こちら、都市伝説研究センターです。   作:えいどら

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最終章 第三話:言の葉

 それから――数時間後。

 

 外はすっかり夜になっていた。

 

 事務所の窓には街の明かりがぼんやりと映り込み、

 昼間まで差し込んでいた夕日は、もう跡形もない。

 

 がちゃ。

 

 入口の扉が開く。

 

「はぁぁ……疲れたぁ……」

 

 笹木咲が、重たい足取りで事務所へ入ってきた。

 

 肩から提げた鞄をずり落ちそうにさせながら、

 背中を丸めている。

 

「もう無理や……今日なんもしたない……」

 

 ぶつぶつと文句を言いながら、

 靴を引きずるように中へ入る。

 

 いつもなら。

 

 誰かしら返事をする。

 

 赤羽が妙に元気よく「お疲れ様です」と言ってくるか。

 

 椎名が適当な声で返事をするか。

 

 あるいは――

 

 誰もいなければ、

 静かな事務所が待っているだけ。

 

 だが今日は違った。

 

「……?」

 

 妙に静かだった。

 

 人はいる。

 

 気配もある。

 

 なのに、誰も喋らない。

 

「……なんや?」

 

 笹木が顔を上げる。

 

 そして――

 

 ソファを見る。

 

「……」

 

 まず目に入ったのは、

 横になっているりりむだった。

 

 毛布を掛けられ、

 顔にはまだ熱の名残がある。

 

 眠っている。

 

 その傍ら。

 

 もう一人。

 

 床に敷かれたクッションへ身体を預けるようにして――椎名唯華が倒れていた。

 

「……」

 

「な……」

 

 鞄が、

 ずるりと肩から落ちる。

 

 どさっ。

 

 床に落ちた。

 

「なんじゃこりゃ…」

 

 完全に言葉を失った。

 

 事務所に帰ってきたら、

 人間が二人倒れている。

 

 しかも片方は椎名。

 

 普段なら、

 多少の怪異を前にしても平然としている人間が。

 

「え、ちょ……」

 

 笹木はようやく我に返る。

 

「おい、椎名!?」

 

 近づこうとして――

 

 そこで。

 

 ようやく、

 もう一人いることに気づいた。

 

 赤羽葉子。

 

 部屋の隅。

 

 椅子に座っている。

 

「……」

 

 背筋は僅かに丸まり。

 

 両手は膝の上。

 

 視線は床の一点へ落ちている。

 

 完全な放心状態だった。

 

「……ばねさん?」

 

 笹木が呼ぶ。

 

 反応がない。

 

「おい」

 

 もう一度。

 

「ばねさん」

 

「……」

 

 数秒遅れて。

 

 赤羽の口が動いた。

 

 だが――

 

 笹木の方は見ない。

 

「多分……大丈夫です」

 

「何が!?」

 

 即座に笹木が突っ込む。

 

「どこ見て大丈夫言うてんねん! 二人倒れとるやんけ!」

 

「……」

 

 赤羽は、

 それでも笹木を見なかった。

 

 ただ。

 

 椎名の方へ僅かに視線を動かす。

 

「私やりりむと違って、椎名さんは元々膨大な霊力を持ってます」

 

「……は?」

 

「肉体もそんな簡単に壊れたりは……」

 

 そこで赤羽の言葉が止まる。

 

 まるで自分自身に、もう一度言い聞かせようとしているように。

 

「……しない……はずです」

 

「はず!?」

 

 笹木の声が裏返った。

 

「お前いま『はず』言うた!?」

 

「……」

 

「何したん!?」

 

 赤羽は答えない。

 

「何したら椎名がこうなんねん!」

 

「……」

 

「てか、なんでりりむまでおんねん!?」

 

 質問だけが次々飛んでくる。

 

 けれど赤羽は、ほとんど反応しなかった。

 

 ただ椅子に座ったまま。

 

 ぼんやりと気を失っている椎名と、ソファで眠るりりむを見ている。

 

「……」

 

