事務所の中には、いつもとは違う静けさが漂っていた。
窓から差し込む夕方の光。
その淡い橙色が、ソファに横たわるりりむの顔を照らしている。
「……ん……」
りりむは苦しそうに眉を寄せたまま、
浅い呼吸を繰り返していた。
額には冷却シート。
身体には事務所にあった薄手の毛布が掛けられている。
頬はまだ赤い。
熱も下がっていなかった。
そのソファの傍らに――
赤羽葉子が立っている。
そして。
「……何でここに連れてくるねん」
椎名唯華は、
心底理解できないという顔で赤羽を見ていた。
「普通、保健室とか病院とかあるやろ」
「……」
赤羽は答えない。
ただ。
ソファに横たわっているりりむを、
じっと見ている。
椎名はそんな赤羽の顔を見て――
「……」
少しだけ目を細めた。
いつもなら何か言い返す。
適当に笑って誤魔化す。
あるいは、
どうでもよさそうな顔をする。
だが今は違う。
妙に真剣だった。
「……はぁ」
椎名がため息を吐く。
近くの椅子を引き、
どかっと腰を下ろした。
「お前おかしいねんで」
「……」
「お前解ってるやろ」
赤羽の瞼が、
ほんの僅かに動いた。
椎名はそれを見逃さない。
「こいつがどうしてこうなってるか」
沈黙。
「こいつの身体に何が起きているか」
赤羽は何も言わない。
視線だけが、
りりむへ落ちる。
熱。
倦怠感。
浅い呼吸。
普通の風邪にも見える。
けれど。
そうではない。
少なくとも――
赤羽はそう思っている。
椎名は頬杖をついた。
そして。
少し間を置いてから、
最後の問いを投げる。
「……どうすれば治るか」
「……」
赤羽の指先が、
微かに動いた。
そのとき。
「……」
ソファの上で、
りりむの瞼が震えた。
ゆっくり。
ほんの少しだけ――
目が開く。
まだ熱に浮かされている。
視界もぼやけている。
けれど。
椎名の言葉は、
聞こえていた。
「……」
りりむは何も言わない。
ただ。
うっすらと開いた目で――
赤羽を見る。
その視線に気づき、
赤羽もりりむを見る。
「……」
「……」
目が合う。
けれど。
赤羽は口を開かなかった。
何も答えない。
否定もしない。
知らないとも言わない。
ただ――
黙っている。
その沈黙自体が、
何かを知っていると認めているようだった。
「……」
椎名は二人を交互に見る。
それから。
ふと――
視線を逸らした。
事務所の奥。
机。
その一番下にある引き出し。
「……」
椎名の目が、
そこで止まる。
引き出しには――
封がしてあった。
ただ鍵が掛かっているわけではない。
引き出しの隙間を塞ぐように、何枚もの札が貼られていた。
椎名はしばらく、その引き出しを見つめていた。
「……はぁ」
もう一度、
深く息を吐いた。
椎名は赤羽へ視線を戻す。
今度は茶化さない。
笑ってもいない。
「なあ」
赤羽が顔を上げる。
椎名は、封じられた引き出しへ一度だけ視線をやってから――
「どないすればええねん」
静かに聞いた。
沈黙が続いた。
夕暮れの光は先ほどよりも弱くなり、
事務所の中には少しずつ夜の色が入り込んでいる。
赤羽は、しばらく何も言わなかった。
椎名を見ることもなく。
封のされた引き出しを見ることもなく。
ただ――
ソファに横たわるりりむを見ていた。
「……蒼翼の魔法使いは、普通の魔法使いとは違うんです」
ようやく口を開いた。
声は静かだった。
普段の軽さはない。
椎名が黙って続きを待つ。
赤羽はりりむから目を離さないまま、続けた。
「膨大な魔力を蒼翼の力で維持しているから、どうしても蒼翼頼りになる」
「……蒼翼頼り?」
「はい」
赤羽は小さく頷いた。
「普通なら、自分の身体で扱える範囲の魔力を持って、それを使う。でも――」
一度、言葉を切る。
「蒼翼の魔法使いは違う」
ソファの上。
りりむの胸が、
浅い呼吸に合わせて上下している。
「蒼翼から与えられる力があることを前提にして、身体の中に膨大な魔力を抱えてるんです」
「……」
「だから――」
赤羽の目が僅かに細くなる。
「蒼翼の加護が無ければ、その魔力に食い尽くされてしまう」
椎名の眉が動いた。
「……なるほどなぁ」
小さく頷く。
視線をりりむへ移す。
「それであんなに強いんか」
