「……」
机の前で足を止める。
視線の先。
ずっと封がされていた、あの引き出し。
赤羽が振り返った。
「……椎名さん?」
返事はない。椎名は引き出しに貼られていた封へ指をかける。
そして――
べりっ。躊躇なく剥がした。
「あっ……」
べり。べりっ。
次々と封が剥がされていく。
最後の一枚を剥がすと、椎名は引き出しへ手をかけた。
開く。
その中には――古びた新聞が入っていた。
折り畳まれ、長い間そこへ仕舞われていた新聞。
「……」
椎名はそれを取り出す。
広げる。
紙面へ目を落とし――
しばらく何も言わなかった。
赤羽は、そんな椎名の背中を見ている。
やがて。
「……こんなもん知らんわ」
ぽつり。
椎名は新聞を丸めた。
「え?」
赤羽が聞き返すより早く。
ぽいっ。新聞が宙を舞う。
そのまま――ゴミ箱へ。
椎名はまだ終わらなかった。
机の端に置いてあったポットを手に取る。
「椎名さん?」
中には、昨夜から残っていたコーヒー。
椎名は蓋を開けると――
そのままゴミ箱へ傾けた。
「えっ」
どぼどぼどぼ。
黒い液体が、丸められた新聞へ容赦なく降り注ぐ。
「ちょ、何してるんですか!?」
紙がみるみる黒く染まっていく。
インクが滲む。
文字が崩れる。
紙面が水分を吸い、ぐしゃぐしゃになっていく。
もうまともに読むことなどできない。
「……」
椎名は空になったポットを戻した。
それから何事もなかったように、赤羽を見る。
「ばねさん」
「……はい?」
「自分が何をすべきかだけ考えや」
赤羽が黙る。
椎名は、コーヒーまみれになった新聞を振り返らない。
「昔どうやったとか」
「自分が何者やとか」
「そんなもんばっか考えとったら、何もできへんで」
「……」
「今、お前がどうしたいか」
「誰のために何したいか」
椎名は赤羽を見る。
その目には、先ほどまでの探るような色はなかった。
「それだけ考えとき」
そして。
「お前はそれでええねん」
「……」
赤羽は何も返せなかった。
椎名はそれ以上何も言わず、事務所の入口へ向かう。
扉へ手をかける。
「ほな」
扉が開く。
朝の光が、廊下から差し込んだ。
椎名はその中へ歩いていく。そして扉が閉じた。
「……」
一人。
赤羽だけが、事務所に残された。
静かだった。
赤羽はしばらく、閉じた扉を見ていた。
それからゆっくりと、ゴミ箱へ視線を向ける。
自分は何者なのか。何があったのか。
そもそもこの記憶はどこまで本物なのか。
どうして今、ここにいるのか。
まだまだ知らないことばかりだ。
それは――何一つ変わっていない。
「……でも」
赤羽は小さく呟いた。
今まで出会ってきた人達を思い浮かべる。
笹木。
椎名。
森中。
夕陽。
そして。
りりむ。
他にもここまで来る間に出会った、様々な人達。それらは誰かに与えられた記憶ではない。
知らない過去の自分が作ったものでもない。
今の自分が赤羽葉子として出会い、
話して。
笑って。
怒って。
喧嘩して。
少しずつ紡いできた関係だった。
「……」
赤羽は自分の手を見る。
この手が、本当は何なのか。
この身体が、本当は何なのか。
そんなことは――
「……関係ないか」
誰かを守りたいと思ったことまで、偽物になるわけではない。
この関係を守るために戦うことに。
自分が何者なのかなんて、関係ない。
「……」
昨夜とは違う。
胸の中に残っていた重いものが、ほんの少しだけ形を変えていく。
もし。
本当に――今起きていることの中に、自分が引き起こしてしまったものがあるのなら。
鈴原るるのことも。
りりむのことも。
他の何かも。
自分が知らないところで、自分という存在が誰かを巻き込んでいるのなら。
「……だったら」
逃げるのではなく。知らないままにするのでもなく。
せめて自分の手で。
赤羽は顔を上げた。
窓の向こう。
昇った朝日が、ビルの間から街を照らしている。
昨夜までの暗闇は、もうほとんど残っていない。
朝の事務所を出ると、外の空気は思っていたよりも冷たかった。
「……」
赤羽は一度だけ空を見上げる。
太陽は昇り始めている。けれど、街が本格的に動き出すにはまだ少し早い。
普段なら人で溢れているビル街も、今はどこか別の場所のように静かだった。
閉まったままの店。ほとんど車の走っていない道路。
時折、早朝勤務らしい会社員や、ジョギングをする人間とすれ違う程度。
赤羽は鞄を肩に掛けたまま、その中を歩いていく。
昨夜とは違う。何をするべきなのか。
少なくとも――今は一つだけ、思い当たることがあった。
地下鉄の入口。階段を下りる。
まだ人の少ない改札を抜け、ホームへ向かう。
やがて滑り込んできた車両へ、赤羽は一人で乗り込んだ。
扉が閉まる。電車が動き出す。
「……」
車内には――誰もいなかった。
長い座席。
等間隔に並ぶ吊り革。
窓に映る自分。
