第四章 第壱話:赫い死神
薄く差し込む昼の光が、カーテンの隙間から部屋の中へと滑り込んでいた。
机に突っ伏していた身体が、ぴくりとわずかに動く。
「……ん……」
鈍く重たい意識がゆっくりと浮上し、彼女は顔を上げた。頬に残る机の跡を気にする様子もなく、ぼんやりとした目で前を見つめる。乾いた喉に小さく息を通しながら、状況を把握しようとするように周囲を見渡した。
部屋は静かで――いや、正確には静かではなかった。
小さく、電子音が流れている。
「……あ」
視線の先。開きっぱなしのパソコン画面。配信ソフトのウィンドウがそのまま表示されており、コメント欄がゆっくりと流れていた。
そこでようやく、彼女は思い出す。
「……配信、つけっぱなしで寝てたの……?」
呟きはどこか他人事のようだった。
椅子に座り直し、少しだけ背筋を伸ばして画面を覗き込む。そこに流れていたコメントは――
『いつもと違ったけど面白かった!』
『喋り方、凄くカッコいい!』
『今日の美兎、なんか雰囲気違うね』
「……は?」
一瞬、目が止まる。
スクロールしていくコメントの中に、同じような言葉が何度も混ざっている。
“いつもと違う”
“カッコいい”
“雰囲気が違う”
その意味を理解した瞬間――
「……あー……」
小さく息を吐いた。
何かに気づいたように、額に手を当てる。次の瞬間、指先でがしがしと頭を掻いた。
「……やっっば……」
低く、抑えた声。
そのまま椅子の背にもたれかかり、大きくため息をひとつ。
そして――
「んんっ……」
ぐっと腕を伸ばして、背筋を反らすように伸びをする。関節が軽く鳴り、眠気の残滓がようやく身体から抜けていく。
「……ま、いいか」
どこか開き直ったように呟くと、マウスに手を伸ばし、迷いなく配信を終了させた。
画面が静かに切り替わる。
ふと、視線が机の上に落ちる。
そこには、一冊のノート。
ページは開きっぱなしで、中央に乱暴な字でこう書かれていた。
――「出演料」
「……」
数秒、それを無言で見つめた。
そして――
「偉そうになったもんですね…」
ふっ、と。
小さく、しかしどこか悪戯っぽい笑みを浮かべる。
ペンを手に取り、その文字のすぐ近くに、勢いよく書き連ねた。
――「誰が渡すか!」
インクが少し滲むほどの筆圧。
満足げにそれを眺めると、ペンを放り出すように机に置いた。
「よし」
短く一言。
椅子を引き、立ち上がる。
私服のまま、特に身だしなみを整えることもなく、そのまま部屋の扉へと向かう。
「……外、出るか」
軽い足取りでドアノブを回し、部屋を後にした。
さっきまでの眠気も、妙な違和感も、全部ひっくるめて――どこか、面白がるように。
夕暮れは、すでに街の輪郭を曖昧にし始めていた。
ビルの隙間に沈みきらない赤が、空と地上の境界を濁らせるように広がり、
ガラスに反射した光は、どこか血のように粘ついて見える。
人々はそれをただの夕焼けとして受け取り、気にも留めず、日常の延長を歩いている。
その流れの中に――
ただひとり、明らかに異質な“何か”が混じっていた。
赤羽葉子は、歩いていた。
ゆっくりと。
周囲の人間の歩調とも、信号のリズムとも合わない、
どこか“別の時間”に属しているような歩き方で。
彼女の視界は、もはや人間のものではなかった。
緑と赤のオッドアイが、街の表層を剥がすように見通している。
すれ違うサラリーマンの胸の奥。
肋骨の内側で、規則正しく動く心臓。
血液が押し出されるたびに、わずかに変わる圧。
その流れが、音として――確かに“聞こえる”。
どくん。
どくん。
どくん。
それは街の喧騒とは別の、
もっと生々しく、逃れようのないリズムだった。
