しばらくして。静かな時間の中、むぎがぱたん、と本を閉じた。
「そろそろ帰りますね」
立ち上がりながら、いつも通りの落ち着いた声。
「良い所見つけました。またサボらせてください」
悪びれもなく言い残し、そのまま出口へ向かう。
スリッパの軽い足音が、事務所の中に響く。
赤羽はお菓子を食べながら「お疲れ様で〜す」と手を振り、
笹木は「おう……」と気の抜けた返事をした。
そして――
むぎが、扉の前に立つ。
ガラス扉の向こう。
そこに――
仁王立ちしている影があった。
「……」
むぎは一瞬だけ首を傾げる。
「あ、かざちゃん…」
状況を理解していない、いつも通りの声音。
そのまま何も考えずに、扉に手をかける。
だが。
ふと――
ガラスに映った“自分”が目に入った。
パジャマ姿。
借り物のゆるい格好。
明らかに“外に出る人間の格好”ではない。
「……」
数秒。
理解が、追いつく。
そして。
「やべっ…!」
顔が一気に青ざめた。
手が止まる。
開けようとしていた扉が、中途半端な位置で止まる。
その瞬間。
ガチャ、と。
向こう側から扉が開いた。
「……」
森中花咲が、そのまま中へ入ってくる。
無言。
だが、空気が明らかに変わる。
むぎは一歩後ずさる。
「ご…ごめん…かざちゃん…」
思わず謝る。
だが。
森中の表情は、一切変わらない。
無表情のまま、ゆっくりとむぎに近づく。
「……何じゃその格好は…」
低い声。
静かすぎて、逆に圧がある。
むぎはびくっと肩を震わせる。
「ご…ごめんなさい…!」
慌てて両手を合わせる。
だが、その動作すら途中で止まる。
ぐいっ、と。
森中の手が、むぎの首根っこを掴んだからだ。
「ひゃっ」
軽く浮く。
抵抗する暇もない。
「帰るぞ」
短く一言。
そのまま、ずるずると引きずるようにして出口へ。
「ご、ごめんってば……!」
むぎの声が遠ざかっていく。
扉が閉まる。
ぱたん。
――静寂。
数秒後。
「……」
笹木が、ゆっくりと視線を扉に向けたまま呟く。
「……助からんやつや、あれ……」
赤羽はポテチを食べながら、
「怒られてますね〜…」
と、どこか他人事のように言った。
事務所には、またいつもの空気が戻っていた。
扉が閉まる――その直前。
外に、もう一人の影があった。
碧星院高校の制服。
整えられた金髪、どこか軽やかな雰囲気を纏った少年。
その視線は、引きずられていくむぎの背中に向けられていた。
「……嘘だろ、むぎっち…」
ぽつりと。
どこか信じられないものを見るような声。
そのまま、扉の前に立ち尽くしている。
中では。
「……」
笹木が、その様子をじっと見ていた。
そして、椅子から立ち上がると、ゆっくりと近づいていく。
「なんや、お前…」
警戒とも、ただの興味ともつかない声音。
少年の前まで来て、軽く顎をしゃくる。
「早くしないと引率の先生帰っちまうで」
外に目をやりながら、適当なことを言う。
だが少年は、
「ああ…いや」
ひらひらと手を振る。
気にした様子もなく、むしろ軽い。
「別に、かざさんに着いてきたわけじゃないんだ」
そう言って、そのまま事務所の中へ入ってくる。
靴音が、静かに響く。
そして――
一歩、踏み込んでから。
にっと、気さくに笑った。
「はじめまして、笹木咲さん」
まっすぐな視線。
どこか人懐っこさのある笑顔。
「俺は伏見ガク。碧星院ではマークスマンをやってる」
軽やかな自己紹介。
だが、その肩書きだけが、妙に浮いている。
「……は?」
笹木は、眉をひそめる。
意味が分からない、という顔。
その横で、赤羽がひょこっと顔を出す。
ピンクのパーカーにツインテールという、完全に緩い姿のまま。
「マークスマンって…なんですか?」
純粋な疑問。
首を傾げながら、笹木を見る。
「さあ…」
即答。
何も分かっていない顔で肩をすくめる。
そして、ガクの方をちらっと見て、
「碧星院ならどうせ殺し屋やろ」
雑すぎる結論。
