翌日。
赤羽葉子は、自室の布団の中で身体を丸めていた。
カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。
外では車の音や、遠くの人の話し声がかすかに聞こえる。
いつもの朝。
けれど、赤羽の胸の中は落ち着かなかった。
布団の中で、赤羽は目を閉じた。
もちろん、昨日見たものが本物の記憶かどうかなど、分からない。すべてが海馬の異常で、精神を犯されていると断定した方がはるかに科学的だ。
しかし、もし……
もし、あれが夢じゃなかったなら。
やっぱり……
自分は。
「本物の赤羽葉子ではない。」
胸の奥で、静かに結論が浮かぶ。
あの黒髪の少女。
あれこそが、本来ここにいるべき“赤羽葉子”だったのではないか。
赤羽葉子に契約を迫った異形の存在。それは他でもない、自分自身だ。
あの日、あの時。
“星降る夜、仔の落とす落胤は輝石となる”
落胤とは人の子供。そう信じた自分は、空間を超え、あの橋の下で出会った。
黒髪の少女――オリジナルの赤羽葉子。
しかし彼女は既にこの世にいなかった。殺められ、死体を犯され、打ち捨てられていた。
どうあっても、たとえそれが如何に位階の高い存在であったとしても。死者を蘇らせることなど、できるはずもない。
それでも、自分の力を彼女のために自分は惜しげなく振るった。
その結果が「これ」なのだ。
私は……
赤羽は、静かに息を吸う。
そして、耳を澄ませた。
すると――
じわじわと。
音が聞こえてくる。
普通の人間には聞こえない音。
遠くで誰かが泣くような声。
低く唸るような呻き。
怨霊の叫び。
暗闇の中で何かが蠢く、湿った気配。
それらは、この街のあちこちに存在している。
赤羽には、それが分かる。
そして。
そのすべてが、どこかで――
自分と繋がっているような感覚。
「……」
赤羽は目を開けた。
天井をぼんやり見つめる。
どうすればいいのか。
何をすればいいのか。
分からない。
ただ、胸の奥に重たいものが沈んでいる。
そのとき。
ふと、ある言葉を思い出した。
笹木の声。
あのとき、夜見が話していた言葉。
――“もし、自分ってものを信じるのをやめてしまったら、その瞬間、自分は自分じゃなくなる”
「……」
赤羽はゆっくり瞬きをする。
思えば。
あの事務所で出会った、今、自分の周りにいる人たち。
笹木咲さん。
森中花咲さん。
椎名唯華さん。
夕陽リリさん。
叶くん。
家長むぎさん。
御伽原江良さん。
夜見れなさん。
あの人たちと出会ったのは、全部――
あの事件の後だ。
今の自分を知っている人たちにとって「赤羽葉子」とは。
紛れもなく――自分のことだ。
赤羽はゆっくり布団から出て、部屋のドアを開けた。
廊下には朝の光が差し込んでいる。
いつも通りの家の匂い。
台所からは、朝食の準備をしていた名残のような音がかすかに聞こえる。
その瞬間。
「葉子!!」
強い声。
振り向く間もなく、赤羽は誰かに抱きしめられた。
「え、あ……」
赤羽葉子の母親だった。
必死な様子で赤羽を抱き寄せ、何度も頭を撫でる。
「どうしたの!?」
声が震えている。
「最近のあなた、なんだか変よ!?」
赤羽は戸惑って目を瞬かせる。
「お母さん……?」
母親はぎゅっと抱きしめたまま続ける。
「もう学校もアルバイトも行かなくて良いから!」
必死な声。
「ね!? 無理しなくていいのよ!」
その腕は、まるで離したらどこかへ行ってしまうのを恐れているようだった。
「……」
赤羽はしばらく何も言えなかった。
けれど、胸の奥で何かが静かにほどけていく。
この人は、自分を葉子と呼ぶ。
迷いもなく。
疑いもなく。
そして、こんなふうに抱きしめてくれる。
(……)
赤羽は、ゆっくりと母親の背中に手を回した。
昨日見たもの。
それらが本物だったとしても。
今、ここで呼ばれている名前は――
自分だけのものだ。
……もう金輪際、このことについて考えるのはやめよう。赤羽は静かにそう決めた。
母親の手が、また優しく頭を撫でる。
その温かさの中で、赤羽は少しだけ目を閉じた。
リビングのテーブルの上に、赤い布が広げられていた。
血のように深い紅。
重厚な生地に、古い紋様が織り込まれている。
赤羽はそれを指でつまみながら、少し困った顔で母親に見せた。
「これ……」
言葉を選ぶように一瞬止まる。
「もらったんだけど……どうしよう」
できるだけ何でもない風を装って言う。
母親は装束を一目見て、少し目を丸くした。
「まぁ、立派なお着物ね」
しかしすぐに、あっさりと言った。
「着てみれば良いじゃない」
「え?」
赤羽が顔を上げる。
「そんな立派なお着物貰ったなら、着なきゃもったいないわ」
母親は本当に何でもないことのように言う。
「……」
赤羽は少しだけ黙る。
そして小さく呟いた。
「そりゃ、そうか……」
装束をそっと畳み直し、抱える。
「じゃ、ちょっと部屋で……」
そう言って立ち上がり、リビングを出ていこうとする。
その背中に、母親が声をかけた。
「葉子」
「ん?」
「それ、お着物だけど自分で着られる?」
心配そうに首を傾ける。
「お母さん、手伝ってあげようか?」
赤羽は一瞬足を止めた。
何百年も前の記憶。誰かが自分のために遺したものの記憶。
まるで、ずっと昔から知っているような。
赤羽は振り返らずに答えた。
「大丈夫」
その声には、さっきまでになかった確信があった。
「自分で着られるから」