こちら、都市伝説研究センターです。   作:えいどら

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第四章 第弐話:蒼翼の悪魔

 しばらくして。静かな時間の中、むぎがぱたん、と本を閉じた。

 

「そろそろ帰りますね」

 

 立ち上がりながら、いつも通りの落ち着いた声。

 

「良い所見つけました。またサボらせてください」

 

 悪びれもなく言い残し、そのまま出口へ向かう。

 

 スリッパの軽い足音が、事務所の中に響く。

 

 赤羽はお菓子を食べながら「お疲れ様で〜す」と手を振り、

 笹木は「おう……」と気の抜けた返事をした。

 

 そして――

 

 むぎが、扉の前に立つ。

 

 ガラス扉の向こう。

 

 そこに――

 

 仁王立ちしている影があった。

 

「……」

 

 むぎは一瞬だけ首を傾げる。

 

「あ、かざちゃん…」

 

 状況を理解していない、いつも通りの声音。

 

 そのまま何も考えずに、扉に手をかける。

 

 だが。

 

 ふと――

 

 ガラスに映った“自分”が目に入った。

 

 パジャマ姿。

 

 借り物のゆるい格好。

 

 明らかに“外に出る人間の格好”ではない。

 

「……」

 

 数秒。

 

 理解が、追いつく。

 

 そして。

 

「やべっ…!」

 

 顔が一気に青ざめた。

 

 手が止まる。

 

 開けようとしていた扉が、中途半端な位置で止まる。

 

 その瞬間。

 

 ガチャ、と。

 

 向こう側から扉が開いた。

 

「……」

 

 森中花咲が、そのまま中へ入ってくる。

 

 無言。

 

 だが、空気が明らかに変わる。

 

 むぎは一歩後ずさる。

 

「ご…ごめん…かざちゃん…」

 

 思わず謝る。

 

 だが。

 

 森中の表情は、一切変わらない。

 

 無表情のまま、ゆっくりとむぎに近づく。

 

「……何じゃその格好は…」

 

 低い声。

 

 静かすぎて、逆に圧がある。

 

 むぎはびくっと肩を震わせる。

 

「ご…ごめんなさい…!」

 

 慌てて両手を合わせる。

 

 だが、その動作すら途中で止まる。

 

 ぐいっ、と。

 

 森中の手が、むぎの首根っこを掴んだからだ。

 

「ひゃっ」

 

 軽く浮く。

 

 抵抗する暇もない。

 

「帰るぞ」

 

 短く一言。

 

 そのまま、ずるずると引きずるようにして出口へ。

 

「ご、ごめんってば……!」

 

 むぎの声が遠ざかっていく。

 

 扉が閉まる。

 

 ぱたん。

 

 ――静寂。

 

 数秒後。

 

「……」

 

 笹木が、ゆっくりと視線を扉に向けたまま呟く。

 

「……助からんやつや、あれ……」

 

 赤羽はポテチを食べながら、

 

「怒られてますね〜…」

 

 と、どこか他人事のように言った。

 

 事務所には、またいつもの空気が戻っていた。

 

 扉が閉まる――その直前。

 

 外に、もう一人の影があった。

 

 碧星院高校の制服。

 整えられた金髪、どこか軽やかな雰囲気を纏った少年。

 

 その視線は、引きずられていくむぎの背中に向けられていた。

 

「……嘘だろ、むぎっち…」

 

 ぽつりと。

 

 どこか信じられないものを見るような声。

 

 そのまま、扉の前に立ち尽くしている。

 

 中では。

 

「……」

 

 笹木が、その様子をじっと見ていた。

 

 そして、椅子から立ち上がると、ゆっくりと近づいていく。

 

「なんや、お前…」

 

 警戒とも、ただの興味ともつかない声音。

 

 少年の前まで来て、軽く顎をしゃくる。

 

「早くしないと引率の先生帰っちまうで」

 

 外に目をやりながら、適当なことを言う。

 