「いやいやいや」
ガクは思わず笑う。
軽く手を振りながら、
「まあ、完全に間違いじゃないけどさ」
否定しきらない。
その曖昧さが、逆に厄介だった。
赤羽は「へぇ〜…」と妙に納得したように頷き、
笹木は「ほら見ろや」とドヤ顔になる。
ガクは、軽く肩をすくめた。
「それに――用があるのは俺じゃない」
そう言って、一歩横へずれる。
道を開けるように。
その背後。
静かに――影が現れる。
黒い装束。
無駄のない立ち姿。
空気そのものを張り詰めさせるような、異質な気配。
その青年が、一歩だけ中へ踏み込んだ瞬間――
赤羽の目が、変わった。
「……」
お菓子を持つ手が止まる。真っ直ぐにその存在を捉える。
ただ“人間を見る目”ではない。
もっと深い――“何か”を見ている目。
「あなたは…」
低く、真剣な声。
だが――
「剣持!?」
笹木の声が、それを遮った。
驚きと、はっきりとした認識。
その名前に、青年はわずかに眉を動かす。
「……お前は相変わらずだな」
ため息混じり。
どこか呆れたような、だが完全に無関係でもない距離感。
赤羽は、視線を外さないまま、笹木に問う。
「お知り合いですか?」
警戒は解けていない。
むしろ、さっきより強まっている。
笹木は頭をかきながら、
「ちょっと2年前にな…」
と、歯切れ悪く答える。
詳しくは言わない。
だが、軽い関係ではないのは明らかだった。
その様子を見て、ガクがくすっと笑う。
「へぇ、旦那に知り合いかぁ…珍し」
面白そうに。
完全に“他人事”の顔。
剣持は、ちらりとガクを一瞥し――
「お前といると変なことばかり起こる…」
小さくため息。
心底面倒くさそうに。
そのまま視線を前に戻す。
赤羽と、真正面から目が合う。
「……」
一瞬。
空気が、重く沈む。
ただ立っているだけなのに、互いに“何かを測り合っている”ような緊張。
事務所の空気が、わずかに張り詰めたまま。
剣持は、静かに椅子を引いた。
無駄のない動作で、笹木の向かいに座る。
「……」
数秒の沈黙。
そして、低く口を開いた。
「白竜の里の、“主様”と呼ばれる人物からの命で来た」
その言葉と同時に、懐から巻物を取り出す。
古びた紙。
だが、ただの資料ではないことは、見ただけで分かる。
するり、と広げる。
机の上に置かれたそれには――
異形が描かれていた。
巨大な体躯。
獣とも鳥ともつかない輪郭。
いくつもの特徴が歪に混ざり合った、鵺のような存在。
禍々しい。
ただの絵なのに、妙に“圧”がある。
「……なんやお前」
笹木が眉をひそめる。
腕を組みながら、じっとそれを見る。
「お遣いなんて受けるんか」
ちらりと剣持を見る。
「ちひろの時はあんな敵意むき出しにしてたのに」
少し皮肉めいた声。
だが――
剣持は、答えない。
視線をわずかに逸らす。
「……」
沈黙。
ほんの一瞬ではなく、
“答えを選んでいる”ような間。
その空気を、ガクが崩す。
「あれ、知らないのか?」
軽い声。
笹木の方を見ながら、にやっとする。
「旦那って幼い女の子に頼まれると――」
「……」
その瞬間。
剣持の視線が、ガクを射抜いた。
鋭い。
言葉より先に、“やめろ”と伝わる圧。
「おっと…」
ガクは肩をすくめる。
「へへ、悪いな旦那」
視線を逸らし、軽く手を上げる。
それ以上は言わない。
空気が、少しだけ落ち着く。
やがて。
剣持は、小さく息を吐いた。
そして――
巻物の一点を、指で示す。
「……こいつをなんとかしたい」
低い声。
そこに、余計な感情はない。
ただの“依頼”。
だが。
その対象が、問題だった。
机の上の“それ”は――
ただの化け物ではない。
見ているだけで、嫌な気配がじわりと滲んでくる。
赤羽は、無言でそれを見つめていた。
その絵はまさしく、
「蒼翼の……悪魔……」
剣持は、巻物に視線を落としたまま口を開いた。
「……白竜の里の巫女が、竜を崇めるように」
指先が、描かれた異形の輪郭をなぞる。
