こちら、都市伝説研究センターです。   作:えいどら

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最終話

 燃え盛る車内。

 

 窓から吹き込む風に煽られ、炎が天井を舐めるように揺れていた。

 

 赤羽はその中を、鈴原へ向かって歩いていく。

 

「……」

 

 鈴原が目を細める。

 

 そして、すっ、と片手を上げた。

 

 床に散乱していた、割れた窓ガラス。

 

 その破片が――

 

 かたかた。

 

 震え始める。

 

 次の瞬間。

 

 黒いオーラが、無数の破片を包み込んだ。

 

 大小様々なガラス片が宙へ浮かび上がる。

 

 鋭い先端が一斉に――赤羽へ向いた。

 

 鈴原が腕を引く。

 

 そして。

 

 赤羽を自分へ引き寄せるように、勢いよく振った。

 

 ヒュンッ!!

 

 無数のガラス片が飛ぶ。

 

 赤羽の顔。

 

 喉。

 

 胸。

 

 腹部。

 

 全身を貫く軌道。

 

 だが赤羽は避けなかった。

 

 ただ。

 

「もういいですか」

 

 そう言った。

 

 直後。

 

 ガラスから――力が消えた。

 

「……え?」

 

 ぱらぱらぱら。

 

 飛んでいた破片が、すべてその場へ落下する。

 

 そして。

 

 床へ触れた瞬間。

 

 ぱきっ。

 

 ぱきぱきっ。

 

 さらに細かく砕けていく。

 

 最後には、砂のような粉だけが残った。

 

「……?」

 

 鈴原が、僅かに目を見開く。

 

 だが。

 

 異変は終わっていない。

 

 その粉が――

 

 ざら……。床を這った。

 

「……」

 

 鈴原の足元を通り。

 

 黒い鎌へ。

 

 ざらざらざら。

 

 粉が刃へへばりついていく。

 

「なに、これ……?」

 

 鈴原が鎌を見る。

 

 次の瞬間。

 

 ぴしっ。

 

 刃に亀裂が入った。

 

「……!」

 

 ぴし。

 

 ぴしぴしぴし――

 

 亀裂が柄まで一気に走る。

 

 そして。

 

 ばきんっ!!

 

 鎌が砕けた。

 

 刃が。

 

 柄が。

 

 次々と細かな破片へ変わり、鈴原の手の中から崩れ落ちていく。

 

「……」

 

 鈴原は空になった自分の手を見る。

 

 明らかに――

 

 驚いていた。

 

 赤羽はそんな鈴原を見ながら、小さく息を吐いた。

 

「これ以上付き合う気もないので」

 

 炎の向こう。

 

 赤と緑の瞳が、鈴原を捉える。

 

「…お教えしますね」

 

「……?」

 

 赤羽は自分の掌を見る。

 

「私の力の原動力は『変換』なんです」

 

「変換……?」

 

「はい」

 

 赤羽は指先を軽く動かした。

 

「手遊びだけで人を引き裂けるのも、この変換の力を使った手品なんです」

 

「……」

 

「目の前にあるものを、別の何かへ変える」

 

「力の向きを変える」

 

「性質を変える」

 

「結びつきを変える」

 

 淡々と。

 

 まるで自分自身について、初めて整理して語っているかのように。

 

 そして。

 

「……まあ流石に」

 

 赤羽の声が、

 ほんの僅かに沈んだ。

 

「この手品でも赤羽葉子さん本人を生き返らせることはできませんでした」

 

「……」

 

 鈴原の表情が止まる。

 

 赤羽は、自分の胸元へ視線を落とした。

 

「代わりに私自身が赤羽葉子になってしまったようですがね…」

 

「……どういうこと?」

 

 鈴原が聞き返した。

 

 先ほどまでの楽しそうな声とは違う。

 

 純粋な疑問。

 

 赤羽は顔を上げる。

 

「俗に人間が言う『魔法』と言うものを使う場合、それができる遺伝子を持った人間か、もしくはあなたのように何らかの要因でそれができるようになった人間が――」

 

 燃える車内を、赤羽はゆっくり歩く。

 

「変換元と変換先の命の巡りを理解して、それを結合する必要があります」

 

「……命の巡り?」

 

「そうです」

 

 赤羽は頷いた。

 

「何かを別の何かへ変えるなら、その間を繋ぐものが必要になる」

 

「何から」

 

「何へ」

 

「どう変わるのか」

 

「その巡りを理解して、術式として結びつける」

 

 鈴原は黙って聞いている。

 

