最終章 第一話:異変
深い森の中。
陽の光は、ほとんど届いていなかった。
何十年、あるいは何百年とそこに根を張っているような巨木が空を覆い、枝葉が幾重にも重なっている。
湿った土。
腐りかけた落ち葉。
苔に覆われた石。
人の手が入らなくなって久しい森の奥には、
風が吹くたび、木々の軋む音だけが低く響いていた。
その中に――
不自然なほど真っ直ぐな線路が伸びている。
錆びついた二本のレール。
枕木はところどころ朽ち、
隙間から雑草が伸びていた。
かつて、ここを列車が走っていたのだろう。
だが今では、
線路そのものが森に呑み込まれようとしている。
その先。
木々の隙間に、
小さな駅舎があった。
屋根は一部が崩れ、
壁板は雨風に晒されて黒ずんでいる。
駅名を記していたらしい看板も、
文字が掠れてほとんど読めない。
ホームの端には錆びた時計。
針は止まっている。
待合室の窓ガラスは割れ、
改札だった場所には蔦が絡みついていた。
誰も来ない。
もう列車も来ない。
そんな廃れた駅の前に――
一人の女が立っていた。
鈴原るる。
「……」
何も言わない。
ただ静かに、
そこに立っている。
衣服も。
髪も。
頬も。
白かった肌さえ。
いたるところが――返り血に濡れていた。
まだ乾ききっていない赤黒い雫が、
頬から顎へ伝う。
ぽたり。
地面へ落ちる。
だが鈴原は、それを拭おうともしない。
呼吸ひとつ乱れていない。
まるで少し散歩でもしてきたかのような、
穏やかな表情。
その片腕だけが、
ゆっくりと持ち上げられる。
握られているものを見る。
黒い。
最初は、
焦げた木の枝のようにも見える。
だが違う。
それは――
腕だった。
人間のものではない。
太い。
鈴原の腕など簡単に包み込めそうなほど巨大で、
黒い毛のようなものに覆われている。
先端には、
獣のものと思しき鉤爪。
根元は不自然なところで途切れていた。
その断面から、
粘ついた黒い液体が垂れている。
ぽた。
ぽた。
鈴原はそれを、
不思議そうに眺めていた。
「……」
首を、ほんの少し傾ける。
そして。
背後へ視線を向けた。
そこに――
何かがいる。
森の奥。
木々の間。
巨大な影。
獣。
あまりにも大きい。
四肢を折り畳むようにして、
地面にうずくまっている。
周囲の木々が何本も折れ、
その巨体に押し潰された草木が地面へ伏していた。
先ほどまで暴れていたのだろう。
地面には深い爪痕が刻まれ、
土が大きく抉れている。
だが今は――
動かない。
ただ。
微かに。
巨体が上下している。
まだ、生きている。
「……」
鈴原は、
それを一瞥した。
恐怖も。
嫌悪も。
警戒もない。
むしろ――
少しだけ。
嬉しそうだった。
再び、
手に持った黒い腕を見る。
指先に力を込める。
ぐしゃ、と。
黒い毛が掌の中で潰れる。
その瞬間。
鈴原の瞳が――
暗い森の中で、
鮮やかに輝いた。
緑。
そして――黄色。
二つの異なる色。
オッドアイ。
その瞳を細め、
鈴原はほんの少しだけ口元を緩めた。
「これでもっと楽しくなれるね」
――夢を見ていた。
それが夢なのだと、
りりむ自身が理解しているのかどうかは分からない。
ぼんやりとした意識の中。
何かがいる。
目の前に。
すぐ近くに。
けれど、その輪郭だけが妙に曖昧で、
どうしてもはっきりとは見えない。
怖い――という感じではなかった。
むしろ。
それを見た瞬間、
りりむの中に最初に浮かんだ感想は、
もっと別のものだった。
「……いや……」
現実。
静かな寝室。
ベッドの上で眠るりりむの唇が、
かすかに動く。
「その姿はちょっと可愛すぎでしょ…」
困惑したような寝言。
眉間には微妙に皺が寄っている。
まるで夢の中で、
想像していたものとはまるで違う何かを見せられたように。
その寝室には、
年頃の少女の部屋には似つかわしくないものがいくつも置かれていた。
聖書。
十字架。
壁際には小さな祭壇。
蝋燭はすでに消えている。
その傍らには、
祈りに使うための品々が丁寧に並べられていた。
窓には厚いカーテンが掛けられ、
夜の名残を閉じ込めている。
静かだった。
時計の針が進む音だけが、
かち。
かち。
と、一定の間隔で部屋に響いている。
りりむは眠り続けていた。
時折、