「こいつにも、こいつを崇める奴らがいる」
静かな声。
だが、その内容は軽くない。
「そいつらさえ何とかすれば――」
わずかに視線を上げる。
「こいつは、現世に出てこない」
淡々とした結論。
まるで“手順”を説明するように。
「……」
笹木は、腕を組んだまま巻物を見下ろす。
そして、ふっと鼻で笑った。
「そんな物騒なやつを崇める奴なんかいるんか…」
半分は冗談。
半分は、本気の疑問。
だが――
剣持は、それに対して何も答えない。
肯定も、否定もせず。
ただ、数秒の沈黙。
その“間”だけで、十分だった。
「……」
笹木の表情が、ほんの少しだけ引き締まる。
やがて。
剣持は何も言わず、巻物をくるりと巻き戻した。
さらり、と布の擦れる音。
「……話はそれだけだ」
短く告げる。
それ以上の説明も、補足もない。
立ち上がる。
椅子がわずかに軋む。
そのまま、踵を返す。
「行くぞ」
振り返りもせずに言う。
「あいよ、旦那」
ガクが軽く手を上げて応じる。
去り際に、ちらっとだけ事務所の中を見回し――
「じゃあな」
気さくに一言。
そのまま、二人は出口へ向かう。
扉が開く。
外の空気が一瞬流れ込む。
そして――
ぱたん、と閉まる。
静寂が戻る。
「……」
しばらくして、笹木がぽつりと呟いた。
「……なんやねん、あいつ……」
軽く頭をかく。
机の上には、もう何も残っていない。
だが。
確かに、“厄介なもの”だけが置いていかれた感覚があった。
人通りの少ない通り。
街灯はまだ灯りきらず、
夕暮れの残り火だけが、アスファルトを鈍く照らしている。
剣持とガクは、並んで歩いていた。
「いやぁ、久々だったなー旦那の知り合い」
ガクが軽く伸びをしながら言う。
「……知り合いと言えるかは怪しいがな」
剣持は素っ気なく返す。
その時だった。
前方。
道の中央に――ひとりの少女が、立っていた。
「……」
足を止める。
カジュアルに崩されたセーラー服。
小柄な体。
どこか幼さを残した顔立ち。
だが。
その場に“立っているだけ”で、分かる。
普通じゃない。
空気が、歪んでいる。
剣持は、わずかに視線を細めた。
「……伏見」
低く呼ぶ。
それだけで意図は伝わる。
ガクは一歩下がり、距離を取る。
剣持はそのまま、少女へと歩み寄った。
足音が、やけに大きく響く。
数歩の距離。
止まる。
「普通の人間じゃないな」
単刀直入。
探る必要もないと判断した声音。
少女は、答えない。
ただ――
その手には、ドブネズミが握られていた。
いつの間にか、そこにあった。
ぴくぴくと動く、小さな命。
「……」
少女は、それを見下ろす。
そして――
ぐしゃり。
何の躊躇もなく、握り潰した。
かすかな音。
血も、残骸も。
次の瞬間には――
“消えていた”。
まるで最初から存在しなかったかのように。
「そう」
少女が、顔を上げる。
にこり、と笑う。
無邪気で、軽い。
「わたし、あなたの敵だよ」
言葉と同時に――
すっと、手を前に出す。
その瞬間。
ドンッ!!
空気が、爆ぜた。
見えない衝撃が一直線に走る。
「っ――!」
剣持の身体が、後方へと吹き飛ばされる。
地面を削りながら、数メートル。
背中が、廃屋の壁に叩きつけられる。
「旦那!」
ガクが声を上げる。
だが、少女はそちらを見ない。
ただ、ゆっくりと前に歩き出す。
足音が、やけに軽い。
「その巻物」
指先が、剣持の方を示す。
「ちょうだい」
お願いするような口調。
だが、拒否は想定していない響き。
剣持は、ゆっくりと顔を上げた。
額から血が一筋流れる。
だが、目は死んでいない。
「……」
すぐ横。
崩れかけた廃屋。
壁に打ち付けられていた鉄パイプが目に入る。
手を伸ばす。
バキッ、と音を立てて引き剥がす。
錆びた鉄が、鈍く鳴る。
それを、軽く握り直す。
立ち上がる。
「……なめるな」
低く吐き捨てる。
そのまま――少女と、正面から向き合った。