数日ぶりに事務所に現れた赤羽葉子は、どこかやつれた表情をしていた。
目の下にはうっすらとクマ。髪も少しボサついていて、覇気がない。
事務所のソファに座ると、重い声でぽつぽつと、ここ数日の出来事を椎名に話し始めた。
仏壇。写真。記憶。――橋の下でのこと。
すべてを聞き終えた椎名唯華は、腕を組んで、椅子にふんぞり返ったまま、
ただ一言だけ口にする。
「……ふーん」
興味があるのか、ないのか。
まるで今日の天気を聞いたかのような、軽い相槌。
「まっ……今、生きてるならええやんか」
吐息と一緒に、ため息まじりで言葉を落とす。
そのあっけらかんとした返しに、赤羽は言葉も出ず、
ただ無言で項垂れるだけだった。
「てかお前、それならなんで生きてるん?」
椎名の声に、赤羽の肩がぴくっとわずかに動く。
「飯食って、糞しとって、
“幽霊です〜”なんて言われても、うちは信じへんで?」
まるで茶化すような口調。
けれど、目だけは冗談を言っていなかった。
「それは……」
赤羽はかすかに口を開いたが、言葉が続かなかった。
何をどう説明すればいいのか、自分でもわからない。
自分が“生きている理由”が、わからない。
沈黙の空気が少しだけ流れてから――
椎名は、椅子の背にゆっくりともたれながら言った。
「もしかして、その時かいな。
霊能力がついたんって」
赤羽は小さく目を伏せたまま、
ほとんど聞き取れないほどの声で、ぽつりと呟く。
「……多分……」
それ以上は、何も言わなかった。
椎名もまた、それ以上は何も聞かなかった。
ただ、静かに赤羽の沈黙を受け入れたまま、窓の外を見やった。
事務所には、小さな風の音だけが流れていた。
暗い。
冷たい。
湿った空気が頬をかすめていた。
赤羽は、誰かの足音が近づく気配を感じながら――
必死に目を閉じていた。
足元の地面は硬く、冷たい。
橋の下の湿気が、肌にまとわりつく。
次の瞬間――
首元に、焼けつくような激痛が走った。
「――っ……!」
声が出なかった。
痛みが強すぎて、呼吸の仕方すらわからなくなる。
目の前がぐらりと揺れ、
全身から力が抜けていく。
意識が遠のいていく中、
赤羽は必死に心の中で叫んだ。
必死の願いは、ただ空気に溶けて消えていく。
周囲の景色が色を失いはじめ、
視界は暗闇に溶け込み――
そして、音が消えた。
もう、何も聞こえない。
何も見えない。
身体の感覚さえ、ぼんやりと遠のいていく。
最後の思考がほどけるように消え、
意識は完全に途絶えた。
どれほどの時間が経ったのか――
それすらわからない。
永遠のような闇の中。
人の形をした"何か"に触れられたような気配。
それともただの幻覚だったのか。
そんな最中――
突然、耳元で声がした。
『その願い、叶えよう』
それは男か女か判別できない、
遠くで響くような声。
次の瞬間、赤羽は――目を開いた。
そこに広がっていたのは、
この世のどの風景とも違う。
万華鏡のように色がゆがみ、
空間が折れ曲がり、
光がねじれて流れる世界。
その中心――
斧やノコギリ、歪んだ鉄片で構築されたような“怪物”がいた。
倒れた赤羽を覗き込むようにして、
その異形は確かに"声"を発した。
『代わりに、お前の寿命は貰っていくぞ』
その声を聞いた記憶の後――
すべては再び白くぼやけ、
言葉も、音も、光も、形も、
全てが、薄膜の向こうへ溶けるように失われていった。
静かな事務所の空気の中で、
赤羽葉子はぽつぽつと、自分に起きた“あの記憶”を語り終えた。
その話を一通り聞き終えた椎名唯華は――
半分呆れたような、半笑いの顔で言った。
「で、そいつに寿命を渡した結果が、今のお前やって言いたいんか?」
腕を組んだまま、くつろいだ姿勢のままで、
言葉だけが妙にするどく、突き刺さってくる。
「おまけに霊能力までくれるなんて……
随分と良心的な神様やなぁ? ライトノベルの転生ものかいな」
ククッ、と喉で笑いながらも、椎名の目はふと、鋭くなる。
「けどさ――逆に考えたらどうよ」
「お前、そいつに『自分が殺された』って記憶を“植え付けられた”だけなんちゃうか?」
赤羽の目がわずかに動く。
その目を逃がさず、椎名は続ける。
「簡単に言うと、こんな感じや」
指を一本立て、言葉を区切る。
「お前は何かの事件に巻き込まれた。
首も致命傷になりうる程度には、確かにやられた。
でも、すぐに見つかって、救急搬送――で、助かった」
「けどその時に――」