 だが少年は、

 

「ああ…いや」

 

 ひらひらと手を振る。

 

 気にした様子もなく、むしろ軽い。

 

「別に、かざさんに着いてきたわけじゃないんだ」

 

 そう言って、そのまま事務所の中へ入ってくる。

 

 靴音が、静かに響く。

 

 そして――

 

 一歩、踏み込んでから。

 

 にっと、気さくに笑った。

 

「はじめまして、笹木咲さん」

 

 まっすぐな視線。

 

 どこか人懐っこさのある笑顔。

 

「俺は伏見ガク。碧星院ではマークスマンをやってる」

 

 軽やかな自己紹介。

 

 だが、その肩書きだけが、妙に浮いている。

 

「……は?」

 

 笹木は、眉をひそめる。

 

 意味が分からない、という顔。

 

 その横で、赤羽がひょこっと顔を出す。

 

 ピンクのパーカーにツインテールという、完全に緩い姿のまま。

 

「マークスマンって…なんですか?」

 

 純粋な疑問。

 

 首を傾げながら、笹木を見る。

 

「さあ…」

 

 即答。

 

 何も分かっていない顔で肩をすくめる。

 

 そして、ガクの方をちらっと見て、

 

「碧星院ならどうせ殺し屋やろ」

 

 雑すぎる結論。

 

「いやいやいや」

 

 ガクは思わず笑う。

 

 軽く手を振りながら、

 

「まあ、完全に間違いじゃないけどさ」

 

 否定しきらない。

 

 その曖昧さが、逆に厄介だった。

 

 赤羽は「へぇ〜…」と妙に納得したように頷き、

 

 笹木は「ほら見ろや」とドヤ顔になる。

 

 ガクは、軽く肩をすくめた。

 

「それに――用があるのは俺じゃない」

 

 そう言って、一歩横へずれる。

 

 道を開けるように。

 

 その背後。

 

 静かに――影が現れる。

 

 黒い装束。

 

 無駄のない立ち姿。

 空気そのものを張り詰めさせるような、異質な気配。

 

 その青年が、一歩だけ中へ踏み込んだ瞬間――

 

 赤羽の目が、変わった。

 

「……」

 

 お菓子を持つ手が止まる。真っ直ぐにその存在を捉える。

 

 ただ“人間を見る目”ではない。

 

 もっと深い――“何か”を見ている目。

 

「あなたは…」

 

 低く、真剣な声。

 

 だが――

 

「剣持!?」

 

 笹木の声が、それを遮った。

 

 驚きと、はっきりとした認識。

 

 その名前に、青年はわずかに眉を動かす。

 

「……お前は相変わらずだな」

 

 ため息混じり。

 

 どこか呆れたような、だが完全に無関係でもない距離感。

 

 赤羽は、視線を外さないまま、笹木に問う。

 

「お知り合いですか?」

 

 警戒は解けていない。

 

 むしろ、さっきより強まっている。

 

 笹木は頭をかきながら、

 

「ちょっと2年前にな…」

 

 と、歯切れ悪く答える。

 

 詳しくは言わない。

 

 だが、軽い関係ではないのは明らかだった。

 

 その様子を見て、ガクがくすっと笑う。

 

「へぇ、旦那に知り合いかぁ…珍し」

 

 面白そうに。

 

 完全に“他人事”の顔。

 

 剣持は、ちらりとガクを一瞥し――

 

「お前といると変なことばかり起こる…」

 

 小さくため息。

 

 心底面倒くさそうに。

 

 そのまま視線を前に戻す。

 

 赤羽と、真正面から目が合う。

 

「……」

 

 一瞬。

 

 空気が、重く沈む。

 

 ただ立っているだけなのに、互いに“何かを測り合っている”ような緊張。

 

 事務所の空気が、わずかに張り詰めたまま。

 

 剣持は、静かに椅子を引いた。

 

 無駄のない動作で、笹木の向かいに座る。

 

「……」

 