広告だけが、無人の車内を賑やかに飾っている。
赤羽は座席へ腰を下ろした。
がたん。
ごとん。
規則正しい振動。
地下の暗闇を、電車は走り続ける。
「……」
赤羽は窓へ視線を向けた。
そこに映る自分を見ながら、考える。
(蒼翼の魔法使いの力が弱まってるなら……)
りりむ。昨日の異変。
蒼翼から与えられているはずの加護が弱まり、自分自身の魔力に肉体を蝕まれかけていた。
もし。
それが――りりむだけではないのなら。
(……鈴原さんも)
(もしかしたら……りりむと同じようになってるんじゃ……)
可能性はある。確証はない。
けれど無視するには、引っかかるものが多すぎた。
「……」
赤羽は腕を組む。
本人を探す。
それが一番早い。
しかし、どこにいるのか分からない。
なら。
まずは――
(手掛かりがありそうな場所、探してみるしかないか)
何か残っているかもしれない。
赤羽がそう考えていた――その時だった。
「どこ行くのかな?」
「……」
思考が止まった。
正面。
声。
聞き覚えがある。
いや。忘れるはずがない。
赤羽はゆっくりと――顔を上げる。
「……え」
目の前。
吊り革に片手で掴まり、一人の女が立っていた。
鈴原るる。
「……」
いつからいた。
赤羽には分からなかった。
電車に乗った時には、確かに誰もいなかった。
少なくとも――そう見えていた。
なのに今は当たり前のように、鈴原が目の前にいる。
電車が揺れる。
がたん。ごとん。
鈴原の身体も、その振動に合わせて僅かに揺れた。
吊り革を握りながら、楽しそうに赤羽を見下ろしている。
「あれから、君のことすっごく気になっちゃってさ」
「……」
「どうすれば君に勝てるのかなぁって…ずっと考えてたの」
鈴原が微笑む。
その瞳が――朝の地下鉄には似つかわしくないほど、鮮やかに輝いた。
黄色。
そして――
緑。
オッドアイ。
鈴原はその二つの瞳を輝かせたまま、まっすぐ赤羽を見つめていた。
一定の間隔で響く車輪の音。
赤羽は座席に腰掛けたまま、
目の前に立つ鈴原を見上げていた。
黄色。
緑。
以前とは違う色を宿した瞳。
そして――そこから感じるもの。
「……」
赤羽の視線が、僅かに鋭くなる。
やがて
「食べたんですか、蒼翼を」
鈴原の笑みが止まった。
「……」
一瞬だけ。
何のことか分からないとでも言うように、きょとんと赤羽を見つめる。
しかし――
すぐにその両目が、大きく見開かれた。
「ちょっとだけだよ」
あっさりと。
まるで、誰かのお菓子を一口もらった程度の軽さで答える。
「……」
赤羽は黙っている。
鈴原は吊り革に掴まったまま、楽しそうに続けた。
「でもこれだけ食べたら、しばらくもう元のようには動けないかもね」
「……」
その言葉で。
赤羽の中に、昨日のりりむの姿が浮かんだ。
熱。
荒い呼吸。
自分自身の魔力に、身体を内側から食い尽くされかけていた姿。
――蒼翼の加護が弱まった。
力そのものを――こいつが奪った。
「……そうですか」
赤羽は、それだけ答えた。
その時、車内が僅かに明るくなった。
「……?」
窓へ視線を向ける。
長く続いていた地下の壁が途切れる。
電車が――地下を抜けた。
だが。
そこに広がっていた景色を見て、赤羽の目が僅かに見開かれる。
「……」
街がない。
ビルも。
住宅も。
道路も。
何もない。
あるのは――
山。
山。
山。
どこまでも連なる、黒々とした山々。
そして。
その上に広がる空は――赤かった。
朝焼けとは違う。
夕焼けとも違う。
血を薄く引き延ばしたような、不自然な赤。
雲まで黒く染まり、遠くの山々を覆っている。
「……」
赤羽は窓の外を見る。
電車は、その異様な風景の中を走り続けている。
がたん。
ごとん。
がたん。
ごとん。
誰もいない車内。
赤い空。
そして――
二人。
「……ふふ」
鈴原が笑った。
吊り革から手を離す。
その手を、何もない空間へ伸ばした。
瞬間。
空気が歪む。
黒い何かが、指先から滲み出す。
それは絡み合い。
伸び。
形を作り――
長い柄。
そして。
大きく湾曲した刃。
鎌。
鈴原は出現したそれを、当然のように手に取った。
ずしり。
巨大な刃が、車内の照明を鈍く反射する。
「この前みたいにはいかないからね」
鈴原は笑っていた。
これから始まることを、楽しみにしているような声だった。
「……」
赤羽は鈴原を見上げる。
それから小さく息を吐いた。
「…ちょっとだけですよ」
座席から腰を上げる。
ゆっくりと。
鈴原へ向き直るように、通路へ立った。
赤い空から差し込む光が、二人の間を染めていた。
鈴原が踏み込んだ。
床が軋む。
巨大な鎌が、頭上へ振りかぶられる。
「――っ!」
刃が赤羽めがけて振り下ろされた。
赤羽は咄嗟に床を蹴る。
身体を後方へ投げ出し――
そのまま、バク転。
ぶんっ!!