人差し指を中指に変えながら、微笑む。
「変な霊障に巻き込まれて、霊能力が身に付いた。
ついでに、実際には起きてない“記憶”も混じった。
まるで、そこに“誰か”が後から入れたかのように」
「……どや? 案外、現実的やろ?」
まるで冗談を言うかのように、椎名は笑った。
だがその口元とは裏腹に、
彼女の目だけは、真っ直ぐに赤羽を見ていた。
「言っとくけどな――」
椎名は立ち上がり、軽く赤羽の肩を叩いた。
「死者が生き返るなんてこと、絶対にあらへん。それは、“ありえへん”ねん」
そして、声のトーンをわずかに落とし、静かに続ける。
「だからこそ、ばねさんが今、生きてるんなら――
それはもう、助かったっちゅうことやろ?」
「それが“事実”や。記憶がどうあれな」
その言葉は、どこまでも現実的で、
だからこそ、赤羽の心にじわりと染み入るようだった。
しばらく沈黙が落ちたあと、
椎名は再び椅子に腰を落とし、飴の包みをくしゃくしゃと開けながら言った。
「……ま、寿命減ってるかどうかは今度診といたるわ。」
赤羽は言葉を返せなかった。
ただ静かに、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
「……ありがとうございました」
赤羽は、小さな声でそう言った。
完全に力を取り戻したわけではない。
けれど――ほんの少し、目に生気が戻っていた。
それだけでも、今は十分だった。
椎名唯華は黙って手を振る。
赤羽はそれを見て、ぺこりと頭を下げてから、事務所をあとにした。
ガチャリ、と扉が閉まる音。
その瞬間、椎名は大きく一つ、ため息をついた。
「……さて」
デスクの引き出しを開け、封印された結界符を外しながら、
一枚の黄ばんだ新聞を取り出す。
表紙には、赤々と太字の見出し。
「暮方山 女子高生怪死事件」
椎名はそのまま、新聞をパラリとめくって1年前の日付の記事を見つける。
「本日未明、人の首のようなものが暮方山近くで発見されました。
警察の捜査の結果、遺体は井ノ原総合学園に通う女子生徒・赤羽葉子さん(16)のものであると判明。
下半身は警察の捜査の結果、明治神宮内の池にて発見されました――」
淡々と記された事実。
だが、椎名の眉はわずかにひそめられていた。
「……この新聞、うちにしかあらへんねん」
目の前の紙面を見つめながら、小さく呟く。
「霊障がないように霊符で封印しとった中の奴や。
普通の人間やったら、この情報に辿り着くことすらできへん」
椎名の指が、封印符の一枚を指先で弾く。
「……この事件自体、世間じゃもう“無かったこと”にされとる。
記録も、報道も、ネット記事すらも全部消されとる」
ページの隅に記された、「赤羽葉子」の名前を見つめる。
「それなのに……」
「――生きて、ここにおるってわけか」
長い沈黙が落ちる。
椎名はゆっくりと背もたれに体を預け、椅子をくるりと回転させた。
窓の向こうには、ネオンに灯された都会の街。
夕闇が降りて、街は静かに夜の喧騒へと向かっていく。
「……こりゃ、とんでもないバイトが入ってきてもうたなぁ……」
独りごちるその声は、苦笑まじりで、どこか楽しげだった。
だがその目は、都市の奥に潜む、まだ見ぬ“何か”を見据えていた。
日が傾き始めた夕刻――
森中花咲は、静まり返った橋の下に佇んでいた。
地面にはわずかに湿気が残り、空気は冷たく、音がよく響く。
周囲の音は遠く、まるでここだけが世界から隔絶されたような静寂が流れている。
森中はしゃがみ込み、橋脚に手を添える。
薄く目を閉じ、掌から魔力を滲ませて地面をなぞるように撫でると、
淡い光が指先に灯る。
「……この辺にはもう、変な力は残ってない」
静かに呟く。
だが、その声の裏には確かな違和感があった。
「恐らく、何か感じるのであれば……
それはきっと、ばねちゃん自身の“性”(さが)……」
魔力を帯びた指先がわずかに震える。
彼女の中にある、魔術師としての本能が警鐘を鳴らしていた。
森中は懐から、青い魔力を宿した小さな光の石を取り出す。
「念のため……」
スッと立ち上がると、その石を橋の向こう側へと軽く放る。
石はアーチの下を転がり――その瞬間、石の中に灯っていた光が、一瞬だけ強く脈打った。
「……やっぱり」
森中の表情がわずかに強張る。
「何年か前……ここに“何か”が来た。
それがばねちゃんの命を救ったのか、
