事務所の中。夕方。
照明の白い光だけが、静かに部屋を照らしていた。
ソファには、赤羽葉子が座っている。
制服のまま。
だが、どこか疲れ切ったように身体を沈めていた。
「……」
笹木咲は、その向かいで腕を組む。
赤羽の乱れた髪。
擦り傷。
不機嫌そうな顔。
見れば分かる。
「なんやお前」
呆れたように。
「喧嘩したんか」
軽い調子で聞く。
だが。
赤羽は答えない。
黙ったまま、視線を落としている。
「……」
笹木は、ふうと息を吐く。
そして、わざと気の抜けた声で続けた。
「ボーナス振り込んでやったやろ」
ちらっと赤羽を見る。
「それで遊んで忘れてくればええて」
適当な慰め。
だが、その声色は柔らかい。
笹木はそのまま、赤羽の隣へ移動すると――
ぽす、と。
肩を組むように腕をかけた。
「そんな風にしてたら、せっかくの少しの幸せも逃げてまうで」
笑いながら。
いつもの調子で。
だが。
赤羽は、ゆっくりと顔を上げる。
その目は、暗かった。
「……前言いましたよね」
低い声。
「笹木さんなんて、虫みたいなものだって…」
視線が、笹木を捉える。
その瞬間。
空気が、重くなる。
赤羽の瞳の奥。
瘴気のような、濁った気配。
見ているだけで、本能が警鐘を鳴らすような眼。
普通の人間なら、目を逸らす。
あるいは、身体が竦む。
だが――
「アホ」
ぱしっ、と。
笹木は普通に赤羽の肩を叩いた。
「そんなん効かんて」
流す。
本当に、流す。
怖がる素振りすらない。
「……」
赤羽の目が、わずかに揺れる。
笹木は、そのまま肩を組み直す。
少しだけ、真面目な声になる。
「何があったんか話せや」
諭すように。
無理やりではなく。
ただ、“聞く気でいる”声だった。
事務所の外。
夕焼けが、街を赤く染めていた。
空の色は、まるで燃え残った火のように濃く、長く伸びた影がアスファルトを覆っている。
笹木と赤羽は、並んで外へ出る。
その瞬間。
「……」
前方。
通りの真ん中に――少女が立っていた。
セーラー服姿。
白い髪。
りりむ。
夕焼けの中で、その姿だけが妙に浮いて見える。
「……笹木さん、だっけ」
りりむが、先に口を開く。
声音は軽い。
だが、どこか棘がある。
「ちょっと卑怯じゃない?」
苦笑い。
焦げた袖先を、ぱたぱたと振る。
焼け跡。
ついさっきまで戦っていたことを思わせる痕。
「椎名家の娘仕向けたり、あんな奴と戦わせたりさ…」
笑ってはいる。
だが、額には冷や汗。
完全な余裕ではない。
笹木は、それを見て。
「……お前やな…」
一歩、前へ出る。
空気が、少しだけ張る。
だが――
その横。
赤羽が、静かに前へ出た。
すっと、人差し指と中指を立てる。
そして。
横に――
“引き裂く”ように腕を振った。
瞬間。
ズガァンッ!!
りりむの目の前。
道路が、深く抉れる。
アスファルトが裂け、破片が跳ね上がる。
まるで巨大な爪で切り裂かれたような傷跡。
「……」
りりむの目が、一瞬だけ揺れる。
赤羽は、そのまま睨みつける。
「りりむもだよ」
低い声。
「私が本気出したら、りりむ瞬殺だからね」
淡々としている。
だからこそ、怖い。
「……」
りりむは、数秒黙ったあと。
口元を歪めた。
喧嘩腰。
「…知ってるよ」
吐き捨てるように。
「だってばねき、悪魔だもんね!」
「まだ言うか!」
赤羽が即座に怒鳴り返す。
空気が、一気に険悪になる。
また始まる。
そう思った、その時。
「やめや」
笹木が、間に入った。
ぴしゃり、と。
低い声。
二人の間に立つ。
張り詰めた空気の中。
「……はぁ」
笹木が、小さく息を吐いた。
そして。
羽織っていたパーカーを、ばさっと脱ぐ。
露わになるのは、フリルのついた黒のノースリーブ。
細い肩と腕。
だが、その立ち姿には妙な迫力があった。
「高坊の喧嘩に首突っ込むのも変な話やけどな…」
ぼやきながら、ポケットへ手を入れる。
取り出したのは――呪符。
黒と白の札が、指の間で揺れる。
そのまま、りりむの前へ出る。
「お望み通り」
口元を少しだけ吊り上げる。
「ウチが相手したる」
「……」
りりむは、その姿を見て首を傾げた。
本当に、不思議そうに。
「魔法使いでもない、普通の人間に何ができるの?」
言いながら。
片手を上げる。
ぼっ、と。
紫色の火球が、手のひらに灯る。
不吉な色。
周囲の空気が、じわりと熱を帯びる。
そして――
何気ない動作で。
放る。
シュッ!!
火球が一直線に飛ぶ。
だが。
「っと」
笹木は、ひらりと身を捻る。
紙一重。
火球が横を掠め、背後で爆ぜる。
ドンッ!!
