電車の揺れは、いつの間にか子守歌のようになっていた。
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
赤羽は窓に寄りかかったまま、いつの間にかうとうとと眠ってしまっていた。
――やがて。
聞き慣れない駅名のアナウンスが、ぼんやりと耳に入る。
しかし、眠気の底に沈んでいた赤羽はそれを聞き流していた。
ブレーキの音。
電車が止まる。
その振動で、赤羽はふと目を覚ました。
「……ん」
目を擦る。
窓の外を見ると――
そこには、森が広がっていた。
ホームは小さく、周囲を木々に囲まれている。
街も住宅も見えない。
「へぇ……」
赤羽は特に深く考えず、のんびりと呟く。
「こんな駅もあるんですね〜」
そして、隣の席を見た。
――誰もいない。
「……あれ?」
ひまわりの姿も。
笹木の姿も。
どこにもない。
赤羽は首を傾げて、周囲を見回した。
車両の中。
静まり返っている。
乗客の姿は――
一人もいない。
「……え?」
赤羽はゆっくり立ち上がる。
通路を見る。
前の車両も、後ろの車両も――
誰もいない。
電車は止まっているのに、物音ひとつしない。
「……」
胸の奥がざわつく。
「……もしかして」
赤羽はぽつりと呟いた。
「置いて行かれた?」
急に不安になり、慌ててスマホを取り出す。
画面を開く。
電波マーク。
――圏外。
「えっ……」
何度か画面を見直す。
機内モードでもない。
再接続もできない。
どこにも繋がらない。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ……」
赤羽の声がわずかに震える。
外を見る。
森。
ホーム。
小さな駅名標。
それだけ。
人の気配が、まるでない。
「……」
赤羽は慌ててドアの方へ走った。
幸い、扉は開いている。
そのままホームへ飛び出す。
外の空気は、ひんやりしていた。
静かすぎる。
虫の声すら、ほとんど聞こえない。
赤羽は電車を振り返る。
長い車両が、森の中にぽつんと止まっている。
赤羽は人気のないホームを抜け、駅舎の中へ入った。
小さな駅だ。
古びた自動改札が一つだけ、ぽつんと置かれている。
「……」
赤羽は少し安心したように息をついた。
「まぁ、ここ通れば出られますよね」
ICカードを取り出し、改札にかざす。
――ピッ。
機械音。
しかし、すぐに警告音が鳴った。
ピピッ。
「……あれ?」
表示を見る。
残高不足。
「え?」
赤羽はもう一度かざす。
結果は同じ。
「ち…ちょっと!」
思わず改札に詰め寄る。
半ば泣きそうになりながら、横の精算機へ向かう。
「えーっと……」
カードを差し込む。
画面に料金が表示される。
そして。
「……は?」
赤羽は固まった。
そこに表示されていたのは――
見たこともない金額。
ゼロが、やたら多い。
「いやいやいやいや……」
画面を指差しながら後ずさる。
「おかしいでしょこれ……」
「さ…流石に普通の電車乗っててこれはないでしょ!」
赤羽は一旦その場から離れた。
落ち着こうと深呼吸する。
駅舎の中を見回す。
窓口。
閉まっている。
売店。
ない。
声を出す。
しかし。
返事はない。
赤羽は改札内を歩き回る。
足音だけが響く。
自動販売機も止まっている。
壁の時計は、針が止まっていた。
ふと、電光掲示板を見る。
そこには――
何も表示されていない。
次の電車も、路線名も、時間も。
ただ黒い画面が、沈黙している。
「……」
赤羽の喉が乾く。
駅全体が、まるで放棄された建物のようだった。
そのとき。
――かすかに。
「……こっち……」
声。
赤羽ははっと顔を上げた。
「……え?」
もう一度。
遠くから。
「……こっち……」
誰かが呼んでいる。
赤羽は音の方向を見る。
駅舎の奥。
トイレの方。
「……誰かいるんですか?」
恐る恐る歩いていく。
足音が妙に大きく響く。
トイレの前まで来る。
誰もいない。
だが――
さらに奥。
掃除用具入れのようなスペースの向こうに、
鉄格子の扉があった。
普通の利用者が入る場所ではない。
しかし。
鍵は――
かかっていない。
赤羽はゆっくり扉を押す。
ギィ……
鈍い音を立てて開いた。
その先には、細い通路。
そして――駅の外へ続く出口。外へ出た瞬間、赤羽は思わず足を止めた。
「……え?」
目の前に広がっていたのは、森だった。
ただの森ではない。
木々の合間に、崩れかけた建物の影がいくつも見える。
朽ちた看板。
倒れた標識。
苔に覆われた舗装道路。
まるで――
人が住んでいた場所が、そのまま森に飲み込まれたような光景。
「……集落?」
赤羽は恐る恐る歩き出した。
近くの建物は、かつて店だったらしい。
ガラスは割れ、入口の扉は半分外れている。
赤羽は中を覗き込んだ。
「……誰かいませんかー?」
返事はない。
店の中には、古びた棚と商品がそのまま残っていた。
缶詰。
箱に入った菓子。
色あせたポスター。