「魔法使いは、それを学ぶ」

 

「感覚で身につける人もいるでしょうけど、やっていることは同じです」

 

 そこで。

 

 赤羽は自分の身体へ、軽く手を当てた。

 

「でも」

 

「私にとって、その変換や結合のプロセスは身体の一部のようなものなんです」

 

「……」

 

「呼吸するのに、肺の動かし方を一つ一つ考えたりしないでしょう?」

 

「心臓を動かすたびに、血液をどこへ送るか考えたりもしない」

 

「私には、それと同じなんです」

 

 炎が揺れる。

 

 鈴原の黄色と緑。

 

 赤羽の赤と緑。

 

 二つのオッドアイが、炎越しに向かい合う。

 

「たとえば――」

 

 赤羽は床へ視線を落とした。

 

 先ほど砕け散った鎌の残骸。

 

「氷を溶かして水にする、とするのが魔法なら」

 

 一拍。

 

「それに使う熱こそ、私の力の源なんです」

 

「……」

 

 鈴原は何も言わない。

 

 赤羽は静かに、その瞳を見つめ返していた。

 

「輸血と同じです」「……輸血?」

 

 鈴原が僅かに首を傾げる。

 

「はい」

 

 赤羽は自分の掌を開いた。

 

「あなたが魔法を使えば使うほど、私は強くなります」

 

「……」

 

 鈴原の表情から、

 少しずつ笑みが消えていった。

 

「あなたが何かを別の何かへ変える」

 

「術式を組む」

 

「力を行使する」

 

「そのたびに生じる『変換』は、私にとってそのまま力になる」

 

 赤羽は淡々と告げる。

 

「私と戦うために力を使えば使うほど――」

 

 一拍。

 

「私へ力を渡しているのと同じなんですよ」

 

「……」

 

 鈴原は何も言わなかった。

 

 赤羽はふと、以前の出来事を思い出すように視線を逸らす。

 

「だからあいつ――蒼翼は、私に体当たりしてきたんですよ」

 

「……」

 

「下手に力を使うより、その方がまだマシだったから」

 

 炎の音だけが響く。

 

 ごう。

 

 ごう、と。

 

 赤く染まった車内で、鈴原はしばらく赤羽を見ていた。

 

 しかし。

 

 先ほどまであれほど輝いていた表情は、見る見るうちに萎んでいく。

 

 肩から力が抜けた。

 

「……なんだ」

 

 ぽつり。

 

 露骨に落胆した声。

 

「つまらないの」

 

「……」

 

 赤羽は何も言わない。

 

 鈴原は完全に興味を削がれたように、くるりと赤羽へ背を向けた。

 

 その先。

 

 号車と号車を隔てるドア。

 

 先ほどまで普通だったはずのそれは、いつの間にか酷く朽ちていた。

 

 表面は赤茶色。

 

 塗装は剥げ落ち、金属全体がサビだらけになっている。

 

 鈴原はそこへ手をかけた。

 

 がりっ。

 

 ざざざ……。

 

 金属同士が擦れる、耳障りな音。

 

 力任せにドアを横へ滑らせる。

 

 開いた隙間の向こうには、

 次の号車。

 

 けれど炎に揺らめいているせいなのか、そこだけ妙に暗く、奥の様子までは見えなかった。

 

 鈴原が一歩、

 向こう側へ踏み出す。

 

「……」

 

 そのまま行ってしまう。

 

 そう思った瞬間

 

「でもまあ…」

 

 鈴原の足が止まった。

 

「それならいいや」

 

 振り返る。

 

 鮮やかな緑色。

 

 先ほどの凶つような瞳とは違う人間の美しいそれが、もう一度赤羽を捉える。

 

 さっきまでの落胆とは違う。その口元には――ほんの少しだけ、楽しそうな笑みが戻っていた。

 

「私諦めないから」

 

「……」

 

 赤羽は鈴原を見つめ返す。

 

「…どうぞご勝手に」

 

 鈴原はそれ以上、何も言わなかった。

 

 今度こそ背を向ける。

 

 そして。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 暗い号車の向こうへ。

 

 その姿は、次第に闇へ溶け込んでいく。

 

 やがて――

 

 完全に見えなくなった。

 

 

 

 

 

「……ん」

 

 赤羽葉子は、ゆっくりと目を開いた。

 

 眩しい。

 

 最初に感じたのは、それだった。

 

 頬に柔らかな光が当たっている。

 

「……?」

 

 何度か瞬きをする。

 

 目の前にあるのは――見慣れた地下鉄の車内。

 