鼻先を鎌の刃が通過する。
直後。
ガギィンッ!!
鎌が床へ食い込んだ。
車両そのものが大きく揺れる。
だが
「ふふっ」
鈴原は止まらない。
床へ食い込んだ鎌を強引に引き抜くと、そのまま赤羽との間合いを詰める。
「……!」
横薙ぎ。
赤羽が仰け反る。
返す刃。
身体を捻って躱す。
座席が切断され、窓ガラスがまとめて砕け散る。
それでも鈴原は構わず迫ってくる。
一歩。
また一歩。
巨大な鎌の間合いなど関係ない。
まるで、その重さ自体が存在していないようだった。
「……」
赤羽の瞳が変わる。
緑。
そして――赤。
二色のオッドアイ。
瞬間。
赤羽の身体が――消えた。
いや。
飛んだ。
まるで強力な磁石に、身体そのものを引っ張られたように。
凄まじい速度で後方へ。
連結扉を抜ける。
次の車両。
さらに後ろへ。
一直線に、鈴原から距離を取る。
「……」
その姿を見て鈴原は追わなかった。
ただ鎌を片手に持ったまま、もう片方の拳を――
ぎゅっ。
握った。
途端。
赤羽のいる車両の床が膨れ上がった。
「……っ!?」
ばきばきばきっ!!
床を突き破り、黒い何かが噴き出す。
一つではない。
二つ。
三つ。
五つ。
十――
巨大な獣の顎。
黒い毛皮。
並んだ牙。
顔も。
胴体もない。
ただ巨大な“口”だけが、床から次々と生えてくる。
そして。
一斉に――
赤羽へ噛みついた。
ガチンッ!!
一つを避ける。
ガァンッ!!
二つ目。
三つ目。
赤羽が身体を捻るたび、巨大な牙が空を噛む。
だが。
多い。
前。
後ろ。
横。
床。
次々と黒い顎が現れ、逃げ道そのものを潰していく。
(……仕方ない)
赤羽の目が細くなる。
逃げる方向を――変える。
鈴原へ。
どんっ!!
赤羽の身体が再び加速した。
今度は後方ではない。
鈴原めがけて、一直線。
「……!」
連結部分を越える。
鈴原が、楽しそうに目を見開いた。
その瞬間。
赤羽の行く手に――光が走る。
一本。
二本。
十本。
無数の光線。
赤いレーザーが縦横無尽に交差し、車両いっぱいに網目を作る。
さらにその奥。
もう一層。
その奥にも。
何重にも。
避ける隙間など、ほとんど存在しない。
だが赤羽は止まらなかった。
「……」
右手を伸ばす。
迫るレーザーへ、指先が触れる。
――消えた。
一筋だけではない。
そこを起点に。
ばらばらと。
まるで最初から存在していなかったように、光の網が次々と消滅していく。
「……へぇ」
鈴原の口元が緩む。
第二の網。
消える。
第三。
第四。
すべて。
赤羽が通過する直前に、跡形もなく消えていく。
そして――
二人の距離が縮まる。
十メートル。
五メートル。
三メートル。
「……」
鈴原が鎌を構える。
赤羽は止まらない。
そのまま。
両手を――
ぱんっ。
胸の前で合わせた。
瞬間。
車両の空気が変わった。
「……?」
鈴原が僅かに首を傾ける。
直後。
ぼっ。
座席の端に、小さな火が灯った。
それだけではない。
天井。
床。
壁。
吊り革。
窓枠。
次々と。
ぼっ。
ぼぼっ。
炎が生まれていく。
そして――
轟ッ!!
一瞬だった。
炎が車内を走る。
座席を呑み込み。
壁を這い。
天井を覆い。
隣の車両へ。
さらにその先へ。
走り続ける電車そのものが――
猛烈な炎に包まれていった。