こちら、都市伝説研究センターです。   作:えいどら

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第四章 第肆話:喧嘩

 早朝。

 

 まだ空は白み始めたばかりで、部屋の中もどこかぼんやりとした明るさに包まれている。

 

 静まり返った家の中で――

 

 トイレのドアが、かちゃりと開いた。

 

「……ふぁ……」

 

 パジャマ姿の赤羽葉子が、眠そうに目をこすりながら出てくる。

 

 髪は寝癖で少し跳ねていて、完全に“オフ”の状態。

 

 そのまま、なんとなくスマホを手に取る。

 

 特に目的もなく。

 

 指が、惰性で画面をスライドする。

 

「……ん」

 

 銀行アプリ。

 

 開く。

 

 残高画面。

 

 ぼんやりとした目で、数字を眺める。

 

「……?」

 

 一瞬、指が止まる。

 

 視線が、固定される。

 

「……あれ?」

 

 まばたき。

 

 もう一度、見る。

 

 数字。

 

 桁。

 

 入金履歴。

 

「……え」

 

 二度見。

 

 がっつり二度見。

 

「……え???」

 

 さっきより、はっきりした声。

 

 約20万。

 

 しっかり、入っている。

 

「……え、なにこれ……」

 

 一瞬だけ、脳が止まる。

 

 不正利用?

 間違い?

 誰かのミス?

 

 ぐるぐると考えが回りかけて――

 

「あ」

 

 履歴をタップ。

 

 表示される振込元。

 

「……あ、バイト先か」

 

 一気に理解。

 

 数秒前までの警戒が、すっと消える。

 

 そして――

 

「……」

 

 じわじわと。

 

 別の感情が、湧き上がってくる。

 

「……え、やば」

 

 口元が、にやける。

 

「やばいやばいやばい」

 

 目が、完全に覚める。

 

 さっきまでの眠気はどこかへ消えた。

 

「こんな入るんだ……え、すご……」

 

 指が止まらない。

 

 そのまま、通販アプリを開く。

 

 服。

 

 コスメ。

 

 雑貨。

 

 スクロール。

 

 カート。

 

 お気に入り。

 

「これもいいな……あ、これも……」

 

 完全にテンションが上がっている。

 

 ベッドに戻ることも忘れて、廊下でそのまま座り込む。

 

 画面の光が、顔を照らす。

 

「……」

 

 ふと、時計を見る。

 

 時間。

 

 登校まで、まだ余裕はある。

 

 だが。

 

「……」

 

 数秒、考える。

 

 そして。にやり、と笑う。

 

「今日学校サボろっかな…」

 

 ウキウキした声。

 

 完全に、決まっている顔だった。

 

 昼休み。

 

 教室の空気は、どこかぬるい。

 

 ざわざわとした声、椅子の引きずる音、笑い声。

 窓の外からは、グラウンドで遊ぶ男子生徒たちの声が遠くに響いてくる。

 

 その中で――

 

 赤羽葉子は、机に突っ伏していた。

 

「……だる……」

 

 小さく、くぐもった声。

 

 パジャマではないものの、気の抜けた雰囲気はそのまま。

 腕を枕代わりにして、完全にやる気がない。

 

(来なきゃよかった……)

 

 ぼんやりとした思考。

 

 朝のテンションは、もうどこにもない。

 

 スマホで通販を見ていたあの高揚感は、

 授業という現実に叩き潰されていた。

 

 外から、声。

 

「おいパス回せって!」

「うわ外した〜!」

 

 楽しそうな笑い声。

 

 廊下からも、別のグループの会話が聞こえる。

 

「次の時間移動だっけ?」

「いやまだだろ〜」

 

 日常。

 

 当たり前の、騒がしさ。

 

「……」

 

 赤羽は、目を閉じたままそれを聞いていた。

 

 数秒。

 

 十数秒。

 

 ぼんやりと。

 

 ただ音だけが流れていく。

 

 やがて。

 

「……」

 

 ゆっくりと、顔を上げる。

 

 少しだけ眠気が残った目。

 

「……なんか買ってくるか…」

 

 独り言。

 

 椅子を引く。

 

 立ち上がる。

 

 周りの生徒は、特に気にしない。

 

 そのまま、教室を出る。

 

 廊下。

 

 さっきまで聞こえていた声が、少し近くなる。

 

 すれ違う生徒。

 笑いながら走るやつ。

 スマホを見ながら歩くやつ。

 

 赤羽は、その中を淡々と歩く。

 

 特に誰とも目を合わせない。

 

 階段へ。

 

 一段ずつ、降りる。

 

 下へ。

 

 さらに下へ。

 

 地下。

 