 数秒の沈黙。

 

 そして、低く口を開いた。

 

「白竜の里の、“主様”と呼ばれる人物からの命で来た」

 

 その言葉と同時に、懐から巻物を取り出す。

 

 古びた紙。

 

 だが、ただの資料ではないことは、見ただけで分かる。

 

 するり、と広げる。

 

 机の上に置かれたそれには――

 

 異形が描かれていた。

 

 巨大な体躯。

 獣とも鳥ともつかない輪郭。

 いくつもの特徴が歪に混ざり合った、鵺のような存在。

 

 禍々しい。

 

 ただの絵なのに、妙に“圧”がある。

 

「……なんやお前」

 

 笹木が眉をひそめる。

 

 腕を組みながら、じっとそれを見る。

 

「お遣いなんて受けるんか」

 

 ちらりと剣持を見る。

 

「ちひろの時はあんな敵意むき出しにしてたのに」

 

 少し皮肉めいた声。

 

 だが――

 

 剣持は、答えない。

 

 視線をわずかに逸らす。

 

「……」

 

 沈黙。

 

 ほんの一瞬ではなく、

 “答えを選んでいる”ような間。

 

 その空気を、ガクが崩す。

 

「あれ、知らないのか?」

 

 軽い声。

 

 笹木の方を見ながら、にやっとする。

 

「旦那って幼い女の子に頼まれると――」

 

「……」

 

 その瞬間。

 

 剣持の視線が、ガクを射抜いた。

 

 鋭い。

 

 言葉より先に、“やめろ”と伝わる圧。

 

「おっと…」

 

 ガクは肩をすくめる。

 

「へへ、悪いな旦那」

 

 視線を逸らし、軽く手を上げる。

 

 それ以上は言わない。

 

 空気が、少しだけ落ち着く。

 

 やがて。

 

 剣持は、小さく息を吐いた。

 

 そして――

 

 巻物の一点を、指で示す。

 

「……こいつをなんとかしたい」

 

 低い声。

 

 そこに、余計な感情はない。

 

 ただの“依頼”。

 

 だが。

 

 その対象が、問題だった。

 

 机の上の“それ”は――

 

 ただの化け物ではない。

 

 見ているだけで、嫌な気配がじわりと滲んでくる。

 

 赤羽は、無言でそれを見つめていた。

 

 その絵はまさしく、

 

「蒼翼の……悪魔……」

 

 剣持は、巻物に視線を落としたまま口を開いた。

 

「……白竜の里の巫女が、竜を崇めるように」

 

 指先が、描かれた異形の輪郭をなぞる。

 

「こいつにも、こいつを崇める奴らがいる」

 

 静かな声。

 

 だが、その内容は軽くない。

 

「そいつらさえ何とかすれば――」

 

 わずかに視線を上げる。

 

「こいつは、現世に出てこない」

 

 淡々とした結論。

 

 まるで“手順”を説明するように。

 

「……」

 

 笹木は、腕を組んだまま巻物を見下ろす。

 

 そして、ふっと鼻で笑った。

 

「そんな物騒なやつを崇める奴なんかいるんか…」

 

 半分は冗談。

 

 半分は、本気の疑問。

 

 だが――

 

 剣持は、それに対して何も答えない。

 

 肯定も、否定もせず。

 

 ただ、数秒の沈黙。

 

 その“間”だけで、十分だった。

 

「……」

 

 笹木の表情が、ほんの少しだけ引き締まる。

 

 やがて。

 

 剣持は何も言わず、巻物をくるりと巻き戻した。

 

 さらり、と布の擦れる音。

 

「……話はそれだけだ」

 

 短く告げる。

 

 それ以上の説明も、補足もない。

 

 立ち上がる。

 

 椅子がわずかに軋む。

 

 そのまま、踵を返す。

 

「行くぞ」

 

 振り返りもせずに言う。

 

「あいよ、旦那」

 

 ガクが軽く手を上げて応じる。

 