何かに答えるように小さく口を動かす。
夢の中では、
まだ“それ”がいる。
何かを話している。
何かを伝えている。
りりむはそれを聞いている。
最初こそ困惑していた表情が、
次第に真剣なものへと変わっていく。
「……ん……」
小さく身じろぎする。
やがて――
窓の向こうが白み始めた。
夜が終わる。
カーテンの僅かな隙間から、
一本の細い光が差し込んだ。
朝日。
光は床を這い、
ゆっくりと伸びていく。
祭壇を照らす。
十字架を照らす。
開かれたまま置かれていた聖書のページを照らし――
やがて。
ベッドへ届いた。
りりむの頬を、
柔らかな朝日が照らす。
「……」
それでも、
まだ起きない。
夢の中。
何かを見ている。
何かを――知ろうとしている。
そして。
りりむの唇が、
もう一度動いた。
「それって……」
その瞬間だった。
「――っ」
身体が強く跳ねた。
喉が塞がる。
突然、
空気が吸えなくなった。
「っ……! ……っ!」
胸元を掴む。
息を吸おうとしても、
肺に空気が入ってこない。
夢と現実の境界が一瞬で崩れ、
りりむの意識が無理やり引き上げられる。
「っ、は……!」
目を見開いた。
天井。
見慣れた自分の部屋。
けれど、
呼吸ができない。
「はっ……は……っ……!」
浅い。
速い。
胸の奥を何かに締め上げられているような、
強烈な息苦しさ。
それに続いて――
「うっ……!」
胃の底が、
一気にひっくり返った。
りりむは反射的に口元を押さえ、
身体を横へ向ける。
「っ……うぇ……」
吐き気。
全身から血の気が引いていく。
心臓だけが異様に速い。
どくん。
どくん。
どくん。
額から汗が滲み、
こめかみを伝っていく。
しばらくして、
「はぁ……っ……はぁ……」
ほんの少しだけ、まともに空気が入った。
りりむはベッドの上で身体を起こす。
胸を押さえたまま、
荒い呼吸を繰り返す。
朝日はもう、
部屋を明るく照らしていた。
何も変わっていない。
いつもの朝。
いつもの部屋。
なのに。
夢の中で見たものだけが――
妙に鮮明に、
頭の奥へ焼き付いている。
「……」
りりむは冷や汗を垂らしたまま、
呆然と前を見つめる。
そして。
「マジか…」
掠れた声で、そう呟いた。
昼下がり。
高校の教室には、教師が黒板にチョークを走らせる音が淡々と響いていた。
「――したがって、ここで重要になるのが……」
窓から差し込む陽射しは暖かい。
昼食を終えた直後ということもあり、教室全体にどことなく気の抜けた空気が漂っている。
ノートを取っている生徒。
頬杖をついて黒板を眺める生徒。
教科書の陰にスマートフォンを隠している生徒。
そんな中――
赤羽葉子は。
「……」
寝ていた。
いや。
正確には――
寝かけていた。
頬杖をつき、半分閉じた瞼がゆっくりと落ちていく。
こくっ。
頭が沈む。
また戻る。
こくっ。
もう一度沈む。
口元はわずかに開いていて――
つぅ……。
涎が一筋。
今にも机へ垂れそうになっていた。
完全に授業を聞いていない。
だが、その一方で。
ぼんやりと眠りへ沈みかけた赤羽の頭の中では、
授業とはまるで関係のない思考が巡っていた。
(りりむって……本当にあの蒼翼に助けられたのかな)
ぼんやり。
霞がかかったような意識。
それでも、その存在についての記憶だけは妙に鮮明だった。
(あいつは確か……)
赤羽の頭が、また少し傾く。
(人の思念を食らって……)
(それと引き換えに、自分の力の一部を対象者に嵌め込む力を持っている存在)
教師の声が遠い。
黒板を叩くチョークの音も、
周囲の生徒がノートを捲る音も。
まるで水の底から聞いているように曖昧だった。
(神々の時代……)
赤羽の瞼が完全に閉じかける。
(八岐大蛇に仲間を食い殺され……)
(絶滅したはずの怪異……)
こくん。
今度は大きく頭が落ちた。
それでも辛うじて頬杖で支える。
(本人に特別な欲や感情は……)
(あまりないはず……)
そして。
頬杖をついていた肘が――
ずるっ。
「……っ!?」
外れた。
身体が後ろへ傾く。
椅子の前脚が浮いた。
「わっ――」
ガタンッ!!
大きな音が教室に響いた。
赤羽の身体が、そのまま後ろへひっくり返りかける。
「っ、あぶな……!」
咄嗟に机の端を掴む。
椅子が激しく揺れ――
ガタン!