「……」

 

 赤羽は座席に腰掛けていた。

 

 いつからそうしていたのか、眠っていたらしい。

 

 車内を見渡す。誰もいない。

 

 向かい側の座席も。

 

 車両の端も。

 

 隣の号車も。

 

 人の姿は一つもなかった。

 

 炎もない。

 

 焼け焦げた座席も。

 

 砕け散った窓も。

 

 黒い獣の顎に破壊された床も。

 

 鈴原るるも。

 

 何もない。

 

「……」

 

 赤羽は、ぼんやりと窓の外を見る。

 

 青空。

 

 雲がゆっくりと流れている。

 

 地下鉄のはずなのに、いつの間にか地上へ出ていたらしい。

 

 朝の陽射しが窓いっぱいに差し込み、無人の車内を明るく照らしている。

 

 赤羽は自分の両手を見る。

 

 握る。開く。

 

 それから、

 何でもないように肩を回した。

 

「……最近は終点に置き去りが多いなぁ」

 

 ぼやく。

 

 車両は止まっている。

 

 窓の外を見る限り、どうやらホームに到着してからそれなりに時間が経っているらしい。

 

「乗りっぱなしって本当はダメなんだよなぁ」

 

 赤羽は小さくため息を吐いた。

 

 鞄を持ち上げる。

 

 立ち上がると、開いたままの扉へ向かった。

 

 誰もいないホームへ降りる。

 

 靴底が床へ触れる。

 

 こつ。

 

 その音が、妙に遠くまで響いた。

 

「……」

 

 振り返る。

 

 先ほどまで自分が乗っていた電車。

 

 何の変哲もない。

 

 炎上した痕跡など、どこにもない。

 

 赤羽は少しだけ目を細めたものの、すぐに前へ向き直った。

 

 その時。

 

『――チュン、チュン』

 

「……」

 

 鳥の鳴き声。

 

 けれど、本物ではない。

 

 ホームに設置されたスピーカーから流れる、鳥の鳴き声を再現した音声だった。

 

『チュン……チュン、チチチ……』

 

 朝らしい、穏やかな音。

 

 無機質なホームに響くそれは、どこか妙に作り物めいて聞こえる。

 

 赤羽は一人、ホームを歩いていく。

 

 こつ。

 

 こつ。

 

 こつ。

 

 足音。

 

 鳥の声。

 

 遠くで響く、駅構内の機械音。

 

 それだけ。

 

「……」

 

 赤羽は一度だけ、後ろを振り返った。

 

 誰もいない電車が、青空の下で静かに停まっている。

 

 それを数秒眺めてから――再び前を向く。

 

 そして鳥の鳴き声を再現した音声が響くホームを、出口へ向かって歩いていった。

 

 ホームの端まで歩き、

 赤羽は駅構内へ続く階段を下りていった。

 

 こつ。

 

 こつ。

 

 靴音が階段に響く。

 

 下へ進むにつれて、少しずつ空気が変わっていく。

 

「……」

 

 都会独特の匂い。

 

 コンクリート。

 

 人。

 

 僅かな埃っぽさ。

 

 そこへ駅に隣接した店から漂ってくる、食べ物の匂いが混ざっている。

 

 焼いたパン。

 

 コーヒー。

 

 どこかから漂ってくる、油を使った料理の香り。

 

「……お腹空いたな」

 

 そういえば、昨日からまともに何かを食べた記憶がない。

 

 赤羽は少し考える。

 

「ちょっと帰る前に寄り道していこうかな…」

 

 ぽつりと呟きながら、改札へ向かった。

 

 電子音。

 

 そのまま改札を抜ける。

 

 駅の外へ出れば、先ほどまでとは違う街の喧騒が待っていた。

 

「……」

 

 赤羽は立ち止まり、何気なく辺りを見渡す。

 

 少し前まで、ほとんど人がいなかったはずなのに。

 

 街はもう、ゆっくりと動き始めている。

 

 スーツ姿の会社員。

 

 スマートフォンを見ながら歩く人。

 

 店を開ける準備をしている従業員。

 

 大きな鞄を持った旅行客。

 

 人通りは少しずつ増えていた。

 

 赤羽の横を、何人かが反対方向へ抜けていく。

 

「……」

 

 赤羽は、特に気に留めなかった。

 

 どこにでもある朝。

 

 どこにでもいる人達。

 

 誰かが笑っている。

 

 別の誰かが、

 隣を歩く人間へ何気なく話しかけている。

 