 その表情を見て笹木も、次の言葉だけは飲み込んだ。

 

 赤羽自身にも―本当にこれで大丈夫なのか、まだ分かっていない。

 

 深夜。

 

 事務所には、もうほとんど物音がなかった。

 

 時計の針が進む。

 

 かち。

 

 かち。

 

 かち。

 

 一定の間隔で響くその音だけが、やけに大きく聞こえる。

 

「……」

 

 赤羽葉子は、まだ椅子に座っていた。

 

 帰るつもりはなかった。

 

 少なくとも――二人が目を覚ますまでは。

 

 ソファには、りりむ。

 

 その近くには椎名。

 

 二人とも、まだ眠っている。

 

 時折、胸が上下しているのを確認する。

 

 それを見るたび、赤羽はほんの少しだけ安心する。

 

 けれど、それも数分と続かなかった。

 

「……」

 

 また考えてしまう。

 

 もし自分がりりむと喧嘩しなければ。

 

 あの時もっとちゃんと話していれば。

 

 もっと相手の言葉を聞いていれば。

 

 こんなことには――ならなかったんじゃないか。

 

「……」

 

 赤羽は俯く。

 

 膝の上で、両手を組む。

 

 指先に少しだけ力が入った。

 

 りりむが倒れた原因そのものが、自分との喧嘩だったのか。

 

 それは分からない。

 

 蒼翼に何が起きたのかも分からない。

 

 何も分からない。

 

 その言葉が浮かんだ瞬間――胸の奥に、嫌なものが引っかかった。

 

「……」

 

 まただ。分からない。

 

 知らない。

 

 自分は、いつもそうだったんじゃないか。

 

 ゆっくりと顔を上げる。

 

 暗い窓に、自分の姿が映っている。

 

 その向こうにはビルの廊下。

 

 まだ何ヶ所か、照明が点いていた。

 

「……るるさんも……」

 

 誰にも聞かせるつもりのない声が漏れた。

 

 鈴原るる。

 

 どうして、あんな場所にいたのか。

 

 どうして――自分の前に現れたのか。

 

 それも本当に偶然だったのだろうか。

 

「……」

 

 自分が――引き寄せたんじゃないか。

 

 そんな考えが、突然頭に浮かんだ。

 

 否定したかった。何を馬鹿なことを。

 

 自分とは関係ない。そう言ってしまえばいい。

 

 けれど、できなかった。

 

 ここ最近、自分の周りで起きたこと。

 

 怪異。

 

 閏時。

 

 自分の過去。

 

 そして――

 

 鈴原るる。

 

 稲羽りりむ。

 

 一つ一つはまるで違う出来事に見える。

 

 それなのに、その中心にはいつも、自分がいる。

 

「……なんで……」

 

 赤羽は額を押さえた。

 

 その時。

 

 頭の中に、りりむの言葉が蘇った。

 

 ――全部を知らない。

 

 ――分からないで逃げてきた。

 

「……」

 

 赤羽の表情が歪んだ。

 

 赤羽は、再び二人を見る。

 

 自分がもっと知っていたら。もっと早く分かっていたら。

 

 でもそれすら分からない。

 

 分からないから、確かめることもできない。

 

 赤羽は椅子の背にもたれた。

 

 天井を見上げる。白い天井。

 

 見慣れているはずなのに、今夜は妙に遠く感じた。

 

 どれほど、そうしていただろう。

 

 ふと赤羽が窓を見る。

 

「……あれ」

 

 さっきまで点いていたはずの、廊下の照明が消えている。

 

 ガラス越しに見えるビル内の廊下は、すっかり暗闇に沈んでいた。

 

 人の姿もない。

 

 非常灯だけが、遠くで淡い緑色の光を放っている。

 

 時計を見る。

 

「……こんな時間……」

 

 いつの間にか、随分と夜が更けていた。

 

 赤羽は立ち上がらない。帰ろうとも思わない。

 

 答えは出なかった。

 

 ただ時計の針だけが進んでいく。

 