だが、すべてが埃を被っている。
赤羽は棚の一つから、商品を手に取った。
ラベルを見る。
「……え?」
そこに印刷されていた日付。
大正18年2月29日
赤羽はしばらく固まった。
「……」
そして小さく呟く。
「絶対これもう食べられないでしょ……」
商品をそっと棚に戻す。
店の奥はさらに荒れていた。
床は軋み、壁は崩れかけている。
ここだけ時間が止まっているような――
いや、現実から切り離されたような感覚があった。
「……」
赤羽は外に出て、周囲を見回した。
スマホを取り出す。
やはり――
圏外。
「うーん……」
頭を掻く。
「とりあえず、電波届くところ行かないと……」
山の上とか、開けた場所とか。
そう考えて歩き出した、その時。
――かすかに。
「……こっち……」
また声。
赤羽は反射的に振り返る。
「……え?」
声の方向。
集落の奥。
木々の間。
その瞬間――
人影が横切った。
黒髪の少女。
小柄な体。
制服。
その顔が一瞬だけ見える。
赤羽の心臓が跳ねた。
「……っ」
自分と、瓜二つ。
少女は赤羽を見た瞬間、くるりと向きを変え――
森の奥へ駆けていった。
「ちょ、ちょっと!」
赤羽は思わず叫ぶ。
しかし少女は止まらない。
木々の間をすり抜け、奥へ奥へと消えていく。
「……」
赤羽は数秒迷った。
だが、ここにいても何もわからない。
「……待って!」
そう言って、赤羽は少女の後を追って走り出した。
赤羽は森の中を必死に駆けた。
「ま、待って!」
枝が顔を掠め、枯葉が足元で音を立てる。
しかし、さっきの黒髪の少女の姿はどこにも見えない。
やがて森が途切れた。
赤羽は思わず足を止める。
目の前にあったのは――
長い階段。
石の階段が、頭上まで続いている。
その頂上には、古びた鳥居が立っていた。
「……うそでしょ」
赤羽は呆然と見上げる。
段数は数えきれないほどある。
しかもところどころ崩れている。
「……」
一瞬、躊躇う。
だが、ここまで来て引き返す選択肢はない。
「はぁ……」
赤羽は息を吸い込み、足を踏み出した。
階段を登る。
一段。
二段。
三段。
途中から、ほとんど駆け上がるような勢いになった。
「はっ……はっ……」
息が荒くなる。
太腿が焼けるように痛い。
それでも赤羽は登り続けた。
そして――
ようやく鳥居をくぐる。
高台に出た。
「……っ」
赤羽の呼吸が止まる。
そこには、奇妙な光景が広がっていた。
広場のような場所。
そのあちこちで――
黒い塊が蠢いている。
人の形のようで、違う。
影のようで、液体のようでもある。
地面を這い、揺れ、絡まり合っている。
まるで生き物だ。
「……なに……これ」
赤羽が一歩踏み出す。
その瞬間。
黒い塊たちが一斉に動いた。
そして――
赤羽を見る。
目はない。
顔もない。
それなのに、確かに視線を感じる。
ざわ……ざわ……
塊たちの中から声が漏れた。
「帰ってきた……」
「帰ってきたぞ……!」
「……あのお方が帰ってきた……!」
声は、怯えているようでもあり。
期待しているようでもある。
黒い塊たちは慌てたように動き出した。
ばたばたと、広場の周囲にある木造の小屋へ逃げ込んでいく。
扉の隙間。
床下。
屋根裏。
次々と姿を隠していく。
ほんの数秒で。
高台は静まり返った。
「……」
赤羽はその場に立ち尽くす。
理解が追いつかない。
「……なんなの……これ」
そのとき。
空気が、すっと歪んだ。
赤羽の目の前に――
黒い影が現れる。
昨夜、部屋で見たものと同じ。
「……!」
赤羽が息を呑む。
影は何も言わない。
ただ、赤羽の横を通り過ぎるようにして――
奥へ飛んだ。
地面すれすれを滑るように移動する。
広場の奥。
そして。
ふっと消えた。
「……?」
赤羽はその方向を見る。
そこに――人が横になれるほどの、大きな石の箱。
苔に覆われ、古い。
蓋は半分開いている。
赤羽は、ゆっくりと近づいた。
赤羽は、ゆっくりと石櫃に近づいた。
苔に覆われた石。
古く、重そうな蓋。
それに手をかける。
「……」
ほんの少し、躊躇う。
だが、ここまで来てしまった以上、戻る理由はない。
ぎ……
石が擦れる鈍い音。
赤羽は力を込めて、蓋を押し開けた。
中にあったのは――
紅い布。
血のように深い、鮮やかな紅色。
装束。
袖は長く、布地には見慣れない紋様が織り込まれている。
だが、不思議と埃ひとつ付いていない。
「……」
赤羽は、そっとそれを手に取った。
その瞬間。
胸の奥で、何かが弾けた。
断片的な光景が、頭の奥に流れ込む。
そして――
「……あ」
赤羽の身体が固まる。
思い出したわけではない。
だが、知っている。
この装束を。
この場所を。
この空気を。
「……」
胸の奥から、何かが込み上げてくる。
言葉にならない感情が混ざり合い、溢れる。
ぽたり。
赤羽の頬を涙が伝った。
「……」
何も言えない。
ただ、涙だけが止まらない。
そのとき。
――ゴゴゴ……!