 そんな――本当に何でもない会話だ。食べ物の匂いが、また風に乗って漂ってきた。

 

 そして何事もなかったように――歩き出した。

 

 

 

 

--------------------------------------------------------

 

 

 

 ――数日後。

 

 昼下がり。

 

 街の中心部から少し離れた場所にある、大きな公園。

 

 広々とした芝生。

 

 整備された遊歩道。

 

 その周囲を囲むように、何十年も前からそこにあるらしい木々が立ち並んでいる。

 

 風が吹く。

 

 ざぁっ――

 

 無数の葉が擦れ合い、穏やかな音を立てた。

 

 その中でも、ひときわ高い一本の木。

 

 地上から何メートルも離れた太い枝に――

 

「……」

 

 りりむが腰掛けていた。

 

 片脚をぶらぶらと揺らしながら、遥か下にある芝生を見下ろしている。

 

「……んー」

 

 りりむは自分の掌を見る。

 

 開いて。

 

 握る。

 

 その動作を何度か繰り返してから、小さく息を吐いた。

 

「……やっぱ変な感じ」

 

 そして。

 

 何の前触れもなく――枝から身体を投げ出した。

 

 ふわっ。

 

 重力に引かれ、りりむの身体が落下する。

 

 風が髪を大きく持ち上げる。

 

 地面が急速に迫る。

 

 だが――

 

「……!」

 

 りりむの背中から、桃色の光が溢れ出した。

 

 光は左右へ伸びる。

 

 形を作り――

 

 羽。

 

 半透明の、桃色のオーラによって形作られた翼が大きく開いた。

 

 落下速度が一気に緩む。

 

 ふわり。

 

 風に乗るように。

 

 りりむの身体は、ゆっくりと芝生へ降りていく。

 

 とん。

 

 両足が地面へ触れた。

 

「……」

 

 背中の翼が、光の粒となって消えていく。

 

 りりむは着地したまま少し不満そうに眉を寄せた。

 

「んー……」

 

 できる。

 

 力そのものは、確かに使える。

 

 けれど

 

(やっぱ、しっくりこない……)

 

 自分の中へ意識を向ける。

 

 魔力。そして。

 

 それとは異なる――椎名の霊力。

 

 自分の中にある。

 

 確かに、今は自分の身体の一部として巡っている。

 

 なのに。

 

(なんか……他人の力が混じってるみたい)

 

 当然と言えば、当然なのかもしれない。

 

 元々、自分が持っていたものではない。

 

 あの時、自分の身体を保たせるために、椎名から受け取った力。

 

 扱おうとすると、

 普段の魔力とは僅かに感覚が違う。

 

 思ったより強く出ることもある。

 

 逆に、力を流したつもりなのに、上手く反応しないこともある。

 

「……めんどくさ」

 

 りりむは頬を膨らませた。

 

 けれど使えないままにしておくわけにもいかない。

 

(まあ、何回もやるしかないか)

 

 結局。

 

 試行回数を踏んで、身体に覚えさせるしかない。

 

 りりむは芝生の上を歩き始める。

 

 周囲では、親子連れが遊んでいる。

 

 犬を散歩させる人。

 

 ベンチで本を読む人。

 

 ランニングをする人。

 

 そんな穏やかな光景の中を、りりむは一人で歩いていく。

 

「……」

 

 そして。

 

 また――

 

 あのことを考える。

 

 赤羽葉子。

 

「……」

 

 りりむの顔が、露骨に嫌そうなものへ変わった。

 

(まあ……)

 

 一回。

 

 助けてもらった。

 

 それは認める。

 

 あの日。

 

 学校で倒れた自分を、赤羽が事務所まで運んだ。

 

 助けてもらったのは……そうだけど。

 

 それとこれとは別。

 

 りりむの中では、まだそうだった。

 

 赤羽の態度。

 

 何かを知っているくせに、知らないふりをする。

 

 聞かれても誤魔化す。

 

 都合が悪くなれば、分からないと言って逃げる。

 

(ああいうの、やっぱムカつくし……)

 

 あの無責任な態度は、どうしても鼻につく。

 

 それに――もっと根本的な問題がある。

 

(……あれと仲良くしろって言われてもなぁ)

 

 赤羽葉子。

 

 りりむからすれば――あれは怪物だ。

 

 それも、ただ強いという程度ではない。

 

 自分達とは根本から何かが違う。

 

 あれだけの力を持った存在。

 

 何を考えているのかも。何ができるのかも。

 

 どこまで知っているのかも。

 

 分からない。

 

 一度助けられたから。

 

