少女は、ゆっくりと一歩踏み出した。
その視線は、剣持から外れない。
ふと――
路上に、ぽたりと落ちたものに目を向ける。
剣持の血。
ほんのわずか。
だが、それで十分だった。
「……」
少女はしゃがみ込む。
指先で、それに触れる。
次の瞬間。
血は――消えた。
吸収されたわけでもない。
蒸発でもない。
“なかったことにされた”ように、消失した。
そして。
じわり、と。
アスファルトの上に、歪な塊が浮かび上がる。
鉄。
いや――屑鉄。
ねじ曲がった釘、割れた金属片、錆びた破片。
それらが集まり、蠢く。
ぐにゃり、と形を変え――
蛇のように、うねり始めた。
一つではない。
二つ、三つ。
いや、それ以上。
無数の“鉄の蛇”が、地面から這い出る。
「……行って」
少女が、軽く指を動かす。
次の瞬間。
ザァッ!!
一斉に、剣持へと襲いかかった。
「……っ!」
剣持は、一歩踏み出す。
鉄パイプを握り直す。
構えは、刀。
無駄のない、洗練された動き。
――来る。
一匹目。
振り下ろす。
ガンッ!!
金属がぶつかる鈍い音。
そのまま弾き、軌道を逸らす。
二匹目。
横から。
身体をひねり、最小限で避ける。
返す動きで――叩き斬る。
バキンッ!!
屑鉄が弾け、ばらばらに砕ける。
だが。
止まらない。
三匹、四匹、五匹。
次々と襲いかかる。
剣持は、一歩も引かない。
踏み込み。
振るい。
捌く。
まるで本物の刀のように、鉄パイプが空を切る。
無駄のない動きで、すべてを“処理”していく。
「……!」
そして――
一瞬の隙。
剣持は、地面を蹴った。
一直線に、少女へ。
飛ぶように距離を詰める。
だが、その瞬間。
「……あは」
少女が、わずかに笑った。
ばらばらに砕けたはずの蛇たち。
それが――
ぴたりと、動きを止める。
次の瞬間。
バラける。
いや――
“広がる”。
細かい破片一つ一つが、宙に浮く。
そして。
ザァァァァッ!!!
降り注いだ。
鉄の雨。
無数の鋭い破片が、空から一斉に落ちてくる。
剣持のすぐ傍を掠める。
「……っ!」
反射的に身をひねる。
だが、すべては避けきれない。
ガンッ!ガガガッ!!
地面に突き刺さる音が、連続する。
アスファルトが抉れ、削れ、傷が刻まれていく。
一本一本が、刃物のように鋭い。
ほんの少しでも触れれば、肉を裂く。
それが――雨のように降り続ける。
剣持は足を止めざるを得ない。
進めば、蜂の巣になる。
止まれば、削られる。
「……」
歯を食いしばる。
視線は、少女から外さない。
鉄の雨の向こうで。
少女は、ただ立っていた。
鉄の雨を――斬る。
弾く。
逸らす。
「……っ!」
剣持の身体が、最小限の動きで嵐の中を進む。
一歩。
また一歩。
踏み込むたびに、鉄片が弾け、地面に突き刺さる。
そして――
「……!」
一瞬の隙。
剣持は、その間を縫うようにして前へ出た。
少女の目前。
間合いに入る。
鉄パイプを振りかぶる――
だが、その瞬間。
「……」
直感。
背筋を走る、異様な気配。
“後ろ”。
振り返るまでもない。
理解する。
背後に――
巨大な“針”。
何本も。
空中に浮遊している。
「……チッ」
振り下ろす動きを、強引に止める。
即座に後方へ飛ぶ。
次の瞬間。
ドシュッ!!
針が、一斉に空間を貫いた。
ついさっきまで剣持がいた場所を――
高速で、すり抜けていく。
一瞬でも遅れていれば、貫かれていた。
着地。
体勢を立て直す。
少女は、それを見ていた。
「……へぇ」
見下すような視線。
ほんの少しだけ、つまらなそうに。
そして――
すっと、指を動かす。
空気が、歪む。
次の瞬間。
シュンッ――!!
赤い線。
極細の水流。
だが、それは“水”ではない。
圧縮された何か。
刃のような流れ。
一直線に、剣持へ。
「……!」
横へ跳ぶ。
わずかに遅れる。
ズッ――
装束の端を掠める。
布が裂ける。
そのまま。
背後の建物へ。
ドンッ!!