あるいは……そう思わせるように、仕組んだだけか」
魔術師の勘が、確かな輪郭を描きはじめていた。
「そして恐らく、それを仕組んだ強大な“何か”は――
今も……」
その言葉を口にしかけた、その瞬間だった。
背後から――
「ッ……!」
何の気配もなく、森中の身体が押さえ込まれる。
鋼のような腕が肩を掴み、体重をかけるように押さえつけてくる。
「なっ――誰っ……!」
とっさに魔力を込めた指先を振り払おうとするが、
腕力が桁違いだ。動けない。
森中は歯を食いしばり、首をわずかにひねって背後を見た。
その顔を見た一瞬、目が見開かれる。
「……お前……!」
だがその言葉が口を出きるより先に――
森中花咲の姿は、橋の下から掻き消えるようにして、闇の中へと連れ去られた。
静まり返る橋の下。
風の音が吹き抜けるだけで、もう誰の気配も残っていなかった。
ただ地面の上には、先ほど森中が投げた光の石が転がっている。
その光は、先ほどよりも一層強く、そして赤く――不穏な色に染まり始めていた。
夕方。
ビルの隙間から差し込む夕焼けが、街を橙色に染めていた。
風が吹くたびに、街路樹の葉が静かに揺れ、
カラスの鳴き声がどこか遠くから、くぐもったように響く。
赤羽葉子は、ゆっくりと歩いていた。
俯きがちに、感情を押し殺すようにして――。
「……お母さんも、何も言わない……」
ぽつりと、誰に向けるでもなく呟く。
「そうだよ……きっと全部、悪い夢だったんだ……」
自分の声が、自分の耳に届く。
そう言い聞かせなければ、足が止まりそうだった。
「……生きてるんだ。なら、別に良いじゃん……」
「首だって、全然痛くないし……きっと霊障か……何かなんだよ……」
少しずつ、一歩ずつ。
現実にしがみつくように、足を前に出す。
ふと顔を上げると――
空が、真っ赤に染まっていた。
今日の夕焼けは、とても綺麗だった。
(……昔も、こんな夕焼け……見たな)
カラスが鳴き、電柱の上を飛んでいく。
その光景は、幼い頃に母と歩いた帰り道と、何も変わらない。
記憶の中の情景と、今の景色が、ゆっくりと重なっていく。
(私……あの頃と、同じように今も歩いてる)
胸の奥に、わずかに“温かさ”がよぎる。
――だけど、すぐにもう一つの記憶が浮かんでくる。
昨日。
泣きながら、ぐちゃぐちゃになった顔で、
母の作った夕食を口に運んだ。
「……バカだよ……私……」
不意に、目元が熱くなる。
涙がこぼれる前に、赤羽は慌てて手で顔を拭った。
その涙は誰にも見せたくなかった。
見せてしまえば、自分の“現実”が壊れてしまいそうで。
だけどその日だけは――
涙のあとに、ほんの少しだけ、足取りが軽くなったように思えた。
空は、相変わらず真っ赤に燃えていた。
夕焼けに染まった街路を、ゆっくり歩いていた赤羽葉子。
胸に重いものはあっても、
さっきまでの景色はどこか暖かかった。
少しだけ、現実を受け入れられそうな気がしていた。
――その瞬間、ポケットのスマホが震えた。
ブルッ……ブルッ……
画面を見ると、「椎名さん」の名前。
赤羽は立ち止まり、通話ボタンを押す。
「……もしもし?」
その声は――
いつもの軽さとはまるで別物だった。
『……ばねさん……頼む、ちょっと聞いてくれ……』
震えている。
普段なら笑いながら毒を吐く椎名が、震えている。
赤羽の背筋に冷たいものが落ちた。
『……森中と……森中と連絡がつかんのや……』
呼吸が止まる。
『そんで……事務所のGPSで場所見たら……
あの橋の下のまま、動かんくなってて……』
夕焼けの温度が、一瞬で消えた。
胸の奥がひきつれ、
呼吸が浅くなる。
その言葉を聞いた瞬間、
赤羽の脳裏には――
自分が誰にも気づかれず、橋の下で死んでいった“あの日”
の記憶が、強制的に呼び覚まされる。
暗闇。
孤独。
痛み。
助けを呼んでも、届かない声。
赤羽の手が震える。
喉がひりつき、舌が乾く。
『……ばねさん? 聞いとるか?』
「……っ……!」
耐えられなかった。
スマホを握りしめたまま、
赤羽は夕暮れの歩道を――
走り出した。
青ざめた顔のまま、
息を荒げ、
涙を振り切るように。
何がどうして、何をすればいいのか分からない。
それでも走らずにはいられなかった。
赤羽は、事務所の方角へ一直線に駆けていく。
日常の匂いも、夕焼けの美しさも、もう何も感じられない。
ただ――
「取り返しがつかなくなる前に」
という焦りだけが、彼女の足を動かしていた。