どうにか四本の脚が床へ戻った。
「……」
赤羽は固まる。
教室も。
一瞬だけ、
しん、と静まり返った。
何人かの生徒が振り返っている。
赤羽は何事もなかったかのように、
すっと背筋を伸ばした。
ついでに。
口元の涎を、
制服の袖でこっそり拭う。
「……赤羽」
教師の声。
「はい」
妙に素早い返事だった。
教師はチョークを持ったまま、
呆れたように赤羽を見る。
「随分と余裕そうだな」
「……」
「ちょうどいい。今説明していたところ、答えてみろ」
「……」
赤羽は黒板を見る。
数式。
文字。
矢印。
何の話をしていたのか、
本当に一文字も頭に入っていない。
「……いや…知りません」
教室の何人かが吹き出した。
教師の眉間に皺が寄る。
「知らないじゃない。今説明しただろ」
「何もわからないですけど…」
悪びれた様子すらなく、
赤羽は適当に答える。
「お前なぁ……」
教師が額を押さえる。
赤羽はとりあえず教科書へ視線を落とし、
授業を聞いているふりを始めた。
だが。
そんな赤羽を――
少し離れた席から見ている者がいた。
りりむ。
「……」
教科書を開いたまま、
横目で赤羽を見つめている。
その表情は明らかに嫌そうだった。
呆れている。
というより――
少し苛立っている。
(またそうやって…)
りりむは目を細める。
赤羽は教師に注意されながらも、
どこか他人事のような顔をしていた。
何も知らない。
何も分からない。
そんな顔で。
りりむは何も言わず、
ただ嫌そうな表情のまま赤羽を見つめていた。
終業を告げるチャイムが鳴ってから、しばらく経った。
昼間の騒がしさが嘘のように、教室は静かになっている。
部活へ向かった者。
友人と遊びに行った者。
さっさと帰宅した者。
残っている生徒は、もう数えるほどしかいなかった。
「んー……」
赤羽葉子は自分の席で大きく伸びをすると、ゆっくり教室を見渡した。
窓から差し込む陽射しは、昼間よりもずっと低い。
机と椅子の長い影が床を横切っている。
なんだかんだ。
色々あった。
――本当に、色々。
バイトを始めた頃には想像もしなかったことばかりだった。
戦う子供たちの事。
閏時の事。
魔法使いの事。
そして――何より自分の事。
普通のアルバイトという言葉からは、随分と遠いところまで来てしまった気がする。
けれど。
(まあ……)
赤羽は鞄を持ち上げた。
(なんだかんだ、やりがいはあるんだよなぁ)
そう思う。
笹木や椎名に振り回されることもある。
妙な事件に首を突っ込む羽目にもなる。
それでも――
特別、嫌なことがあるわけではない。
むしろ。
自分にしかできないことがある。
必要とされることがある。
知らなかったものを知ることができる。
そういう意味では、
今の仕事を結構気に入っていた。
「……よいしょ」
ぐるっ。
肩を回す。
少し凝っている。
「今日も夕方から行かないとな……」
ふぅ、と息を吐いた。
そのまま鞄を肩に掛け、
教室の出口へ向かおうとして――
「……ん?」
足が止まった。
教室の端。
窓際から少し離れた席。
そこにまだ一人、
残っている生徒がいた。
稲羽りりむ。
机に突っ伏している。
腕を枕代わりにして、
顔を完全に伏せていた。
「……」
赤羽は少しだけ眉を上げる。
寝ている。
どう見ても寝ている。
ついさっきまで自分も授業中に寝かけていた以上、
人のことを言える立場ではないのだが。
「まだ帰んないのか……」
ぽつりと呟く。
放っておいてもいい。
そのうち起きるだろうし、
もう授業も終わっている。
何より――
「……」
赤羽の表情が少し曇る。
この間のことを思い出した。
喧嘩。
互いに言葉をぶつけて。
気まずい空気になって。
まだ全部が綺麗に片付いたわけではない。
「……うーん」
赤羽は顔をしかめる。
できれば、
今はあまり面倒なことにはしたくない。
けれど。
あんなことをしても友達だ。
夕方の教室に一人だけ残していくのも、なんとなく後味が悪かった。
「……しょうがないなぁ」
小さく息を吐く。
踵を返した。
りりむの席へ近づいていく。
反応はない。
「おーい」
赤羽が声をかける。
「もう授業終わったぞ」
返事はない。
「……りりむ?」
もう一度、それでも動かない。
赤羽は少し眉を寄せた。
「寝すぎじゃない?」
机の横まで来る。
軽く肩へ手を伸ばした。
「ほら、起き――」
触れた瞬間。
「……?」
赤羽の手が止まった。
妙に――
熱い。
「……え」
赤羽の表情から、
さっきまでの気の抜けた雰囲気が消える。
「りりむ?」
今度は少し強く肩を揺する。
「おい、起きて」
「……ん……」
ようやく。
小さな声。
りりむの身体が、
億劫そうに動いた。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと、
机から顔を上げる。
「……」
赤羽は言葉を失った。
明らかにおかしい。
いつものりりむの顔ではない。
頬が赤い。
目は潤んでいて、
焦点もどこかぼんやりしている。
呼吸も少し荒い。
「……ちょっと」
赤羽は咄嗟に身を屈めた。
りりむの顔を覗き込む。
「あんた……」
手のひらを、
そっと額へ当てる。
そして。
「……熱っ」
思わず声が漏れた。
明らかに平熱ではない。
触れただけでも分かるほど、
額が熱を持っている。
赤羽は目を細めたまま、
もう一度りりむの顔を見る。
さっきまでの気まずさも。
この間の喧嘩も。
そんなものを考えていた表情は、もうどこにもなかった。