誰かが嘘をつけば、血の巡りがわずかに乱れる。
苛立てば、脈は早まり、温度が上がる。
恐怖を抱けば、収縮するように震える。
すべてが、隠しようもなく――“音”として流れ込んでくる。
「……あは」
赤羽は、わずかに笑った。
それはいつもの軽い笑いではない。
意味もなく漏れたような、乾いた音だった。
彼女の身体に纏われているのは、
血をそのまま染み込ませたかのような赤い装束。
布のはずなのに、どこか液体めいて見える。
夕焼けの赤と混ざり合い、境界が曖昧になっていた。
通り過ぎる人々は、無意識に彼女を避ける。
理由は分からない。
ただ、視界の端に入った瞬間、
“近づいてはいけないもの”だと本能が告げる。
視線を向ける者は少ない。
だが、見てしまった者は――
ほんの一瞬だけ、理解できない違和感に息を詰める。
(……なんだ、今の)
振り返ろうとするが、もうそこにはいない。
いや、確かに歩いている。
同じ空間にいるはずなのに、
存在が“ずれている”。
赤羽の髪は、いつものように無造作に下ろされてはいなかった。
短く、結い上げられたその形は、
どこか処刑人のようで、
あるいは儀式のための装束の一部のようにも見える。
風が吹く。
だが、その髪はほとんど揺れない。
まるで重さを持っているかのように、
あるいは――重力とは別の何かに従っているかのように。
足音は、ほとんどしない。
代わりに聞こえるのは――
他人の“内側”の音。
血が巡る音。
心臓が軋む音。
微かな骨のきしみ。
神経が伝える電気のざらつき。
街全体が、巨大な“生き物”のように感じられる。
その中心を、赤羽は歩いている。
ただ、歩いているだけなのに――
その姿は、
まるで“狩る側”だった。
信号が変わる。
人の流れが一斉に動き出す中、
赤羽だけが、ほんの一拍遅れて歩き出す。
その遅れが、決定的な違和感を生む。
時間に属していない存在。
生きているはずなのに、
どこか“終わっている”もの。
――夕暮れは、完全に夜へ沈みきってはいない。
だが、その中に紛れる彼女の赤は、
空よりも濃く、
街のどの色よりも、深く、鮮やかだった。
誰も気づかない。
けれど確かに――
この街のどこかに、“死”に近いものが歩いている。
静かに。
確実に。
事務所の扉が、がちゃりと音を立てて開いた。
外の夕暮れの光が、細く室内に差し込む。
その入り口に――立っていた。
赤い。
まず、それだけが目に入る。
血のように濃い装束。
空気に馴染まず、まるでそこだけ“別の層”から切り取られて貼り付けられたような違和感。
「……」
笹木咲は、一歩踏み出しかけた足を止めた。
視線が固まる。
目の前の存在を、理解するまでに――一拍、遅れる。
「……うっわ……」
思わず、声が漏れた。
そのまま、目を見開いたまま固まる。
呼吸すら一瞬忘れたように。
けれど、数秒後。
その顔、その輪郭、その“見覚え”が、ようやく繋がる。
「……お、おぉ……なんだ、ばねさんかいな……」
ぎこちなく、安堵とも困惑ともつかない声。
だが視線はまだ外せない。
「ど、どうしたん……?」
赤羽は、少しだけ首を傾げる。
そして――
「ああ……いや」
いつもの調子。
けれど、その声だけが妙に浮いている。
「ちょっとこれ、着てみようと思いまして」
そう言って、くるり、とその場で一回転した。
赤い装束が、遅れてふわりと揺れる。
その動きすら、どこか人間らしくない。
「……」
笹木の額に、じわりと汗が滲む。
視線を泳がせながら、必死に“現実的なポイント”を探す。
そして――見つけた。
「それ……」
指を差す。
「襟、逆やで……」