 かち。

 

 かち。

 

 かち。

 

 誰もいない廊下の向こうで、夜はさらに深くなっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――いつ眠ったのか。赤羽自身にも分からなかった。

 

 椅子に座ったまま、考えて、考えて。

 

 答えの出ないことを延々と頭の中で繰り返しているうちに――

 

 いつの間にか、意識が途切れていた。

 

「……ん……」

 

 赤羽の瞼が、僅かに動く。

 

 重い。首も痛い。

 

 妙な姿勢で眠っていたせいで、肩から背中にかけて完全に固まっている。

 

「……ぅ……」

 

 ゆっくり目を開く。

 

 最初に見えたのは、薄暗い事務所。

 

 昨夜とほとんど変わっていない。

 

 ただ――

 

「……朝……?」

 

 窓の外。

 

 ビルの向こうに見える空が、少しずつ白み始めていた。

 

 深い紺色だった夜空の端に、淡い青が滲んでいる。

 

 まだ太陽そのものは見えない。

 

 けれど確実に夜が終わろうとしていた。

 

「……寝ちゃった……」

 

 赤羽は掠れた声で呟く。

 

 ぼんやりとしたまま、顔を横へ向けて――

 

「……」

 

 目が合った。椎名唯華。

 

 すでに起きている。

 

 しかも、すぐ隣から、赤羽の顔をじっと覗き込んでいた。

 

「……うわっ」

 

 赤羽の身体がびくっと跳ねる。

 

「な、なんですか……」

 

「いや」

 

 椎名は眠たそうな顔のまま、赤羽を眺める。

 

「よう寝とんなぁ思って」

 

「……」

 

 赤羽は目元を擦る。昨夜のことを思い出した。

 

「椎名さん……」

 

 椎名の顔を見る。

 

 少なくとも意識ははっきりしている。

 

 普通に喋っている。

 

「……大丈夫なんですか?」

 

「まあな」

 

 椎名は肩を軽く回す。少し身体の具合を確かめるような仕草。

 

 それから、ふと思い出したように赤羽を見る。

 

「ていうかお前…おかんに連絡くらいせえへんとあかんで」

 

「……え?」

 

「さっき警察がうち来てん…」

 

 赤羽の眠気が、一瞬で少し引いた。

 

「警察?」

 

「せや」

 

 椎名は面倒そうに頬を掻く。

 

「黒髪のショートヘアで、男か女か解らんなんかうるさい奴やったな…」

 

「……」

 

 赤羽は数秒、

 ぽかんとする。

 

「それでここにいるって解って、帰ったんやで」

 

「……え」

 

「あいつ、どっかのスポーツのマネージャーとかの方がよっぽど似合いそうや…」

 

 赤羽はポケットへ手を伸ばす。

 

 スマートフォン。

 

 画面を見る。

 

「……あ」

 

 そこでようやく自分が昨夜、家へ何の連絡も入れていなかったことに気づいた。

 

「……やば」

 

 赤羽の顔が引きつる。

 

 あまりにも色々ありすぎて、完全に忘れていた。

 

 そして。

 

「……あれ?」

 

 赤羽は顔を上げた。

 

 何かが足りない。

 

 椎名はいる。

 

 自分もいる。

 

 けれど――ソファ。

 

「……りりむは?」

 

 いない。

 

 昨夜までりりむが横になっていたソファには、毛布だけが残されていた。

 

 赤羽は辺りを見渡す。

 

 事務所の奥。

 

 机の陰。

 

 給湯スペース。

 

 どこにもいない。

 

 その様子を見て、椎名が何でもないことのように答えた。

 

「先帰ったで」

 

「……帰った?」

 

「うん」

 

 椎名はソファに残された毛布へ視線を向ける。

 

「もう熱も下がっとったし」

 

 赤羽が目を瞬かせた。

 

「……本当に?」

 

「少なくとも昨日みたいなんではなかったで」

 

 椎名はそう答えてから、入口の方を顎で示す。

 

