

 

 何してんの…?

 

 最初は、ただの見間違いかと思った。

 

 だが。

 

 着ているのは、見覚えのある井ノ原総合学園の制服。

 

「……あっ!!」

 

 赤羽は反射的に立ち上がった。

 

 ドアの方へ駆けようとする。

 

 だが。

 

 ――プシュー。

 

 扉が閉まり、電車が動き出す。

 

「え、ちょっ……!」

 

 ホームが、ゆっくりと遠ざかる。

 

 窓越しに、もう一度その少女を見る。

 

 金髪の小さな少女は、じっと電車を見上げていた。

 

 その表情は、どこか不思議で――

 

 まるで、最初から赤羽を見ていたかのようだった。

 

 次の瞬間、駅は木々の向こうに流れていった。

 

「……」

 

 赤羽はそのまま立ち尽くす。

 

 隣から、ひまわりが顔を覗き込む。

 

「どうかしたの~?」

 

「えっ」

 

 赤羽は慌てて視線を逸らした。

 

「あっ……いや、なんでもないです」

 

 少し早口で言い繕う。

 

 ひまわりは「ふーん?」と首を傾げるが、それ以上は聞かなかった。

 

 電車は山の中を、ガタンゴトンと揺れながら進んでいく。

 

 赤羽はもう一度、窓の外を見た。

 

 けれど――

 

 彼女の姿は、もうどこにも見えなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。