 空気が少しひんやりしている。

 

 人気も、上よりは少ない。

 

 廊下の奥。

 

 目的の場所。

 

 自販機が、並んでいる。

 

 明るい光。規則的な機械音。

 

「……」

 

 赤羽は、その前に立つ。どれにするか、なんとなく眺める。

 

 自販機の前。

 

「……これでいいか」

 

 ぽち、とボタンを押す。

 

 ごとん。

 

 落ちてくる缶。

 

 赤羽はそれを取り出す。

 

「……あったか」

 

 指先に、じんわりと熱が伝わる。

 

 トマトジュース。

 

 いつもの、大好きな味。今の気分にもちょうどいい。

 

 そのまま、人気のない購買の前を通り抜ける。

 

 シャッターは半分降りていて、人の気配はない。

 

 静か。

 

 さっきまでのざわつきが、嘘みたいに消えている。

 

「……」

 

 赤羽はそのまま、教室へ戻ろうと歩き出す。

 

 その時。

 

 とん、と。

 

 背中を、軽く突かれた。

 

「……?」

 

 足が止まる。

 

 ゆっくりと振り返る。

 

 そこに――

 

 少女が立っていた。

 

 制服のシャツに、スカート。

 

 見慣れたはずの、同級生の姿。

 

 だが。

 

「……りりむ?」

 

 赤羽が、名前を呼ぶ。

 

 その声音は、どこか確かめるような響き。

 

 少女――りりむは、何も言わない。

 

 ただ、じっと赤羽を見る。

 

 そして。すっと、指を伸ばす。

 

 外を指す。

 

「……」

 

 拒む様子はない。そのまま、りりむの後を追う。

 

 二人で、歩き出す。

 

 地下の廊下。足音だけが響く。

 

 やがて。

 

 ガラス扉の向こう。

 

 地下にある、小さな中庭。

 

 コンクリートに囲まれた空間に、わずかな空が見える。

 

 人はいない。静まり返っている。

 

 扉を開ける。

 

 外の空気が、少しだけ流れ込む。二人は、その中へ出た。

 

 地下の中庭。

 

 コンクリートに囲まれた小さな空間に、

 上から落ちてくる光だけが、淡く地面を照らしている。

 

 人の気配は、ない。

 

「……」

 

 りりむは、しばらく何も言わなかった。

 

 ただ、どこか遠くを見るように視線を落としている。

 

 赤羽は、缶を持ったまま、隣に立つ。

 

 急かさない。

 

 ただ、待つ。

 

 やがて。

 

「私…」

 

 ぽつり、と。

 

 りりむが口を開いた。

 

「子供の頃はずっと、教会の中で暮らしてたんだ」

 

 静かな声。

 

 どこか、昔話をするような響き。

 

「白い髪、だったからさ」

 

 自分の髪を、指でつまむ。

 

 今も変わらない、その色。

 

「“悪魔の子供”って、言われてた」

 

 少しだけ笑う。

 

 自嘲に近い。

 

「リリムって名前も……それっぽいでしょ?」

 

 軽く肩をすくめる。

 

「だから、親にも捨てられて」

 

 言い方は軽い。

 

 だが、内容は重い。

 

「教会の人たちに拾われたの」

 

 赤羽は、何も言わない。

 

 ただ、聞いている。

 

「神父さんと、修道女の先生たちと一緒に暮らしてた」

 

 りりむの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

 

「“リリムは人類の祖先って説もあるから、呪われた名前なんかじゃないよ”って」

 

 その言葉を思い出すように。

 

「よく、そうやって元気づけてくれてた」

 

 空を見上げる。

 

 小さく切り取られた、四角い空。

 

「まあ……色々厳しかったけどね」

 

 苦笑。

 

「でも、それなりに……幸せだったよ」

 

 一瞬の、間。

 

 そして。

 

 その空気が、少しだけ変わる。

 

「……でもさ」

 

 声が、少し低くなる。

 

「ある日」

 

 指先が、ぎゅっと握られる。

 

「街の人たちが来て」

 

「私のこと、気に入らなかったんだと思う」

 

 簡単に言う。

 

「見た目とか、名前とか」

 

 視線が、下に落ちる。

 

「……襲われた」

 

 短く。

 

「教会も、燃やされて」

 

 赤羽の持つ缶から、わずかに湯気が立つ。

 

 その温度とは対照的に、空気は冷えていく。

 

「神父さんも……焼けて、死んだ」

 

 言葉に、感情はあまり乗っていない。

 

 だからこそ、重い。

 

「私も……そのまま、死ぬはずだった」

 

 沈黙。

 

 風が、わずかに吹く。

 