 それだけで全部を信用して、昨日までのことを忘れて仲良くする。

 

 そんな簡単な話ではない。

 

「……」

 

 りりむは公園の出口まで来る。

 

 芝生が途切れる。

 

 木々の向こうから、街の音が聞こえてきた。

 

 信号。

 

 車。

 

 人々の話し声。

 

 建物に囲まれた、いつもの街。

 

「……ま、いっか」

 

 りりむは小さく呟く。

 

 今すぐ答えを出す必要もない。

 

 無理に好きになる必要も。

 

 無理に仲良くする必要もない。

 

 助けられたという事実は事実。

 

 納得できないものは納得できない。

 

 それだけだ。

 

 そうでなければ、彼女自身にも失礼だろう。

 

 りりむは公園を出る。

 

 そして少しずつ増えていく人の流れへ紛れるように、街中へ歩いていった。

 

「……」

 

 途中で、不意に横道へ入る。

 

 さらにもう一本。

 

 表通りの喧騒が少しずつ遠ざかっていき――やがて狭い裏路地へ抜けた。

 

 古いビルの室外機。壁際に積まれた荷物。

 

 頭上を複雑に走る配管。

 

 昼間だというのに日当たりは悪く、少し湿った空気が漂っている。

 

 その奥に小さな建物があった。

 

「……」

 

 りりむは迷うことなく、入口へ近づいていく。

 

 ウィン――

 

 自動ドアが左右へ開いた。

 

 中へ入る。

 

 外観から想像するよりも、建物の内部は綺麗に整えられていた。

 

 受付らしい場所はある。

 

 だが、人はいない。

 

 りりむはそのまま奥へ進む。

 

 突き当たりにあるエレベーター。

 

 ボタンを押す。

 

 少し待つと――

 

 チン。

 

 扉が開いた。

 

 乗り込む。

 

 そして地下を示すボタンへ指を伸ばした。

 

 扉が閉まる。

 

 低い駆動音と共に、身体がゆっくりと下へ運ばれていく。

 

「……」

 

 りりむは壁へ背を預けたまま、何も言わない。

 

 やがて。

 

 チン。

 

 再び扉が開いた。

 

 そこには――長い廊下が伸びていた。

 

 地上とはまるで違う。窓は一つもない。

 

 白い照明が、一定の間隔で天井に並んでいる。

 

 りりむの足音だけが響く。

 

 こつ。

 

 こつ。

 

 こつ。

 

 そのまま、廊下の奥へ。

 

 いくつかの扉を通り過ぎる。

 

 そして一番奥に近い場所。

 

 重そうな鉄の扉。

 

「……」

 

 りりむはその前で足を止める。

 

 扉を開いた。

 

 中から――

 

 どんっ!

 

 鈍い音が響いた。

 

「……」

 

 りりむは部屋へ入る。

 

 そこは、トレーニングルームのようだった。

 

 ランニングマシン。

 

 ベンチ。

 

 バーベル。

 

 ダンベル。

 

 その他にも、身体を鍛えるための様々な機械が並んでいる。

 

 そして。

 

 部屋の中央近く。

 

 吊り下げられたサンドバッグの前に――鈴原るるがいた。

 

「……っ」

 

 どんっ!!

 

 拳が突き刺さる。

 

 サンドバッグが大きく揺れる。

 

 鈴原はすぐに踏み込む。

 

 どんっ。

 

 どんっ!

 

 右。

 

 左。

 

 また右。

 

 一定のリズムで、ひたすら拳を打ち込んでいる。

 

「……」

 

 りりむは声をかけなかった。

 

 鉄の扉の近くに立ったまま、ただ黙って鈴原を見ている。

 

 どんっ!

 

 鈴原の拳が、もう一度サンドバッグへめり込む。

 

 揺れる。

 

 戻ってくる。

 

 それを片手で受け止め――

 

「……」

 

 鈴原の動きが止まった。

 

 何かに気づいたらしい。

 

 数秒。

 

 そのまま。

 

 そして――

 

 ゆっくりと振り返った。

 

「……」

 

 りりむと目が合う。

 

「……」

 

「……」

 

 沈黙。

 

 鈴原は、少しだけ照れ臭そうな表情を浮かべた。

 

 まるで誰にも見られていないと思っていたところを、見つかってしまったような顔。

 

 けれど次の瞬間。

 

「……!」

 

 その目が大きく見開かれた。

 

 鈴原はサンドバッグへ添えていた手を止めたまま――ただそこに立つりりむを、じっと見つめていた。

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