壁が、抉れる。
まるで巨大な刃で削られたかのように、深く、鋭く。
「……」
剣持は、息を整える。
その時。
「……アホやな、こんなとこで」
横から、声。
「……」
剣持が視線を向ける。
そこに――
椎名唯華が立っていた。
霊符を指に挟み、気だるげな顔。
だが、目だけは鋭い。
「なにしとんねん、ほんま」
軽く肩をすくめながら。
そして。
腰の刀に手をかける。
「ほら」
抜く。
すっと、差し出す。
「使えや」
剣持へ。
だが。
「必要ない」
即答。
一切の迷いもなく、断る。
そのまま、視線は少女へ戻る。
「……」
椎名の動きが止まる。
「なっ…!」
一瞬の沈黙。
「なんでや!」
声が一段上がる。
「もちもちの絆やん!!」
完全に、わざとらしい。
だが、妙に必死。
「……」
剣持は、完全に無視。
少女だけを見ている。
その光景を見て。
「……うわ…マジか…」
少女が、顔をしかめた。
さっきまでの余裕とは違う。
少しだけ、面倒くさそうな表情。
そして。
自分の親指に、歯を立てる。
ぷつり、と。
血が滲む。
「……」
それを、軽く掲げる。
「パス!」
次の瞬間。
血が――消える。
同時に。
少女の姿も、消えた。
事務所の外。
夜が、静かに降りていた。
街灯の光が、アスファルトに淡く滲む中――
赤羽葉子は、あの赤い装束のまま立っている。
夕暮れよりも濃い赤。
そこだけ、世界から浮いているような色。
「……」
笹木は、少しだけ距離を置いたまま、その姿を見ていた。
喉が、わずかに詰まる。
それでも。
「さっきは…すまんかったな」
引きつった顔で、無理やり言葉を出す。
視線は逸らさない。
逸らせば、何かが壊れる気がした。
「本当は…」
少し、言葉を選ぶ。
「変なやつとか、全部ウチが抱え込んだるって決めて」
苦笑い。
自嘲にも近い。
「こんな場所にこんなもん作ったんや」
その“こんなもん”が何を指すのか。
言葉にしなくても、分かる。
赤羽は、何も言わずに見つめていた。
その視線の先。
笹木の表情。
恐れている。
明らかに。
目の前の“赤羽”を。
だが、それを押し込めている。
無理やり、笑おうとしている。
崩れそうな何かを、必死に繋ぎ止めている顔。
「……」
赤羽は、ゆっくりと一歩近づいた。
そして――
そっと、手を伸ばす。
笹木の頬に触れる。
ひやり、とした感触。
「江良さんが言ってました」
静かな声。
「笹木さんがもし、そういってくれる人じゃなかったら」
指先が、わずかに動く。
「こんなに変な人ばっかり周りに集まらないって…」
笹木は、一瞬だけ目を見開く。
だが、すぐに――
にやり、と笑う。
無理やりの、作り笑い。
「せやで」
軽く言い切る。
「ばねさんは子供で…うちはもう大人やからな」
いつもの調子を、必死に取り戻す。
だが。
赤羽は、じっとその目を見たまま。
胸に手を当てる。
「私、もう何万年も生きてるのかもしれませんよ」
淡々と。
現実とも冗談ともつかない声音。
「もし記憶が真実なら…」
一拍。
「笹木さん達なんて、虫みたいなもんです」
笹木は、笑ったまま。
表情を崩さない。
「それでもや」
短く。
はっきりと。
そして――
赤羽の手を、ぎゅっと握る。
温かい。
生きている人間の温度。
「……」
赤羽は、ほんの少しだけ目を細めた。
そのまま、手を引かない。
「今度…教えてくださいね」
ぽつりと。
「笹木さん達に何があったか…」
風が、静かに二人の間を通り抜ける。
思っているより静かだった。
街灯の間隔が広い通り。
人の気配はほとんどなく、遠くでカラスが鳴く声だけが、やけに響いている。
かぁ、かぁ――
風が吹くたびに、どこかの看板がかすかに軋む。
赤羽葉子は、その中を歩いていた。
ゆっくりと。
足音は、ほとんどしない。
赤い装束が、夜の中で異様に浮いている。
だが、それを気にする者は、ここにはいない。
人がいない代わりに――
“音”だけはある。
羽ばたき。
爪がコンクリートを引っ掻く音。
どこかで餌を漁る、小さな命の気配。
それらすべてが、赤羽には“聞こえている”。
「……」
表情は変わらない。
ただ、歩く。
開けた通りに出る。
視界が一気に広がる。
その、真ん中で。
――すれ違った。
少女。
カジュアルなセーラー服。
小柄な体。
ほんの一瞬。
互いに、視線は交わらない。
そのまま、通り過ぎる。
赤羽は、止まらない。
少女も、止まらない。
だが。
数歩、進んだところで――
少女の足が、ぴたりと止まった。
「……」
ゆっくりと。
振り返る。
赤羽の背中。
赤い装束。
その輪郭。
その“存在”。
「……っ」
目が見開かれる。明らかな驚き。
その表情が、変わっていく。
驚きが、歪む。
理解が、追いつく。
そして――
苦い顔。
嫌悪とも、警戒ともつかない。
「……」
少女は、じっとその背中を睨みつける。
赤羽は、気づいている。
だが、振り返らない。
そのまま、歩き続ける。
静かな通り。
カラスの声が、また一つ響く。
その中で――
少女の声が、低く漏れた。
「……ばねき……!」