「でも」

 

 りりむの目が、わずかに揺れる。

 

「来たんだよね」

 

「青い翼の……変なやつ」

 

 少しだけ、眉をひそめる。

 

「魔獣、って言えばいいのかな」

 

 その存在を思い出すように。

 

「……祈ったの」

 

 小さく。

 

「助けてって」

 

 その時の自分をなぞるように。

 

「そしたら、生きてた」

 

 シンプルな結論。

 

 だが――

 

「……」

 

 りりむは、少しだけ笑う。

 

「まるでさ、聖書の悪魔の契約みたいでしょ」

 

 軽く言う。

 

 だが、その裏にあるものは軽くない。

 

「だから、そのことは……先生たちには言ってない」

 

 視線を逸らす。

 

「言えなかった、かな」

 

 そして。

 

 少しだけ、息を吐く。

 

「そのあと、みんなで別の場所に行って」

 

「“シヴィルト”っていう施設」

 

 名前を口にする。

 

「そこで、育った」

 

「……ばねきも…同じだと思ってた」

 

 声が、震えている。

 

 涙が、ぽたりと落ちる。

 

「化け物と契約して…それで、生き返ったって…」

 

 ぽつり、ぽつりと。

 

 言葉が零れる。

 

「ばねきのバイト先、通った時に話してたから…」

 

 赤羽は、黙って聞いている。

 

 動かない。

 

「やっぱり…友達としてもっと仲良くなりたいって…」

 

 小さく。

 

 か細い声。

 

 だが――

 

 次の瞬間。

 

 顔が、上がる。

 

 目が、大きく見開かれる。

 

「でも違ったんだ!」

 

 声が、跳ね上がる。

 

「ばねきは人間じゃなくて、蒼翼と同じで悪魔だったんだ!」

 

 一歩、踏み込む。

 

「友達だと思ってたのに!!」

 

 叫び。

 

 その言葉は、空間に鋭く突き刺さる。

 

「はぁぁぁ!?」

 

 赤羽の表情が、一気に変わる。

 

 眉が吊り上がる。

 

「わけわかんないんですけど!」

 

 即座に、言い返す。

 

 声も、強い。

 

「私だって、好きでこんなことになってるわけじゃないんですけど!」

 

 一歩、詰める。

 

 距離が、一気に縮まる。

 

「なんで勝手に期待されて、それが違ったからって勝手に恨まれなきゃいけないわけ!?」

 

 そのまま――

 

 がしっ!

 

 りりむの両肩を、荒っぽく掴む。

 

「りりむって、いっつもそうやって人のこと決めつけて突っかかるの本当にやめた方がいいと思うよ!」

 

「……っ!」

 

 りりむの目が、揺れる。

 

 すぐに、強くなる。

 

 ぐいっ、と。

 

 今度は――赤羽の胸ぐらを掴み返す。

 

「ばねきだって!」

 

 引き寄せる。

 

「そうやって、いつも自分が被害者面して『知らない』『分からない』って言う!」

 

 声が、震えている。怒りと、悔しさで。

 

「授業中のスマホ鳴った時のあれ、マジ忘れてないかんね!」

 

 

 

 昼下がりの廊下。

 

 職員室の前は、妙に静かだった。

 

 だが――

 

 がちゃり、と扉が開く。

 

 最初に出てきたのは、りりむだった。

 

 制服は乱れ、髪も少し崩れている。

 頬にはうっすらと赤みが残り、どこか煤けたような跡もある。

 

「ふんっ」

 

 吐き捨てるように一言。

 

 誰とも目を合わせず、そのまま廊下をずかずかと歩いていく。

 

 機嫌の悪さを隠す気もない。

 

 その背中を見送る間もなく――

 

 次に、赤羽が出てくる。

 

 同じく、ボロボロ。

 

 袖は少し破れ、髪も乱れている。

 頬や腕には細かい擦り傷が残っていた。

 

「……ふんっ」

 

 そっぽを向くように。

 

 りりむとは反対方向へ、歩き出す。

 

 足音だけが、やけに強く響く。

 

 二人とも、振り返らない。

 

 完全に、決裂した空気。

 

 その一部始終を――

 

 少し離れた物陰から、女子生徒たちが見ていた。

 

「……え」

 

 ひそひそと、小さな声。

 

「喧嘩…!?」

 

 目を見開く。

 

「嘘…赤羽さんと稲羽さんが!?」

 

 信じられない、という顔で互いを見る。ざわざわと、ざわめきが広がる。

 

 だが当の本人たちは、そんなこと気にも留めない。

 

 ただ、それぞれの方向へ。苛立ちを引きずったまま、歩いていった。

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