一瞬だけ、得意げな顔になる。
「あんな、その着方はな……」
知識でこの違和感を押し返そうとするように、言葉を続けかける。
だが。
赤羽は、表情を変えないまま。
すっと、一歩近づいた。
「ううん?」
顔を覗き込む。
距離が、近い。
近すぎる。
「これで良いんですよ?」
声は柔らかい。
けれど、その目。
緑と赤のオッドアイが、まっすぐに笹木を捉える。
――覗き込まれているのに。
まるで、“中を見られている”感覚。
どくん、と。
笹木の心臓が、大きく跳ねた。
背筋に、冷たいものが走る。
「……っ」
言葉が、一瞬詰まる。
目を逸らしたくなるのに、逸らせない。
“これが赤羽だ”と分かっているのに、
“それだけじゃない何か”が混ざっていると、本能が理解してしまう。
ぞわり、と。
遅れて恐怖が追いつく。
「……」
数秒。
固まったまま、見つめ合う形になる。
やがて。
「……っ、あーもう!!」
笹木が、勢いよく手を伸ばした。
赤羽の腕を掴む。
「アホ!冗談キツいわ!!」
半ば無理やり、ぐいっと引き寄せる。
「はよ着替えて来んかい!!」
そのまま背中を押して、事務所の中へ。
赤羽の身体は、抵抗もなくするりと動く。
押されるまま、奥へと進んでいく。
「ほら!さっさと行けや!!」
背中をぐいぐい押しながら、半ば追い込むように。
ようやく、距離ができる。
赤い装束が視界から外れた瞬間――
「……はぁ……」
笹木は、その場で深く息を吐いた。
心臓の音が、まだうるさい。
事務所の奥。
いつもの雑然とした空間に、どこか生活感のある緩い空気が漂っていた。
ソファの上には、パジャマ姿の家長むぎ。
その隣で――
赤羽葉子が、ちんまりと座っている。
ピンクのパーカーを借りて、サイズの少し大きい袖に手を埋めながら、
髪はツインテールに結ばれていた。
さっきまでの“赤”は、どこにもない。
その代わりに――
ばりばり。
遠慮のない音を立てて、お菓子を貪っている。
「……別にそこまで怒らなくても良いじゃないですか…」
口を動かしながら、むすっとした声。
頬は少し膨れていて、完全に拗ねている。
その少し離れた机では、笹木がパソコンに向かっていた。
カタカタとキーを叩きながら、顔はどこか引きつっている。
「心臓止まるかと思ったわ……」
視線は画面に向けたまま。
「お前、最近あのサイコ女に似てきたんちゃうか……」
ぼそり、と本音が漏れる。
赤羽は、ぴたりと手を止めた。
ゆっくりと、半目で横を見る。
「それ、夜見さんのことですか…?」
温度の低い声。
空気が、ほんの少しだけ冷える。
「……」
笹木は無言で、机の端に置いてあったポテチをつまむ。
ぱり、と一枚。
「名前出すなや……」
ぼそっと、不機嫌そうに。
それ以上触れたくない、という意思がはっきりと滲んでいた。
赤羽は、その様子を見ながら、
「悪い人に見えませんけどね〜…」
と、軽く言う。
また一口、お菓子を放り込む。
むぎは、その横で静かに本を読んでいた。
ページをめくる音だけが、一定のリズムで続いている。
そして、視線を本に落としたまま――
「面倒なら、適当に流しとけば大丈夫ですよ」
穏やかな声。
まるで世間話の延長のように、さらっと言う。
「いや……でもまあ、それはちょっとな……」
笹木は、苦い顔で返す。
キーボードを叩く手が、少しだけ止まる。
少し考えてから、ちらりとむぎを見る。
「会ったことあるんか?」
問いかけ。
むぎはページをめくりながら、
「いや……その人は知りませんけど」
と、あっさり答える。
そして、ほんの一瞬だけ視線を上げて――
「まあ……サイコ女なら身近にいるので…」
静かに言った。