熱風。
アスファルトが焼け焦げる。
その瞬間には、もう。
笹木は地を蹴っていた。
「……っ!」
一気に加速。
跳ぶ。
身体が宙を舞う。
「な――」
りりむの目が見開かれる。
その目の前。
笹木の指先から、黒い呪符が放たれる。
ひらり、と舞うそれは――
ただの紙ではない。
「っ!?」
空気が、乱れる。
りりむの周囲を流れていた流れが、一瞬だけ“詰まる”。流れが阻害される。
違和感。
そして、笹木の狙いはその先。りりむの身に着けている――携帯魔法陣。
「うわっ!危な!」
りりむは、とっさに後ろへ飛ぶ。
「……何それ」
警戒。
さっきまでとは違う。笹木は、にやっと笑う。
「昔、森中に教えてもらったで!」
「それ壊したら、長い時間かけて床に魔法陣書かなあかんのやろ!」
その間にも夕焼けの下で、空気はさらに張り詰めていく。
りりむは、後ろへ跳びながら距離を取る。
靴底がアスファルトを擦る。
「……っ」
目の前では、笹木が止まらない。
呪符を指に挟んだまま、一直線に迫ってくる。
りりむは舌打ちを飲み込んだ。
(自分の傷口だと威力こんなもんか…)
ちらり、と自分の腕を見る。
先ほど、外人の少女に撃たれた魔弾の傷。
そこから得た血では、やはり出力が足りない。
(やっぱ池の水とか汲んできた方が良かったかな…)
内心でぼやく。
だが、顔には出さない。
「……で?」
わざと余裕そうに首を傾げる。
「それがどうかしたの?」
挑発。
だが。
笹木は止まらない。
「自分がどうとか、人がどうとか関係ないやろ!」
再び地を蹴る。
一気に距離を詰める。
「っ!」
りりむはさらに後退。
その目は、笹木だけを見ていない。
(なんかあんだろ…)
視線を走らせる。
周囲。
建物。
道路。
“生きているもの”の気配を探る。だが、笹木はそんなことお構いなしに踏み込んでくる。
黒い呪符が翻る。
狙いは、やはり携帯魔法陣。
「ただの人間にだってな!」
笹木の声が響く。
「できることはたくさんあるんや!」
呪符が、空を裂く。
りりむが身をひねる。
紙一重で避ける。
「魔法使い、超能力者!ばねさんは……良く分からんけどな!」
「自分なんか虫みたいに思える奴なんて大勢会ってきた!」
それは、赤羽が笹木に呟いた本音の一言を得ての発言でもあった。
また一歩。また一歩。
りりむを押し込むように。
「でも、みんなそんなに変わらへんのや!」
その言葉はりりむへ向けているようで、どこか、自分自身へも向けているようだった。
そして――目前まで迫る。
真正面。逃げ場を削るように。
「お前はどうなんや!」
問いかけ。真っ直ぐ。
りりむの目を見据えて。
その時。
ぷすっ。
「……あ?」
りりむは、後ろへ下がりながら辺りを見回していた。
視線が、細かく動く。
道路脇。
排水溝。
街灯。
フェンス。
(なんかあんだろ…)
腕に、違和感。
見る。
小さな蚊。
血を吸っている。
「……」
りりむの目が、開く。
(見っけ!)
瞬間。
ぱちんっ!!
蚊を叩き潰す。
掌に、わずかな血。
それを――消す。
次の瞬間。
ドンッ!!
りりむの身体が、一気に加速した。
「っ!?」
笹木の目が見開かれる。
避ける暇はない。
そのまま、真正面から――
体当たり。
「がっ!?」
鈍い音。
笹木の身体が吹き飛ぶ。
地面を滑り、そのままフェンスへ叩きつけられる。
ガシャンッ!!
金網が大きく軋む。
りりむは、息を荒げながら叫ぶ。
「私は悪魔に身を売って生きてきた!」
夕焼けの中、声が響く。
「許されないことをして生きてきた!」
拳を握る。
「お前と私は違う!」
その叫びは、怒鳴り声というより。
どこか――自分へ言い聞かせるようでもあった。
だが。
「……」
フェンスにぶつかった笹木は。
倒れない。
「……っ!」
金網の弾力を使うように、足をかける。
そのまま。
走る。
フェンスの上を蹴って、一気に加速。
「な――」
りりむが反応するより先に。
笹木の手から、何かが放られた。
緑色に輝く、小さな石。
「……?」
次の瞬間。
パァァァンッ!!!
閃光。
凄まじい白光が、辺り一面を包み込む。
「っぁ!?」
りりむが反射的に目を閉じる。
視界が、真っ白になる。
数秒。
何も見えない。
耳鳴り。
残光。
ようやく光が薄れた頃には――
「……っ」
りりむは顔をしかめていた。
「魔具なんて持ってんのか!」
嫌そうな顔。
本気で嫌そう。
「誰だよお前…!」
笹木は、少し離れた場所に立っていた。
肩で息をしながらも、表情は崩さない。
「……それ」
静かに言う。
「本当に身を売ったって確証あるんか?」
りりむの目が揺れる。
笹木は続ける。
「お前がたまたま助かったかもしれんやろ」
淡々と。
真っ直ぐに。
「……」
りりむは、言葉を失う。
夕焼けの光が、三人を赤く照らしていた。