どこか納得したような声音だった。
だが。
「りりむが魔法使いとして強いのも勿論ありますが…」
赤羽が付け加える。
「全部が蒼翼のおかげってわけじゃないです」
「……ふーん」
「ただ……」
赤羽はそこで、ほんの少し表情を曇らせた。
「蒼翼に何かあったのか、それは分かりませんが」
原因までは分からない。
蒼翼そのものに異変が起きているのか。
それとも、
りりむとの間に何かが起きたのか。
今の赤羽には判断できない。
分かるのは――
目の前で起きている結果だけ。
「このままでは肉体が持ちません」
「……」
椎名の顔から、
僅かに残っていた気の抜けた色が消えた。
ソファを見る。
りりむは目を閉じている。
苦しそうな呼吸。
赤く火照った頬。
額には汗が滲んでいる。
「……」
椎名はしばらく黙っていた。
やがて。
ちらり、と。
もう一度――
封のされた机の引き出しを見る。
だが。
今度はそこへ近づこうとはしなかった。
「……まだ答えてもらってないで」
赤羽が椎名を見る。
「……」
「どうすればええねん」
椎名は椅子から少しだけ身を乗り出した。
視線が赤羽を捉える。
「お前――」
椎名の目が細くなる。
「ここに運んできたってことは、何かできるんやろ」
赤羽は答えない。
「学校からわざわざ病院やのうて、ここに連れてきた」
「しかも、お前は最初からこいつが普通の病気やないって分かってた」
淡々と。
逃げ道を塞ぐように、
一つずつ事実を並べていく。
「やったら――」
椎名は、
もう一度だけ問いかけた。
「どないすればええねん」
「……」
赤羽は黙ったまま。
熱に浮かされるりりむを、静かに見つめていた。
赤羽はしばらく、りりむの苦しそうな寝顔を見つめていた。
やがて、意を決したように口を開く。
「……膨大な魔力を抑えるだけの別の力があれば、身体は決壊しません」
「別の力?」
椎名が聞き返す。
「はい」
赤羽は自分の手を見る。
指を軽く握り、
そこに宿っているものを確かめるように。
「魔力そのものを消す必要はないんです」
「今は、りりむ自身の身体だけで全部を支えようとしてるから、耐えられなくなってる」
「だったら――外から別の力を入れて、支えてあげればいい」
椎名は黙って聞いている。
「でも、私がやれば力が強すぎます」
赤羽は即座に答えた。
「……」
「細かく調整できるようなものじゃないんです、私のは」
赤羽はりりむを見る。
弱っている身体。
そこへ自分の力を流し込めば――
助けるどころか、
別の形で壊しかねない。
「だから」
赤羽は椎名へ向き直った。
「椎名さんがやってください」
「……うち?」
「はい」
赤羽は頷く。
「お札に霊力を込めるのと同じで、りりむにそれをやってください」
椎名の眉が僅かに寄る。
「人間に直接か?」
「そうです」
「……」
「それで、りりむの中にある魔力を押さえ込む」
「ただ……それだけじゃ駄目です」
「なんやねん」
「代わりに――」
一瞬。
赤羽が言い淀む。
「りりむの魔力を椎名さんが幾らか受けてください」
「……は?」
椎名の目が赤羽へ向いた。
「受けるって……うちの身体にか?」
「はい」
あまりにも簡単に返された肯定。
椎名は数秒、
何も言わなかった。
赤羽は説明を続ける。
「今のりりむは、器の中身が多すぎるんです」
「外から霊力で支えるだけじゃなくて、中にある魔力そのものを少し減らさないといけない」
「だから――」
「うちが引き受ける」
「……そうです」
事務所が静まり返る。
壁掛け時計の秒針だけが聞こえる。
椎名はソファを見る。
りりむは目を閉じたまま、
浅く息をしている。
「……」
赤羽は、
そんな椎名の横顔を見た。
そして。
少しだけ視線を逸らし――
「……理論上はそれで何とかなるはずです」
ぼそっ、と。
妙に小さな声で付け加えた。
「……理論上?」
「やったことはないし、普通の人間がそれをやって、無事でいられるかは分かりませんが…」
あまりにも重要なことを、
最後につけ足すような言い方だった。
椎名が赤羽を見る。
赤羽は僅かに気まずそうな顔をしていた。
「……」
数秒。
沈黙が落ちる――ことすらなかった。
「何すればええ?」「ほんなら早よ教えて」