 去り際に、ちらっとだけ事務所の中を見回し――

 

「じゃあな」

 

 気さくに一言。

 

 そのまま、二人は出口へ向かう。

 

 扉が開く。

 

 外の空気が一瞬流れ込む。

 

 そして――

 

 ぱたん、と閉まる。

 

 静寂が戻る。

 

「……」

 

 しばらくして、笹木がぽつりと呟いた。

 

「……なんやねん、あいつ……」

 

 軽く頭をかく。

 

 机の上には、もう何も残っていない。

 

 だが。

 

 確かに、“厄介なもの”だけが置いていかれた感覚があった。

 

 

 

 

 

 人通りの少ない通り。

 

 街灯はまだ灯りきらず、

 夕暮れの残り火だけが、アスファルトを鈍く照らしている。

 

 剣持とガクは、並んで歩いていた。

 

「いやぁ、久々だったなー旦那の知り合い」

 

 ガクが軽く伸びをしながら言う。

 

「……知り合いと言えるかは怪しいがな」

 

 剣持は素っ気なく返す。

 

 その時だった。

 

 前方。

 

 道の中央に――ひとりの少女が、立っていた。

 

「……」

 

 足を止める。

 

 カジュアルに崩されたセーラー服。

 小柄な体。

 どこか幼さを残した顔立ち。

 

 だが。

 

 その場に“立っているだけ”で、分かる。

 

 普通じゃない。

 

 空気が、歪んでいる。

 

 剣持は、わずかに視線を細めた。

 

「……伏見」

 

 低く呼ぶ。

 

 それだけで意図は伝わる。

 

 ガクは一歩下がり、距離を取る。

 

 剣持はそのまま、少女へと歩み寄った。

 

 足音が、やけに大きく響く。

 

 数歩の距離。

 

 止まる。

 

「普通の人間じゃないな」

 

 単刀直入。

 

 探る必要もないと判断した声音。

 

 少女は、答えない。

 

 ただ――

 

 その手には、ドブネズミが握られていた。

 

 いつの間にか、そこにあった。

 

 ぴくぴくと動く、小さな命。

 

「……」

 

 少女は、それを見下ろす。

 

 そして――

 

 ぐしゃり。

 

 何の躊躇もなく、握り潰した。

 

 かすかな音。

 

 血も、残骸も。

 

 次の瞬間には――

 

 “消えていた”。

 

 まるで最初から存在しなかったかのように。

 

「そう」

 

 少女が、顔を上げる。

 

 にこり、と笑う。

 

 無邪気で、軽い。

 

「わたし、あなたの敵だよ」

 

 言葉と同時に――

 

 すっと、手を前に出す。

 

 その瞬間。

 

 ドンッ!!

 

 空気が、爆ぜた。

 

 見えない衝撃が一直線に走る。

 

「っ――!」

 

 剣持の身体が、後方へと吹き飛ばされる。

 

 地面を削りながら、数メートル。

 

 背中が、廃屋の壁に叩きつけられる。

 

「旦那!」

 

 ガクが声を上げる。

 

 だが、少女はそちらを見ない。

 

 ただ、ゆっくりと前に歩き出す。

 

 足音が、やけに軽い。

 

「その巻物」

 

 指先が、剣持の方を示す。

 

「ちょうだい」

 

 お願いするような口調。

 

 だが、拒否は想定していない響き。

 

 剣持は、ゆっくりと顔を上げた。

 

 額から血が一筋流れる。

 

 だが、目は死んでいない。

 

「……」

 

 すぐ横。

 

 崩れかけた廃屋。

 

 壁に打ち付けられていた鉄パイプが目に入る。

 

 手を伸ばす。

 

 バキッ、と音を立てて引き剥がす。

 

 錆びた鉄が、鈍く鳴る。

 

 それを、軽く握り直す。

 

 立ち上がる。

 

「……なめるな」

 

 低く吐き捨てる。

 

 そのまま――少女と、正面から向き合った。

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