地面が揺れた。
「えっ!?」
赤羽は顔を上げる。
高台の地面に亀裂が走っていた。
石が崩れ、木造の小屋が傾く。
「ちょ、ちょっと……!」
足元の土が崩れ始める。
このままでは――
高台ごと落ちる。
赤羽が慌てて振り返った、その瞬間。
背後から声がした。
自分の声。
「行って!」
「……!」
赤羽は振り返る。
しかし、そこには誰もいない。
だが、確かに聞こえた。
自分の声だった。
「……」
一瞬の迷い。
そして赤羽は、装束を抱えたまま走った。
崩れかけた高台の端へ。
そして――
飛び降りた。
足元の地面が完全に崩れる。
赤羽の身体は空中へ投げ出された。
「っ……!」
風が耳を切る。
森が遠ざかる。
重力に引かれ、身体が落ちていく。
落ちる。
落ちる。
落ち続ける――
そのとき。
赤羽の目が、静かに変わった。
片方は碧。
もう片方には深い紅。
落下が、止まる。
赤羽の身体は空中に浮かんでいた。
風が、ふわりと周囲を回る。
「……」
赤羽はゆっくりと目を開く。
そして。
そのまま、空を滑るように――飛んでいった。
赤羽は、空を裂くような速度で飛んでいた。
夜の空気が顔を叩く。
森が下で流れるように遠ざかっていく。
自分でも信じられないほどの速さだった。
「……!」
だが、次の瞬間。
背後の空気が、重く歪む。
振り返る。
そこには――
魔獣。
黒い瘴気をまとった巨大な影。
その背には、宝石のように蒼く煌めく翼が広がっている。
翼が羽ばたくたびに、空気が裂け、黒い霧が渦を巻いた。
そして。
その魔獣が、赤羽を見据えて叫ぶ。
「ついに見つけたぞ!!」
声は人のものではない。
岩を砕くような、恐ろしい響き。
赤羽の背筋に寒気が走る。
「……っ!」
赤羽は急降下した。
森の中へ飛び込む。
木々の間を縫うように、低空飛行で走り抜ける。
枝が顔のすぐ横を掠める。
地面すれすれ。
さっき来た道を、全速力で戻る。
しかし――
背後から、凄まじい轟音。
バキバキバキバキ!!