「そいつに送ってもらってな」

 

「……」

 

 赤羽はしばらく誰もいない入口を見つめる。

 

 そしてもう一度、空になったソファを見る。

 

「……そっか」

 

 小さく呟いた。

 

 昨夜。

 

 何度も確認した、りりむの苦しそうな呼吸。

 

 熱に赤くなった頬。

 

 それが――もう治った。

 

「……」

 

 赤羽の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。

 

 窓の向こうでは夜の名残を押し退けるように、朝の光が少しずつ空へ広がり始めていた。

 

 

 

 

 

「……ククク……」

 

 妙な笑い声が聞こえた。

 

「……?」

 

 赤羽が振り返る。

 

 椎名は――ニカッ、と。

 

 やけに満足そうな笑みを浮かべていた。

 

 そして、自分の掌を見つめる。

 

 昨夜までとは違う。

 

 確かに、自分の中に何かがある。

 

 元から持っていた霊力とは異なる、異質な感覚。

 

「ククク……」

 

 もう一度笑う。

 

「なってやったでぇ…蒼翼の魔法使い…」

 

「……」

 

 赤羽はそんな椎名を見つめた。

 

 少しの間。そして――

 

「……ふぅ」

 

 一息つく。

 

「魔法使いとは言いますが、森中さん達とは厳密に言うと別の存在です」

 

 赤羽は淡々と答える。

 

「膨大な力を持つ魔法使いのように見えますが、エネルギーの変換プロセスも、変換をするための術式の組み方も、魔法使いよりも遥かに暴力的で荒っぽいです」

 

「普通の魔法使いが術式を組んで、段階を踏んで力を変換するものだとしたら……蒼翼の力は、それをもっと強引にやる感じです」

 

 膨大な力。

 

 それを扱うための過程すら、力任せに押し通す。

 

 視線を椎名へ向ける。

 

「元々椎名さんは膨大な霊力をお持ちなので、使い勝手はそちらの方が良いと思います」

 

 椎名は窓へ視線を向ける。

 

 ビルの隙間。

 

 夜と朝の境界だった空に、太陽が昇り始めていた。

 

 橙色の光が、ゆっくりと街を照らしていく。

 

 窓ガラスを通り抜けた朝日が、椎名の横顔へ差し込んだ。

 

「……」

 

 椎名は眩しそうに目を細める。

 

 そして

 

「本当に…なんでもお見通しなんやなぁ」

 

 ぽつりと呟いた。

 

「お前、ついこの間まで魔法使いなんか知らんかったやないか」

 

「……」

 

 赤羽の表情が止まった。

 

「それだけやない…」

 

 椎名が振り返る。

 

「霊能力使うだけで怪我したりもしなくなったし、急に千里眼みたいなのもできるようになった」

 

「……」

 

「なんなん?」

 

 責めているわけではない。

 

 ただ本当に不思議そうだった。

 

 以前の赤羽を知っているからこそ、今の彼女との違いが目につく。

 

「前は無茶して力使うたび、指とかボロボロなっとったやん」

 

「……」

 

「それが今は平気な顔しとる」

 

 椎名の目が細くなる。

 

「魔法使いのことも」

 

「蒼翼のことも」

 

「自分で見てきたみたいに知っとるし」

 

「……」

 

 赤羽は答えなかった。

 

 朝日の中。ただ静かに、椎名を見ている。

 

 その顔からは、何を考えているのか読み取れない。

 

「……」

 

 しばらく赤羽の様子を窺う。

 

 赤羽の口は開かなかった。

 

「……」

 

 やがて椎名の方から視線を外した。

 

「まあ……」

 

 椅子から立ち上がる。赤羽のところまで歩いていき―

 

「何があったかは知らんけどな」

 

 肩を叩いた。

 

「あんま気にすんなや」

 

「……」

 

 椎名はそれ以上聞こうとはしなかった。

 

 いつものように、どこか気の抜けた表情で。

 

「過去に何があっても、今は変わらんからな」

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