巨木がなぎ倒される。
魔獣が森を破壊しながら突進してくる。
「待っていたぞ!この時を!!」
蒼い翼が大きく広がる。
瘴気が空に噴き出す。
「お前の記憶が戻るその時を!!」
赤羽の心臓が跳ねる。
魔獣の声は、歓喜に震えていた。
「異界の扉が開かれたのだ!!」
次の瞬間。
魔獣が急降下する。
廃墟となった建物が、衝撃で崩れる。
古びた屋根が吹き飛び、石壁が粉々になる。
森の木々が次々となぎ倒される。
その破壊の中心から、蒼い翼が迫る。
赤羽は森の中を縫うように飛び続けていた。
背後では、木々が次々となぎ倒されていく。
蒼い翼を持つ魔獣が、黒い瘴気を撒き散らしながら迫っていた。
轟くような声。
赤羽は歯を食いしばり、さらに高度を落として森の隙間を抜ける。
正面の視界は、暗い森と廃墟ばかり。
逃げ道は限られている。
そのとき、不意に。
赤羽の頭に、ある光景がよぎった。
鈴原るる。
あの圧倒的な力。
あの、常識を踏み越えるような存在感。
そっくりだ。
この得体のしれない存在に。
その魔獣は、どこか楽しげに言った。
「左様……」
巨大な影が、赤羽を見下ろす。
「我は――蒼翼」
赤羽は、はっと目を覚ました。
「……っ」
息が少し荒い。
すぐに周囲を見回す。
そこに広がっていたのは――
静かな森。
しかしそれは外ではなく、電車の窓の向こうだった。
ガタン、ゴトン。
規則的な揺れ。
車内の空気は穏やかで、どこかのどかな雰囲気が漂っている。
「……あれ?」
赤羽は首をかしげた。
隣を見る。
ひまわりが座席にもたれたまま、すやすやと眠っている。
反対側では、笹木が腕を組んで外を眺めていた。
「やっぱり、何もあらへんな……」
どこかつまらなさそうな声。
赤羽がきょとんとしていると、笹木がちらっとこちらを見る。
「なんや」
少し笑う。
「変な夢でも見たんかいな」
「夢……?」
赤羽はぼんやりと呟く。
頭の中に、断片的な光景が浮かぶ。
森。
廃墟。
黒い影。
蒼い翼。
けれど、それらは霧のように曖昧だ。
「……」
赤羽は首をひねる。
本当に夢だったのだろうか。
そのとき。
ふと、膝の上にある袋に気づいた。
「……?」
見覚えのない布袋。
赤羽はゆっくりと口を開ける。
中から覗いたのは――
血のように紅い装束。
「……」
赤羽の背筋に、冷たい汗が流れた。
指先が少し震える。
さっき見た光景が、ぼんやりと蘇る。
「いや……」
喉が乾いている。
そして、ぽつりと続けた。
「きっと、夢じゃない……」
額から、冷や汗が一筋流れ落ちた。
電車はゆっくりと森の中を進んでいた。
窓の外には、濃い緑の山々。
さっきまで見ていたはずの異様な光景など、どこにもない。
笹木は背もたれに体を預けながら、ふと赤羽の方を見る。
「なぁ、ばねさん」
「はい?」
「この近く、すっごいデカい遊園地あるんや!」
急に少し楽しそうな声になる。
「どうせなら遊んで行かんか?」
その声で、隣のひまわりがもぞっと動いた。
「ん……?」
目を擦りながら起き上がる。
「……あそこ?」
ぼんやりした声で言う。
「あそこ……ジェットコースター有名なところだよ?」
まだ半分寝ている顔のまま、
「寿命縮みそう……」
と呟いた。
笹木は笑う。
「ええやん別に!若いうちに寿命縮めとこ!」
「その理屈やばいよ……」
ひまわりは肩を落とす。
その会話を聞きながら、赤羽は一瞬遅れて返事をした。
「あっ……はい!」
少し慌てたような声。
笹木は満足そうに頷く。
「よっしゃ決まりやな!」
しかし。
赤羽の視線は、膝の上の袋へと落ちていた。
その中には――
あの紅い装束。
(……)
頭の奥で、さっきの光景がよみがえる。
崩れた集落。
黒い影。
そして――
蒼翼。
赤羽の表情は穏やかなままだった。
けれど、内心では。
(鈴原さんを……)
思考は妙に冷静だった。
(あの魔獣……蒼翼に仕える魔法使い達を止めないと……)
窓の外を流れる森を見つめる。
(……大変なことになる)
電車はガタン、と揺れながら山を抜けていく。
山の麓にある小さな駅前。
観光客向けのカフェのテラス席で、金髪の少女が一人、パフェを食べていた。
グラスは背の高い巨大なもの。
アイス、フルーツ、クリーム、クッキーがこれでもかと積み上がっている。
少女はそれを、スプーンで器用に崩しながら食べていた。
「……」
片手ではスマホを操作している。
視線は画面。
パフェはほぼ作業のような動きで口に運ばれている。
そのとき。
スマホが震えた。
着信。
「ん?」
少女はスプーンを口に運びながら、適当に通話ボタンを押す。
「もしもし~?」
気の抜けた声。
口の中にはまだアイスが残っている。
「今ちょっと忙しいんだけど~……」
適当に流す気満々の調子。
すると。
電話の向こうから、落ち着いた声がした。
『起きたよ』
短い一言。
そして。
『でび様』
それだけ言って――
通話は切れた。
「……」
少女はスマホを見つめたまま、数秒固まる。
だがすぐに興味を失ったように、またパフェにスプーンを差し込んだ。
アイスを一口。
もぐもぐと食べながら、ぼそっと呟く。
「……お酒とか持ってった方が良いのかな」
テーブルの上には、まだ半分以上残っている巨大なパフェ。
少女は気にも留めず、またスマホをいじりながら食べ続けた。